いちばん簡単にコメディーを書く方法
最初にお断りしておくのは、今回語るのは『一番簡単なコメディ作法』であって、コメディの全てをカバーするやり方ではないということだ。
世にコメディーと名のつくものは多くて、細分化するならばラブコメディー、ハートフルコメディー、ホラーコメディー、SFコメディー、など、枚挙にいとまない。本来的な喜劇や、ギャグとコメディーの分類があいまいであることを考えると、それこそコメディーの裾野は果てしなく広がっていると考えてよかろう。
コメディーの共通した要件とは、つまり『人を笑わせる要素がある』という一点のみ。なれば作法は一つのみであるはずがなく、笑わせるための仕掛けも作者のセンス次第という、『絶対的にコレ!』という正解が存在するものではない、これはご理解いただきたい。
さて、一番簡単にコメディーを書く方法とは――現実をディフォルメすることである。つまり現実をわずかに歪めて『非常識』を拡大して見せる方法、これが一番手っ取り早くて書きやすい。
わかりやすくぶっちゃけていうと『現代劇で少し変わった人物が騒動を起こすハートフルなコメディ』が一番簡単に書くにふさわしいということになる。日本のコメディ映画にはこのパターンが多く、またアメリカ映画でも特にハートフルコメディと呼ばれる部類にはこの手法が使われているためにイメージしやすいのではないだろうか。
例をいくつか。数年前まで日本のお正月の定番だったコメディ映画(なろう規約に配慮して作品名は伏せる)は釣り好きの男が主人公のドタバタ人情劇だった。これが普通の釣り好きであればどうということはないが、この男を仕事よりも釣り優先、出張に行く話があればいつもと違う魚が釣れるからと大喜びで自ら手をあげるような『常軌を逸した釣り好き』というところにコメディ性がある。それこそがここでいう『非常識』なのだ。
誰だって趣味の一つや二つはあるだろうし、それが仕事より楽しいと思う瞬間はある。しかしそれが四六時中、仕事上の重要な決定さえ趣味を第一に判断するなどということはまずありえない。しかしこの主人公はそうした『ありえないレベルの釣り好き』として設定されている。これが『ディフォルメ』である。つまりは現実世界を倣いとしていながら、その一部分だけを『現実世界での常識』の埒外にまで拡大することによって『非常識』を作り出す。
もちろんディフォルメできるのはキャラクターだけではなくて、世界観の一部を『非常識』にしたり、キャラの行動動機を『非常識』にしたりすることもできる。しかし一番簡単なのはキャラクターにディフォルメを加え、これを私たちが知る『現実世界』に放流する方法なのだ。例えば現代社会に風呂の大好きなローマ人がタイムスリップしてしまう然り、例えばジャスコしか無いようなど田舎でゴスゴスロリロリなファッションを貫く然り、ディフォルメしたキャラクターに依存したコメディーの名作というのは世に多いのだ。
さて、良い感じにディフォルメしたキャラクターが出来上がったら、今度は物語世界がこの『非常識』をどれだけ許容するかを調節する。これによって作品のコメディー度が変わってくる。
まずはローマ人を例にとってみよう。彼は自分がタイムスリップしたことに気づかない。周りの現代人も彼がタイムスリップしてきた人間だとは思わない。当たり前のように古代人が現代にいる、これが世界観の中での許容だ。
現実世界で、街の中にローマ式の衣服に身を包んだ異国の言葉を話す青年が現れたらどうなるだろうか。おそらく大多数が無関心――昨今であれば「変わった人発見ナウ」などと言ってSNSにアップされちゃったりもするかもしれないが、そもそもタイムスリップなどという現象が存在しないこと大前提なのだから、余計な災禍を嫌って遠巻きに眺めるだけだろう。
もちろんローマ人風呂職人の物語もタイムスリップなど存在しないと誰もが思っている、ごく普通の現代社会だ。しかし物語中では彼は確かにタイムスリップをしたのだし、だからこそ現代人とかみ合わない行動をするという面白さがある。
しかしてこの物語はタイムスリップの原理や理由など何も明かさずに『あって当然の事象』としてしれっと進んでゆく。なぜなら読者が必要とする部分はそこではなくて現代社会に古代人が紛れ込むという面白さであり、『物語の進行上最も後回しでいい部分』であるからだ。このように物語の世界中では『ありえないこと』が特に理由もなく許容されていて構わないのである。
この許容が大きければ大きいほど荒唐無稽でしっちゃかめっちゃかな『ギャグ』に近づくし、この許容が小さければ小さいほどきちんとした理由付けや探求を必要とする『シリアス』に近づく。
思い出してほしい、懐かしのメガネっ娘ロボットギャグマンガを。アレなど見た目愛くるしい女の子がパトカーを跳ね飛ばしても、登場人物は誰一人としてその原理や理由を求めない世界だったはずだ。もしも許容の低いシリアス物であったら、そもそもが「うっほほ~い」ってノリでパトカーを跳ね飛ばしたりはできない。パトカーを跳ね飛ばすことにも理由が求められるだろうし、パトカーを跳ね飛ばした少女に対して他の登場人物たちが猜疑の目を向けることだろう。おそらくは少女がロボットだと知りながらも友情を結んだ不良少女が、彼女の秘密を守るために二人で駆け落ちする百合になる……かもしれない。
冗談はさておき、要するにキャラクターの『非常識』と『物語世界がそれに対してどれだけの許容を見せるか』のバランス、これがコメディーをコメディーらしくみせる秘訣なのである。
さて最後に一番大事なコメディーの秘訣を――これは技術的なことではなくて心構え的なものである。
それは、『コメディーを書きたいならバカになれ』ということだ。
世の中には風刺的なモノや作者が他人を嘲笑する視点で書いたブラックなコメディーというものもあるにはある。しかし今回はあくまでも『一番簡単な』コメディーの書き方の話をしているのだということを思い出してほしい。
いちばん簡単に人を笑わせるつもりなら「なにこれ、作者バカなん?」って読者に言われるつもりで書くのが一番手っ取り早い。読者からバカだと思われるのは癪だというならば次点で、「なにこの主人公、バカじゃん!」と言わせるつもりで。
人は笑う時、難しい話は嫌うものである。あなたがどれほど賢くてどれほどひねった難しいネタを持っていても、それだけで人は笑ってはくれない。だって、自分より高いところに座って「ほら、こんな賢いジョーク、面白くないわけがないだろ?」って言うような奴の前で、人は素直に笑えるわけがないもん。よって難しいネタで、しかも上から読者を見下ろしてさえ相手を笑わせるっていうのは、これ天才の証なのである(皮肉)。
そのくらいなら「なにこれ、作者バカなん?(褒め言葉)」を狙うほうがよっぽど簡単、だから『バカになれ』。
コメディーは『非常識』と『世界がそれをどこまで許容するか』のバランス、そこを調整する賢さを持ちながらも読者には決して気取らせず、最終的いただける賞讃は「お前、バカだろw」というのがコメディーの理想なのである。
だから最後にもう一度言っておこう。
バカになれ