駈けよ、遠い夢の中で――アネクドート小編1
優雅に麗しく、かつ淑やかに。いくら言われても、できないものはできない。
馬の横ににへばりついたまま、ナイラは抗議した。
「おかしいでしょう? こんなに足を上げて、それでどうして淑やかなんて言えるの。有り得ないわ」
「はいはい、いいからさっさと乗って」
騎士の冷たい声の鞭が、ナイラの背に飛ぶ。怒っているわけではないが、そろそろ馬を走らせたいので、きつくなるのもやむを得ない。
夕暮れにはまだ間があるにしても、訓練を始めた昼から今まで、ナイラたちは馬の鼻面から尾までの狭い範囲をぐるぐる回っているだけだった。騎乗者がもう少し活動的ならば、草原を走り出せていたのにと、馬の目の倦んでいるのが、騎士には見えている。
「騎士のように、飛び乗れって言ってるんじゃないんですよ。このままじゃ、城にも戻れない」
「えっ。行きみたいに、貴方の前に乗せて……くれないの」
騎士の短い黒髪が、無情にも横に揺れた。
(これでも王女付きの侍女だというのに、この仕打ち……)
心の中で毒づいたところで、状況は変わらない。
よく晴れた秋の風は乾いて心地よく、わずかに枯れた草地は広々としてどこまでも行くに相応しい。
しかし、ナイラにとっては遠くに見える灰色の城壁の中、歴史を折り重ねた王宮の方が乗馬より親しいものだった。もちろん十六にもなれば、セヴァクの貴族女性として、乗馬が必要な嗜みであることは充分に分かっているのだが。
「お隣のアルダートのように、女性は一人で外に出ない……というつもりなら、馬に乗れなくても良いけどね。黒曜姫様がお出かけの間、寂しく城に残ってるつもりかい?」
「嫌、そんなの。一緒にいるのが侍女というものよ」
「じゃあ乗れ」
面倒になってきたのか、騎士の言葉遣いも粗雑になる。
ナイラは涙を浮かべ馬を見た。長い顔だ。この細長さが風を切るのに役立つのかもしれない。
「逃避するな」
「なんで分かったのっ」
「見る場所が違う」
と、騎士は素朴な輪だけの鐙を指さした。
これに足を掛け、背帯の上に跨り、手綱を握って、はいどうどう。切れ長の目が単純だろうがと無言で示す。
逃げ道をなくしたナイラは、決死の思いで輪に足を掛けた。あとは軽やかに跳躍し、馬上へとおさまる。敬愛する王女の動きを真似れば良い。
「あ? 待って? 待っ……動かない、でっ」
蒼穹の下、緑の大地が小さく揺れる。少し離れた場所で草を喰んでいた騎士の愛馬が、煩そうに耳を伏せた。
秋の乾きより渇いたため息が、ナイラの上に降った。
「もういいよ……馬じゃなくてロバに乗れば」
「嫌あああっ」
悲しい少女の叫びが草原に吸い込まれた。
**
黒曜の輝きを名に奉じたセヴァクの王女ギシェルは、うなだれて部屋に戻ってきた侍女を見て、吹き出すのを必死でこらえた。
たっぷりとした長袖から覗く両手首には包帯。左手などは、指先までをぐるぐると巻かれ、何やら白い手袋を穿いているかのようだ。
さらに片足首にも、添え木を当てて包帯が巻いてある。幸いにも折れてはいないらしく、白い仔熊のような足がぽてぽてと歩いていた。
侍女として幼い頃から王宮でともに育った貴族の娘、ギシェルにとっては妹のように大事な少女だが、まだまだ貴婦人には遠い。
「その様子では、まだ一緒に遠乗りに行けないわね」
ナイラは赤面して、手をさっと後ろに隠した。
「平気です。これくらいすぐに治ります。そうしたらまた……練習……」
したくないという気持ちが、消え行く語尾だけでなく顔にもありありと浮かんでいる。
ギシェルは、ナイラが見かけの態度以上に落ち込んでいると知り、同じ長椅子に座らせ肩を抱き寄せた。
「魔法使いにすてきなお茶を頂いたの。飲んだら気持ちも落ち着くわ。せっかくだから、お城にいらっしゃる間に、傷に良い薬を出してもらいましょう。ちゃんと治さないと踊るのだってできないもの。それは困るでしょう?」
ギシェルの思わせぶりな言葉は充分に効果を見せ、ナイラの頬に羞恥とは異なる赤みが現れた。
「今度の冬の舞踏会は、わたしも……でられますか?」
「あなたも十六になったのよ? 当然よ。どんな刺繍で衣を飾ったら良いかしら。きっとたくさんの貴公子が誘ってくるわ」
包帯を捲いたのも忘れて、ナイラは頬に手を当てた。
セヴァクは荒涼とした長い冬の間を、華やかな社交の季節とする。その中で最も注目されているのが冬の舞踏会――少女達が結婚できる年齢になったことを披露する催しである。それは王宮のみならず、地方の公領でも、鄙びた村でも行われる、少女達が心待ちにするものだ。
参加できるのは、その年十六歳になった者。
去年、先に十六となった王女が着飾り、王宮の広間へと向かう背を見送った冬の寂しさを、ナイラはよく覚えている。だが今年は、ナイラがその見知らぬ輝きの中に入って行くのだ。
うっとりとしたナイラの鼻先に薬品の匂いが届いた。
「き……貴公子なんて! わたしは侍女です。まずは姫様が、立派な夫を選ぶのを見届けたいと思います!」
「あら、別に構わないのよ? お相手って、わりと早いもの順ですもの」
「姫様……その言い方は危険です。なんだかこれからお会いする方が、残りものっぽく聞こえます」
うふふと笑う王女の美貌が怖い。ナイラは見なかった振りをして、卓上のお茶を手に取った。綺麗な若草色のお茶の爽やかな香りが漂う。
「姫様は……次の女王になられる御方です。できればわたしは……ずっと侍女として、おそばにいたいです……」
「どうしたのナイラ。どこか遠くのひとに嫁げと言われたの?」
ギシェルの顔から笑みが消える。自分の知らないところで、侍女の政略結婚が決められたのかと憤る表情だ。
ナイラは慌てて否定した。
「いいえ。でも冬の舞踏会って、セヴァクのひとでなくても出られますよね。もしも遠くの全然知らない国のひとを好……選んだら、わたしは王宮を出なければならないし」
「そうね。そうなったら少し寂しいわね。でもナイラが選んだのなら、素敵なひとのはず。幸せになれると思うの」
「なれるでしょうか」
「なれるわよ。その方に、くまの耳が生えていてもね」
「くま耳にんげん……」
王女と侍女は、互いの頭にくまの丸い耳をつけた姿を想像した。
教えられた礼儀から外れ、思わず吹き出してしまう。
可愛い、といえなくもない。
そうして少女達の秘密を含んだお茶の時間は、乗馬訓練を半ばで放棄した者を叱責する侍従長の闖入によって、お開きになった。
**
仄かなばら色をした灰色の石で造られた街。濃い緑の森に囲まれた草原。そして豊かな黒土が、淡い黄緑から黄金までに変化する畑を育てる。
それがセヴァクという国を彩るものだ。
美しい王国を守るのは、天にまで届きそうな険しい山脈で、ほぼ四方を囲み、敵の侵入を許さない。
もちろん完全に閉じられた国というわけではなく、伝説の時分に大きな地震が起こったため、山脈の西側に亀裂が入っており、そこだけが隣国との交易の道となっている。
細くとも外へと途切れることなく続く世界は、豊かさを生む余裕がある。王都の壮麗な王城の周りには、古さを美に変えた街が広がっていた。
今は秋の収穫を冬の用意と為すために、王都はあちこちの所領から来るひとびとで賑わっている。とくに大通りは、どの店先にもひとが群がり、慣れている者でも真っ直ぐ歩くのは一苦労だった。
ナイラもまた、懸命にひとの中を進んでいた。
青地の長い衣に白の前掛けを着け、裕福な商家の娘といった体でも、貴族の令嬢らしい優美な身のこなしがひとの目を引く。セヴァクの民としては珍しい淡い茶色の巻き毛も、ひとを振り返らせるのに充分だった。
ただし、ナイラを気にしているのが若い男に限らないのは、手足を包帯でくるんだ少女の危なっかしさのせいだろう。
あるいは、大きな青い瞳が射るような視線で気の強さを思わせるくせに、きつく結ばれた唇が、泣くのを堪えている迷子に見えるからかもしれない。
ため息をついて立ち止まったナイラに、黒髪の男が心配そうに声をかけた。
「王宮は逆ですよ」
「買い物に行くんだから、逆で良いの」
ふうんと目を細めた男は、いつもいつもいつも乗馬訓練でナイラに迷惑をかけられている騎士、シャナンだった。
ナイラと同じく貴族の息子――王都の近領では最も古い貴族、シラマルグ伯の跡継ぎだが、王宮の外では騎士であるつもりはないようで、上着に短い外套、脚衣まで黒で揃え、どこかの職人という姿でいた。
「上手く前に進めないみたいだね」
「買い物なんだから、ゆっくり見ながら歩いてるのっ」
「ひとの背中しか見ていないようだけど。まあその足では仕方ないか」
「本当はたいした怪我じゃないって、知ってて言うのっ?」
「いや、お嬢様は、か弱いものなんだなって思っているよ。でもどうする? 行き先まで前を歩こうか?」
「……お願いします」
「おお、素直だ」
笑うシャナンが憎くもあるが、ひとに流されて歩くのに疲れたナイラは、頼る方を選んだ。大仰な手当てなど、しなければ良かったと後悔していた。これは侍従長に対しての、無駄な「動けない振り」なのである。
「アノーシュ・コハルっていう細工物のお店に行くよう、言われているの。知ってる?」
「ああ、あのごてごてした……」
青く冷たい視線に刺され、シャナンは口を閉じた。女性の買い物には、いかなる評価も無用だ。
「確かー……すごく高いものを置いてた店でしたよね。黒曜姫様のものを探しに行かれるのですか」
「取ってつけたように言わなくても良いわよ。姫様はそんな……趣味の悪いもの買わない。きっと母が、わたしのものを注文したのね」
「お優しい母君ですね」
シャナンの言葉は心からのもので、怒ってはいけないと思いつつも、ナイラは荒れる気持ちを抑えることができなかった。
侍女の主な目的は、王族女性とともに宮廷作法を学び、王の後援を得て相応の結婚を「獲得」することである。
同じ場で学ぶ侍女たちはともかく、娘を送り込んだ親は、競う気持ちがどうしても強くなる。ほかの侍女に負けさせまいと、己の娘を飾り立てようとする母親は多かった。
ナイラはただ一人の王女付き侍女で、最も年下ゆえに遅れをとっていると思われるらしく、母親の干渉の激しさは群を抜いていた。
「そういうの、優しいって言われても……」
「侍女を辞めて、家に帰りたい?」
「いいえ……侍女になって、嫌と思ったことはないから。そばに家族はいないけれど、王様や王妃様が、親代わりに可愛がって下さるし、それに」
実の家族より、ギシェルの方が余程近しい。
ひとには言えない思いを呑み込み、ナイラはうつむいた。
ナイラの家は、セヴァクでは一、二を争う財力を誇る名門貴族だが、意外なことに父親は名誉に拘る男ではなかった。悪意のある噂がどれほど出回ろうと、次々と妻を替えた。
とはいえ全て円満に別れているので、揉めたことはない。奇妙に感じられるかもしれないが、最後、というか最新の妻であるナイラの母などは、元妻達とも親しいのである。
けれど繰り返す別離の中で育つことによって、兄弟達は父親と同じく、ためらいもせずに相手を変える男となった。ナイラが帰省するごとに異なる恋人、次の妻を連れてきて、毎度顔ぶれの違う「家族」は、離れて暮らす娘の心に不変を信じない寂しさを刻み込んだ。
「だとしても……ベルキトン家の娘として、きちんと侍女を勤めるつもりよ……」
「それなら自力で遠くに行ける方法を身に着けないとね」
「ど、どうしてっ」
「黒曜姫様は綺麗に着飾り、座っているだけでは良い女王になれないことをお分かりだ。狭い王宮では、見えないものの方が多いからね。それは侍女にも言えることだと思うよ? でも、姫に……自由はない。遮るものなしにセヴァクの地をご覧になりたくても、叶わない。だけど、君にはできるんじゃないかな」
「わたしには……できる……?」
ナイラの眼裏に、塔の窓から外を眺めているギシェルの美しい横顔が浮かぶ。その熱心さに影があることは、気づかない振りをしていた。ナイラも感じる、見えない鎖に気づきたくなかったからだ。
「でも、わたし……遠くに行く方法なんて知らない」
「とりあえず、乗馬を頑張ってみれば?」
怪我が治ったらね。
言いながら、シャナンの手がナイラの真白い「手袋」を握った。
**
すらりとした四肢の向こう、がっちりとした短い四肢が見える。
草を喰む艶のある黒馬と、ニンジンの破片を顎から落とす灰色のロバは、見かけだけでなく存在として大きな差があった。
「ねえ、アレに乗れなかったら、アレなの? そんなの……」
ひとびとのささやきが聞こえるようだ。
あれを見なよ、あの黒馬とロバは――黒曜の美姫ギシェルとちんまりとした侍女ナイラの対比そのものだ。
淑女たる条件を諦めてはならぬ、と王宮近くの牧場に出てみたけれど、ナイラの目指す先は遠そうだった。
不意に、ふんふんと可愛い鼻息が手にかかる。放し飼いになっていた仔馬は包帯の取れたばかりの手、そもそもめったに牧場に現れないナイラが気になって仕方ないらしい。
袖口のレースを仔馬が喰み始めるのを止められず、ナイラは泣きたくなった。
本当は、自主訓練のつもりで来たのだ。教える者がいてさえ上手くいかないのだから、ぼんやり馬とロバを眺めて過ごすだけになることは承知の上であったが、やる気だけは表したかった。
だが、どうしてロバが馬に紛れているのだ。
ニンジンを山盛りにした桶があるから、予定していたのか。ナイラにわざと見せつけるために。
「それは妄想よ……妄想だと言ってよ、あれ?」
べろべろになったレースを残し、仔馬は草地を楽しそうに歩き始めた。
「え? 向こうって、柵の外?」
焦るナイラが何度確かめてみても、親馬ロバ組と仔馬の間に柵がある。勘違い、もしくはまだ外側に境界があるなら良い。そうでなければ、仔馬は外に出てしまっていることになる。
徐々に遠くなる仔馬はやがてひょいと曲り、森の奥の影に消えた。黒馬はもしゃもしゃと口を動かすだけ。仔馬の逃亡など、たいしたことではない顔である。
「もうっ!」
いくつかの幸運とナイラの意外な素早さによって、黒馬に簡素な騎乗用具一式が据えられた。
とくに王女が選んだ可愛らしい花模様の背帯は馬の騎乗者への敬意を招き、柵を使ったナイラの不格好な乗り込みを許した。
なんか変、と思う黒馬のぴくぴく動く耳はともかく、少女は初めて独りで馬上におさまったのである。
(できた……! できたわ、わたし! これでもうどこにでも)
行け、の合図もなしに馬は歩き出した。
「ま……」
緩やかに流れ出す風景を、ナイラはこわばったまま見つめた。
遠い稜線の雪が、澄んだ空の青を切り分けている。視線の果てまで続く草地も、王城の中庭のように、どこかに終わりがあるのだろう。
そこへ行ってみたいという思いと、こめかみがきゅっと絞められるような畏れが、手綱を握る指先までを痺れさせた。
とても――まずい。指示のない軽さが、馬を増長させている。
さらに柵の一部を馬はあっさりと押し退け、仔馬の逃亡劇の始まりが、いかなるものであったかをナイラに教えた。
事の次第が分かって、やや安心。ついでに牧場の奥から騎士が来るのも見えて、ほっと息を吐いた。
「シャ……」
仔馬が森に入ったの。それからわたし独りで乗れたよ。
騎士に伝えたかったナイラの言葉は、馬が広がる世界を我がものとしたことで、全て風の中に消えた。
「いやっはああああっ」
かけ声となった悲鳴に喜び、黒い影が草原を駆け抜ける。
草を蹴散らかし、枯葉を巻き上げ、走るものとして生まれた馬はまさに、輝いていた。
少しばかり木の後ろで寂しそうだった仔馬も、親の躍動につられて走り出す。小さな配下を引き連れ、風を切り開く人馬一体が騎士の目前を真横に走り去った。
淡い色の巻き毛が風に煽られ、さまざまな向きで陽の光を受ける。機敏さで知られるシャナンがすぐに追わなかったのは、その輝きの美しさに目を奪われていたわけではない。
(止めてよおおお!)
どうやって。
呆然としたシャナンの顔が、残像となって流れて行った。
(これはもう自分で……自分でなんとかしないと……っ)
ナイラが馬上に「いられた」のは奇跡に近い。それでも一見、乗りこなしていたのは、極度の緊張が却って馬の動きに添うことだけを集中させたからである。
しかし動かすことのできる感覚は、もう、痺れている指先だけになっていた。
(風が冷たい……目も痛い)
乾いた風が見開いた目に当たる。まばたきもできないまま、前を見据えている。
やがて、ナイラにもそれが見えてきた。
「きれい……」
大地を這う枯れかけた草の影が、次々と過ぎ行く。その移ろいは耳許に届く振動に従っている。そして僅かに視線を上げた先、透き通った空の色は動きをなくし、底知れない。
狭い王宮では見えないものの方が多いから。
誰かの言葉は、とても正しいと思った。
「もっと見たい。もっと遠くまで、行ける……?」
風を切って、踏みしめた草の匂いを後ろに置いて、どこまでも自由に。
もちろん行けるわよ。ギシェルの優しいささやきを聞いた気になり、ナイラの顔に微笑みが浮かぶ。
黒馬も聞いたのかもしれない。脚の動きは勢いを増し、緑と枯れ色の間に現れた濃紺の岩に飛びついた。
「いいい、いわっ? いわじゃなくて、えええっ」
岩だったら死んでいる。
ざぶりと沈んだ黒く細い脚は、空を映した湖の中を楽しげに進んだ。
「待って? 待ってよ……およ、泳ぐの馬? えっ、わたしも? こんな秋……」
ざぶざぶざぶ。
大きな黒い躯が水に浸され、問答無用でナイラも水浴に突入した。
とりあえずナイラが泳げるのは幸いである。全くもって水浴に相応しくない冷たさだったとしても。
「おおい?」
「冷たっ……冷たいんだけどっ、どうっ」
がぼがぼがぼ。
湖の波紋が泡を巻き込んで広がる。
まとわりつくレースの袖がじゃまで、なかなか浮上できないナイラへ、ようやく追いついたシャナンが馬は泳げるよと呑気に声をかけた。
**
淹れ立ての紅茶の湯気と、甘い林檎と桂皮の香り。新鮮な牛乳を加えて、薄茶色
の温かさを楽しむ。
「それが冬の前の楽しみというものですよね……」
ナイラの言葉は全て濁った鼻声で発せられているせいで、よく聞き取れない。
ギシェルはそうねと頷いたものの、その実、ナイラの表情から内容を想像していた。
ずぶ濡れになって戻ってきた日から数えれば、もう熱が引いていても良い頃だ。なのにナイラは魔法使いの調合した薬を強硬に拒み、不調を長引かせるばかりだった。
さすがに放っておけなくなり、薬の苦みを紛れさせるため、ギシェルはわざと紅茶にたっぷりと砂糖を入れた。
「もういいから、これを飲んでお休みなさい」
「面倒をかけてごめんなさい」
「湖に落ちて、風邪だけで済んで良かったのよ。地面に投げ出されていたら、危なかったんだから」
「夏に泳ぎを習っていなかったら、やっぱり危なかったと思います……」
「早く治してね。あなたの元気な姿がそばにないと、わたしも寂しいわ」
「ひめさま……」
怪しい音声も気にせず、優しく微笑むひとをナイラは潤んだ瞳で見つめた。
いつか見た姿――長い黒髪をなびかせ、広々とした草地を自在に駈けるギシェルは、風の精霊と踊っているかのようだった。
それが王宮で見る、貴公子の隣に並ぶ姿と同じくらい美しいと、今なら素直に思える。
「わたし、分かったんです。遠くに行くと、すごく……自由な気持ちになるって」
「ナイラ?」
「今度、こういう……甘いお茶を持って出かけましょう、姫様。風が吹いて、やまがみえるの。ひろいから、どこでも」
「次に起きた時に聞くわ、ナイラ」
「失礼……っと」
礼を重んじる騎士にしては珍しく、入室の許可と侵入は同時だった。急ぎ唇に指先を当てる王女を見て、シャナンは決まり悪げな表情を浮かべた。
「申し訳ありません、急いでいたもので……眠っているなら、これだけ置いて行きます」
「あら、手紙? もしかして……」
恋文を期待したギシェルだが、封筒を手にして束の間、表情をなくす。
不自然すぎる沈黙は、ナイラをまどろみから引き戻した。
「あ……しゃなん? 淑女の部屋にいきなり……しつれいじゃない」
「何を言ってるのか分からないな。まだ寝ているべきだね。でも手足は平気そうだから、治ったら続きだね」
「つづき……?」
病人の目は予想外に素早く、ギシェルが隠し損ねた封筒の上書きを読んだ。
訓練予定表。添え書きは、要技術向上。
「もう……ろばでいい!」
「ナイラ……! 諦めないで!」
絶望と戦う乙女のそばで、ロバの方が難しいのに、とシャナンが呟いた。
おわり