神楽坂
大学へ進学が決まった年、小田尊は神楽坂を離れた。
その後、何度か訪れてはいたが身を置いた世界の性質上、次第に彼にとって縁の遠い街になっていた。
十六年の刑期を終えて小田尊は今、自分にとって思い出深い地、神楽坂を歩いている。
街は変化を続け尊の心の中にある風景とは全く違っていた。
慌ただしく行き交う人達、その間をお構いなしに走り抜けていく自転車。
車道には横切ることを許さない数の自動車にバイク。
あの頃の、ゆったりとした風情は何処にもない。
坂を上りきった左手には、毘沙門天を祀る寺があった。
改築が繰り返されたのだろう、寺の構えは見違えるほど立派に成っている。
寺の前から、尊は来た方向へ坂を下りた。
記憶を辿りながら、徳田の店を探す。
見憶えのある路地のところで左に折れて直ぐに《SAKA》と書かれた旧びた看板が目に止まる。
尊は徳田の店を見つけた。
ドアを開け中に入る。
店内に客の姿はなかった。
カウンターの内側で、洗い終わったグラスを拭きながら、後ろの棚に並べている男が一人。
徳田修二だ。
ドアが開くのを感じ、背中を向けたまま尊とも気づかないで『いらっしゃい』と声を出す徳田。
振り返ると、そこに小田尊が立っていた。
『どうも』と徳田が言い、『どうも』と尊が応える。
最後に会ったのは二十年以上前の事なのに、気の利いた言葉はお互い見つからない。
空白の長い時間を埋めるための挨拶もないまま、尊は徳田の淹れた珈琲を黙って飲んだ。
『永かったなぁ、尊。』
『あゝ』
『お前、カタギになったんだって。』
『なんで知ってる。』
『バスケ部の本間って、判るだろ。』
『あゝわかる。あいつは何で知ってるんだ。』
徳田は、本間が喫茶店の中で偶然、尊の話題をしているヤクザ達の会話を耳にした事を話した。
それから、尊が特に仲良くしていた何人かの近況を伝えた。
『そうか皆んな元気なんだなあ。』
『近い内に声かけて集めるから、喜ぶよ皆んな。』
『出所祝いか?』
尊は、悪戯っぽく笑った。
徳田も、笑った。
店の中の空気が、少しだけ昔を取り戻した。
道路に面した窓から射し込む陽の光が夕陽の色に変わった頃、『また来るよ。トクに相談したいこともあるんだ。』
尊は、中学生の時の呼び方で徳田を呼んだ。
『そうか、待ってるよ。』
『じゃあ。』
出て行こうとする尊の後姿は、長い刑務所生活の規則正しい毎日と栄養管理の行き届いた食生活の為か、年齢よりもずっと若く見えた。
徳田は、もはや収拾のつかないほどせり出した自分の腹をさすりながら、自嘲的な笑みを浮かべた。
その日の深夜。
徳田の店から、出所後の住まいになったマンションに戻り、軽く腹拵えを済ますと疲れが出たのか、尊はリビングのソファで眠りに落ちてしまう。
仁和会の佐々木から与えられた、やたらとリビングの広い3LDKのマンションを、独り暮らしの尊は、さっそく持て余していた。
ここに住むようになってから、寝室よりもソファで眠った回数の方が多かった。
尊は夢を見た。
何処からか、母が自分を呼ぶ声が聞こえて来る。
《タケル!起きなさいタケル!まったく毎日毎日、誰に似たんだろうね、嫌んなちゃう。》
朝だ、起きなくては。
眼が開かない。
睡い、なんでこんなに睡いんだろう。
《タケル!いい加減にしなさい!》
寝惚け眼で服を着る。
階下に降りて洗面所へ。
歯磨きと洗顔。
鞄を抱えると食卓の上にある焼き立ての食パンを咥え玄関を飛び出す。
後ろから、母の罵声が追いかけて来る。
石畳の路地から、舗装された広い道へ出ると左に曲がってゆるい坂を駈け上がり、狭い道が交差する場所へ。
小雨の中、水色の雨傘が揺れている。
酒井千夏が、尊を待っている。
傘を傾け、尊の姿を見ると、恥ずかしそうに微笑んでから、『おはよう』と小さな声で言う。
円らな瞳。
長い睫毛。
清しい声。
優しい仕種。
千夏を創り上げている総てが、この世の中で最も美しい集合体だと、十四歳になったばかりの尊は思った。
通学路を、ただ黙って歩いた。
胸が、苦しい。
その苦しさは心地良く、幸せな気分に包まれる。
幼さない恋。
校門の前迄来たとき、尊は千夏に声をかける。
《日曜日に佳作座、行かない。》
尊の背後を歩いていた千夏は、すこし驚いたように、そして嬉しそうに黙って微笑んでいた。
尊はまた、千夏に同じ言葉をかけた。
笑顔の千夏は黙ったままだった。
尊は、何度も、何度も千夏に呼び掛けた。
千夏は何も言わず微笑んでいる。
何も言わない千夏に尊が焦れて来たとき、千夏の姿が遠ざかり始める。
微笑んだまま、千夏の姿はどんどん遠ざかっていく。
尊は追いかけるが、千夏との距離は開くばかりだ。
千夏の名前を呼ぼうとするのだが声が出ない。
そして、尊は目覚める。
刑務所の中にいた頃は、よく千夏の夢を見たが、出所してからは、初めてだった。
〜なんであの時、千夏は何も言ってくれなかったんだ〜
ながく暮らした街を歩き、古い友人と会い、尊の記憶の奥にしまいこまれていた想い出が呼び醒まされたのかも知れない。
彼女は今、何処にいるのだろう。
陽が昇り始めて部屋の中が明るく成って来たのを感じ、眠ってしまったソファから、尊は身体を起こした。
懐かしいと思う気持ちは少しだけ、逢いたいと思う気持ちに変化していることに尊は気づいていた。