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そもそも横転したバスから外に出るには、彩音には届かない位置、反対側のガラス窓を抜ける必要がある。
身長が低く筋力もない彩音は、そこまで登れない。
「「彩音…」」
夫婦を絶望が襲った。
もし燃料に引火すれば、自分たちはおろか彩音も命を落とす。
せめて娘だけでも脱出させたい。
2人の思いは同じだった。
そのとき。
「大丈夫ですか!?」
頭上から男の声がした。
横になった座席を足場に、空中から顔を出した20代後半の男。
その後ろに男より若い女も顔を出す。
2人とも青ざめた顔。
「今、助けます!!」
男が夫婦と彩音の側へと下りてきた。
男は同じバスの乗客と思われる。
身体のあちこちに細かい怪我を負っているが、彩音と同じく奇跡的に軽傷で済んだようだ。
男は夫婦の様子を一目見て、表情を曇らせた。
とても自力で動ける状態ではない。
かといって細身の男では、この夫婦をバスの外に運び出すのは不可能。
「人を呼んできます!!」
男が上に戻ろうとした刹那、彩音の父親が「待ってくれ!!」と重傷とは思えぬ、はっきりとした声を出した。
死力を振り絞った叫び。
今、この機会を失ってはならない。
そんな予感があった。
上りかけた男が止まる。
「娘を…彩音を先に外へ…」
「お願いします…」
夫婦の頼みに、男は傍らの彩音を見た。
夫婦に視線を戻し、迷いの表情を浮かべる。
しかし、それも束の間。
男は泣き続ける彩音を抱き上げ、上に登った。
上から覗き込んでいた女が両手を伸ばし、男から彩音を受け取る。
「娘さんを安全な場所まで運んだら、帰ってきます」
男が夫婦に言う。
2人は弱々しく頷いた。
娘を託せたからか、張り詰めていた気力の糸が切れつつあるのかもしれない。
男と女は協力し合い、彩音をバスの外に連れ出した。
辺りは騒然として、ようやく駆けつけたパトカーや消防車のサイレンが、けたたましく鳴り響いている。
安全と思われる、ある程度の距離を取ったところで男は女に彩音を預け、消防車から降りた隊員の1人に「バスに人が」と声をかけた、その瞬間。
バスが、ものすごい炎を上げた。
呆然となった男と女が見つめる中、間髪入れずに爆発が起こる。
皮膚がじりじりとする熱風が男と女、そして泣き続ける彩音の全身に吹きつけた。
病院で手当てを受けた彩音は両親の居ない不安から、やはり泣き止まなかった。
看護師の青年があやそうとするが、上手くいかない。
そこに彩音を助けた男と女が現れた。
2人とも治療を受けたようで、所々に手当ての跡がある。
2人の後ろでは女性看護師2人が「縁者の方は?」「ご両親ともに身内が居られないんです」「そんな!」と話している声が聞こえる。
それを聞いた男女の表情が曇った。
2人は顔を見合せ、何かを通じ合わせたように同時に頷くと、彩音の目線にまで腰を落とした。
「彩音ちゃん」
男が呼びかけた。
彩音の頭に手を置き、優しく撫でる。
激しく泣きじゃくっていた彩音が、ほんの少しその勢いを弱めた。
男の瞳を見つめる。
「彩音ちゃんのお父さんとお母さんは、お仕事で遠くに旅に行ったんだ。しばらくは帰って来ない」
男の言葉を彩音は理解した。
両親が居ない。
その不安で再び悲しさが、こみ上げてくる。
シンプルな恐怖。
彩音がまた泣きだす寸前に、男が言葉を続けた。
「でも大丈夫。お父さんとお母さんが彩音ちゃんを迎えに来るまで、お兄さんと」
男は横に立つ女を指した。
「このお姉さんが彩音ちゃんといっしょに暮らすから。安心して」
そう言って、男はニコッと笑った。
女も同様に笑顔を見せる。
2人の顔を見つめる彩音は、ようやく泣き止んだ。
これが彩音と龍王院春人、風香夫妻の出逢いだった。




