2
パジャマ姿で台所へと現れた彩音が寝惚け眼でテーブル前の椅子に腰かける。
正面に座る龍王院春人、40歳がニヤッと笑った。
「間に合うのか?」
春人の四角い眼鏡レンズがキラリと光る。
端正な顔立ちに浮かぶのはいたずらっ子のような表情。
この春人、元々は資産家の龍王院家の長男として生まれたが、24歳で屋敷のメイド風香と駆け落ちし、すぐに結婚。
現在は古本屋店主として細々と生計を立てる男である。
彩音は無言で頷き、眼の前に置かれたトーストにおもむろにイチゴジャムを塗った。
サクサクと良い音を立て、あっという間に2枚をたいらげる。
「はい! 彩音ちゃん!!」
そう言って春人より5歳下の妻、風香が出来たばかりの目玉焼きを乗せた皿をサラダとオレンジジュースと共に、彩音の前にサッと置く。
これにも彩音は無言で頷き、瞬時にサニーサイドアップを片付け、サラダを掻き込み、ジュースを一気飲みし、きりりとした顔で立ち上がる。
新聞を読み始めた春人が彩音に声をかける。
「顔はいっぱしだが、まだ寝惚けてるだろ! その格好で登校するつもりか!?」
彩音がゆっくりと自分のパジャマ姿に視線下ろし、ハッとなる。
慌てて部屋へと飛び込み、数分後に星雲学園の制服姿で戻ってきた。
着替えの速さに「お前はマジシャンのアシスタントか!?」と春人がツッコミを入れる。
「違うよ」と彩音。
真顔だ。
「知ってる!」
春人が呆れた。
彩音が右手に持った鞄を椅子に置き、洗面所で歯を磨き、顔を洗った。
鞄を再び手に取って、玄関にある古本屋へと続く引き戸を開けようとする。
「待って!!」
風香が慌てて彩音に声をかける。
彩音の前に立ち、弁当箱を差し出した。
「はい、忘れ物」
ショートカットを揺らし、愛嬌溢れた笑顔で言った小柄な風香が彩音の身だしなみをチェックする。
その最後に彩音の顔をじーっと見つめた。
「オッケー! 今日もとっても綺麗よ、彩音ちゃん!!」
100%満開の風香のスマイル。
褒められた彩音は無言だが、その頬はほんのり桜色に染まる。
鞄に弁当箱をしまった彩音が、今度こそ引き戸を開ける。
そのまま古本屋へ飛び出す。
いや、ピタリと止まった。
振り返って、側に立つ風香と奥で新聞を読む春人に頭を下げる。
「行ってきます、春人さん、風香さん!」
「車に気をつけてね!」
風香が手を振る。
春人も新聞から眼を離し、彩音を見ながら右手を軽く振った。
彩音はそれを確認すると、古本屋の玄関から外へと走りだした。
彩音は決断を迫られた。
家から学校へと向かう途中の横断歩道。
2mほど先を低学年の小学生男児が青いランドセルを揺らし、歩いている。
もちろん、前方の信号は青。
しかし今まさに、右側から。
1台のトラックが猛烈なスピードで突っ込んでくる。
このままでは小学生男児は確実にトラックにはねられるだろう。
彩音は決断せねばならない。
すなわち傍観するか、我が身をなげうち、少年を助けるか?
今から跳び込み、男児を抱き抱えトラックをかわす…無理だ。
それだと2人とも轢かれる。
走る勢いで少年を突き飛ばさなければ、助けられない。
そして一番の問題は、悩んでいる時間がないことだ。
現実には彩音の葛藤は瞬間の中で行われている。
もう。
決めなければならない。
彩音の身体は自然と前に駆け出していた。