新たな進路
都内のホテル、その一室。
小田尊がソファに腰掛けている。
10分ほど時間が経った頃テーブルに置いた携帯電話が振動する。
『小田です。わかりました。失礼します。』
相手の言葉に簡潔に応え、通話は終わった。
しばらくすると玄関のチャイムが鳴る。
ドアを開けると、仁和会の工藤が立っていた。
『会長がお見えです。』
と会釈して中に入って来る。
『遅く成ってすまないなあ尊。』
着物姿の佐々木が、笑顔で入って来た。
その背後に、もう一人尊の知らない若い組員が、大きなキャリーケースを引き摺りながら続く。
本部の会長室で引退の意思を告げ、佐々木に了承されてから七日さが経っていた。
カタギに成った尊の前の工藤の態度は、明らかにそれまでのものとは違っている。
『工藤、席外してくれ。』
『わかりました。』
工藤は佐々木の言葉に従い若い組員を促して席を立ったが、ドアの前で振り返ると佐々木に深々と頭を下げ姿勢を戻すときに一瞬、尊に視線を向けたがその眼には、憎悪と侮蔑の色が浮かんでいた。
大きなキャリーケースを挟んで、二人は言葉も少なく、沈黙だけが静かに流れていた。
『尊、俺も隠居しようと思って。』
『組は、大丈夫ですか。』
予想もしなかった佐々木の言葉に、少なからず驚いた尊だったが、佐々木は笑みを浮かべながら話を続けた。
『お前が、足を洗うという話を聴いてるうちに俺もそろそろって気になった。
もともと尊に貰った命だからな。』
人間は、周囲には理解出来ないようなことで、心を折られたり決心がついたりすることがあるが、佐々木も尊が長い懲役を終え引退するという出来事が決断の切っ掛けとなったのかも知れない。
尊に異論を挟む余地など有るはずもない。
しかし、大きくなり過ぎた仁和会の事を思うと、今が佐々木の引退の好機とは思えなかった。
『尊、お前は仁和会にとって大功労者だ。
仁和会が続く限り、それは消えない。
消しちゃあならないんだ。』
そう言ってから、ひとつ溜め息を吐いた。
また、チャイムが鳴り、ルームサービスが、佐々木の好物のロイヤルハウスホールドに、キャビアを持って来た。
工藤の手配なのだろう。
二人は、静かにグラスを傾けた。
『時代の流れで人も変わる。
初代の創った精神がそのままでいくのは難しい。
変わる事は当然だし悪いことではない。
悪く変わらなけりゃあな。
どんなにいろんな事を変えたとしても、変えてはならないものはある。
それが伝統になり歴史になる。
伝統を守り継承し、それを土台にして発展する組織は強い。
俺は、自分の名前を残したいとかで言ってるんじゃない、長い間に俺や組の為に殺されたり懲役に行ったり辛い思いをした奴は多勢いる。
其奴らの苦労の上に今があることを忘れてはいけないんだ。
忘れちまったら、皆んなの苦労が無になっちまう。』
佐々木の横顔に哀しみが浮かんでいた。
侠気の世界を生き抜いた男の心が見えた瞬間だった。
『お前がカタギに成っても、俺が生きてるうちは、俺が支えになるが、俺のお前に対しての気持を必ず引き継いでくれる奴がいるかどうかは解らねえ。
俺の死んだ後にお前を風下に置くような、不心得な奴が出てくるかも知れない。
だからと言っちゃあなんだが、これが俺に出来る精一杯のことだ。
これだけは、断ることは許さねえからな。』
佐々木は眼でキャリーケースを指した。
尊は、佐々木の真心を受け取った。
その日、佐々木は二億の現金と、四谷のマンションの鍵と、《井上真改》の銘のある脇差を尊に渡し上機嫌で帰って行った。
『帰ってみるか。』
一人になった部屋で尊は、そう呟いた。