マドロウの事件簿
どうしてこうなった。
雨が降り頻るなか、男は紫煙をきっかり十二秒かけて吐き出す。ツギハギが見える屋根に落ちる大粒の水滴が周囲の音をかき消す。どこかで男の叫びが聞こえる。彼は一体どのような夢を見たのだろうか。玄関前に屋根はあるが、吸い殻入れは見当たらない。男はフィルターの際まで吸って辛くなった紙の筒を足でふみ、建物に入る。
中は古い内装を所々残した陰気な場所だった。ホールの奥に続く階段を上り、建物の左側に向かう。その先は客室が並んだ廊下だった。そのうちのひとつ、廊下の突き当たりの左の扉が開いている。男はそこへ向けて廊下の真ん中を堂々と歩く。部屋の中には一組の男女がいた。
「よお」
男は帽子を引き下げ、目元を隠す。女性の方が彼の来訪に気づき、微笑みかける。
「刑事さん、ご機嫌よう。もうお互い顔見知りなのですから隠さなくてもいいのではなくて?」
彼女の足元には男がころがっている。そうだ、その表現が正しい。彼は目を包帯で巻かれ、両手と両足を縛られている。包帯には血が滲んでおり、頭部からあり得ないほどの量の血が出ている。もうすでに彼女の仕事の大半が終わってしまったことを示していた。
「今日もそんなことをしていたのか。非番の日にあんたと鉢合わせするこちらのことも考えて欲しいもんだ」
「あら、今なら現行犯で捕まえることができますよ」
「残念だなあ、非番の日だから拳銃も手錠も持ってきてない」
男はポケットを裏返して何も入っていないことをアピールする。
「こんなか弱い女性を取り押さえるのにそのような物騒なものは必要ありませんよ」
彼女はおかしそうに笑って彼の目の包帯を慎重に取り除く。そこから現れたのは死んだ人の目だ。しかしその目に浮かんでいるのは犯人に相対した時の闘争心でも、ましてや自分が今から殺される恐怖でもない。その人が自身の人生の中で浮かべた中でもとびっきり(だと思われる程)の笑みである。泡を吹いた彼の口元は口角が吊り上がっていることだろう。それは心の底から狂気に満ちており、男は苦笑いを抑えられないでいる。
「確かにそうだな。同期の中であんたが人の頭をかち割ることができる怪力の男だと断定されていなければ、の話だが」
彼女は彼の話を聞きながら倒れた男の目の中を覗き込む。彼女はこの暗闇の中でわずかな光を頼りに何を見出すのか。
「今日のこの方の目は綺麗ですね。引き摺り出された感情、今際の時のこの上ない幸福感。スタンダードな状況が凝縮されたお手本のような死体です」
彼女は男の口元の泡を取り除いたり、身体中を弄り、メモを書き記していく。そして、いつものように彼の目を覗き込み、息を吹きかける。
「もう気は済んだか? 俺は帽子で前が見えなかった。ここに着いた時には死体しか見当たらなかった、それでいいだろ」
「いつものストーリーですね。疑われないのですか?」
彼は再び帽子を被り直し、彼女に背を向ける。
「死体発見の連絡は死亡時間の二日後、証人は雇った第三者に任せる。半年はバレない。あんたもそれまでにここから離れることだ」
「刑事さん。どうしてここまでするのですか?」
彼は鼻を鳴らしたきり、立ち去る。
翌々日、警察署内は騒がしかった。最近何かと話題の『雷神』についての事件だった。若い男が喫煙所にいる中年の男に声をかける。
「アレスさん、また出ましたってよ」
「何がだぁ?」
「知らないんですか? 例の『雷神』ですよ。死んでいる人の顔が漏れなく笑っているってやつですよ」
「そうか。で、それが仕事をサボる言い訳にできると思っているのか?」
睨まれた中年男に愛想笑いをしながら若い男はタバコに火をつける。喫煙所のぼやけた空間がさらに密度を増す。
「そういえば、出たといえば『例のヤツ』出ましたよ」
「もうか。この前はいつだったかな」
後輩の話を聞きつつも、彼の心は外に出向いていた。
午前中の業務を終え、昼食もそこそこに本屋に向かう。仕事のために図書館に行くことはあるが、自身の娯楽のために本を見に行くことはほとんどない。出入り口付近で平積みされている本を手に取り、レジに持っていく。ブックカバーをつけてもらい、会計を済ませ、近くの公園で中身を開く。
それはとある探偵の話だった。実在を錯覚するほど作り込まれた人物、リアルな警察の捜査やそれを掻い潜る動きの犯人と探偵。しかしそれよりも重要なものは犯行現場の緻密な描写だ。そしてそこから犯行を導き出す手法は鮮やかで、官能的ですらある。
ページを飛ばして読み、昼休み終了の十分前に読了。缶コーヒーを傾け、ひと息つきつつ話を整理する。出版社もその素顔を知らない作者はいつも感想を要求するのだ。
「謎の人気作家、か」
男は頭頂の薄くなった頭にくたびれた茶色の帽子をのせ、ベンチから立ち上がる。