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再びサイラスがため息をつき、母親の肩にそっと手を置いた。
「現実を見てください。我々の王国は一夜にして、裏切り者の大臣たちに簒奪され、魔法の指輪の力で辛うじてこの世界に逃げのびたのは私と母上、そして召し使いの2人だけ。今は打つ手がありません」
「むむむ…」
マレーネが唇を噛む。
「あなたは悔しくないのですか!? 陛下の安否も分からず、若妻も殺され」
「「王妃様!!」」
マレーネの言葉にメグとモグが反応した。
マレーネがハッとする。
使用人の無礼も咎めず、口を閉じた。
マレーネの眼前に立つサイラスの顔が、何とも複雑な悲しみの表情を浮かべていた。
台所が重苦しい静寂に包まれる。
「サイラス王子…いえ、英雄様!!」
モグが呼びかけた。
「朝ごはんをお食べください! 学校に遅れてしまいます!」
その言葉で、とりあえずは不穏な雰囲気が払拭された。
サイラスがモグの出した朝食を食べ、その後で歯を磨く。
マレーネはメグの入れた紅茶を優雅に飲むだけで、ずっと黙っていた。
サイラスの身支度が終わり、モグの差し出した弁当箱を受け取る。
「母上、行ってきます」
サイラスの言葉に「ええ」とマレーネが頷く。
サイラスが玄関に向かい、モグが続いた。
マレーネとメグだけが室内に残る。
玄関のドアが閉まる音を聞いたマレーネが「あの子」と口を開いた。
「まだ立ち直れてないのね」
サイラスたちが別世界カルナディアから、王家に伝わる魔法の指輪の力を使い、龍王院彩音が住むこの街に逃亡してきたのは3ヶ月前。
最初のうちは帰る国を失ったショックに皆、打ちひしがれ何ひとつ手につかなかった。
しかし4人は生きねばならない。
覚悟を決め、まずは新しい世界の情報を出来る限り集めた。
幸いカルナディアでの魔法はこの世界でも効果を発揮し、難なく事は進んだ。
1ヶ月後には世界の仕組みは、おおよそ理解できた。
故郷カルナディアは今居る世界で言うところのRPGの舞台に似ていた。
科学は存在せず、剣と魔法が支配する世界。
異世界へ移動する魔法は4人とも習得していないため、この日本という国で生活を始めるしか選択肢は無かった。
まずは住む家だ。
逃亡する際に持ち出せた宝石類を換金すると、かなりの金額になった。
マレーネは王族に相応しい豪華かつ大きな住居を希望したが、サイラスはそれを却下した。
目立ちすぎては良くない。
裏切った大臣たちが魔法で追跡してくる可能性はゼロではない。
慎重に慎重に行動せねば。
思案の末、そこそこの広さのマンションの一室を借りると決めた。
契約時の不動産屋には、申し訳ないがこちらが正式な手続きをしたと魔法で思わせた。
この国で必要な身元を証明するものが無いのだから、やむを得なかった。
次にサイラスは高校に通うことにした。
私立星雲学園。
やはり、この世界に溶け込むためだ。
実際サイラスは17歳なので、学園教師や事務方を記憶操作し、すんなり編入に成功した。
サイラスとしてはメグとモグも小学校に通わせたかったのだが、身の回りの世話係の2人の時間が無くなると怒りだしたマレーネの剣幕で保留となった。
しかし、サイラスは諦めていない。
自分たちの世界カルナディアに帰れる確率は限りなくゼロに近い。
ということは、メグとモグはこちらの世界で生活し続けることになる。
2人とも、この世界の人間との交流が必要だ。
最終的には極力魔法に頼らず、生活していければ理想なのだが。
(母上を説得してメグとモグを学校へ通わせなければ…そうだ、母上にも仕事をしていただくか。そう言えば近所のスーパーがパート募集してたな)
サイラスは想像してみた。
スーパー店員の格好でレジ打ちするマレーネ。
にこやかに接客するマレーネ。
パート仲間に「和子さん、綺麗よねー」と褒められ、照れるマレーネ。
サイラスは首をブンブンと横に振った。
(すごい違和感だ…)