九 鬼コーチと鬼
白馬は食堂で朝食を済ませていた。
それにしても――凪沙さんの手料理は、本当に美味しい。
ふわふわのだし巻き玉子なんて、生まれて初めて食べた気がする。
箸を置いた瞬間、脳裏に嫌な言葉が蘇った。
『お前には死ぬほど修行をつけてやる』
ボス――狂花の宣言だ。
(今日から、地獄か……)
約束通り、白馬はトレーニングルームへ向かった。
地下深くにあるそれは、移動するだけで軽く汗をかく距離にある。
「……広っ」
到着した白馬は、思わず声を漏らした。
見渡す限り真っ白な空間。学校の校庭が何個入るのか、想像もつかない。
だが。
待てど暮らせど、狂花は来ない。
──三十分後。
現れたのは、ボスではなくハルだった。
「おやおや。白馬さん、随分と早起きですね」
「実は、ボスと稽古の約束をしていまして……」
「この時間帯のボス、起きてるところ見たことないですね」
「……そうなんですか」
白馬は項垂れた。
どうするべきか迷っていると、ハルが一歩前に出る。
「よろしければ、私が稽古をつけましょうか?」
「え、いいんですか?」
「もちろんです」
笑顔が柔らかい。
だが、その笑顔に油断してはいけなかった。
「しばらくは基礎ですね。体力作りが最優先です」
「まずストレッチ、次に受け身、合気道。
それから砂浜と水中シャトルラン。最後に手合わせです」
「……砂浜と水中?」
「このトレーニングルーム、環境や地形を自由に変えられるんですよ」
ハルは少し誇らしげに言った。
「雪山、火山、砂漠――なんでもありです」
「凄すぎません?」
その後のトレーニングは、想像以上だった。
手加減は、ない。
弱音を吐こうとするたび、ハルの口調は一段ずつ厳しくなる。
「白馬さん。そこで止まるんですか?」
「男の子でしょう?」
(……怖い)
あの優しい笑顔はどこへ行ったのか。
目の前にいるのは――
「鬼だ……鬼コーチだ……」
夕方になり、ようやく狂花が現れた。
「よー白馬。今から修行な」
「もう限界なんですが……」
「大丈夫大丈夫」
狂花はそう言って、環境設定を遠征予定の雪山に切り替えた。
そして。
「はい脱げ」
「え?」
気づけば、白馬は雪山に放り出されていた。
「じゃ、頑張れー」
笑い声と共に、扉が閉まる。
「死ぬって! 寒っ!!」
──三十分後。
能力《耐寒》を獲得。
──二時間後。
能力《極寒耐性》を獲得。
「誰か……誰かぁ……」
白馬が扉を叩いていると、晩御飯に来ないことを心配したハルが駆けつけてくれた。
凍りついた扉が開き、白馬を見たハルは一瞬、視線を逸らす。
「……白馬さん」
「ハルさん……女神です……」
その日、白馬の中で
狂花への明確な恨みが、確かな形を持った。
こうして、鬼コーチと鬼に挟まれた一日は、ようやく終わった。
白馬は、ハルに肩を借りながら食堂へ向かった。
足は鉛のように重く、正直、一歩進むたびに倒れそうだった。
「無理しないでくださいね」
「……はい」
食堂に入ると、すでに晩御飯の準備が整っていた。
テーブルの中央には、湯気を立てる料理の数々。
その中で、白馬の目を引いたのは――味噌汁だった。
「……あ」
思わず、声が漏れる。
椀を手に取ると、立ち上る湯気と一緒に、懐かしい匂いが鼻をくすぐった。
具は、豆腐とわかめ。
特別なものは何もない、ごく普通の味噌汁。
一口、口に含む。
「…………」
その瞬間、胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
――母の味だ。
忙しい朝でも、疲れて帰った夜でも、
文句ひとつ言わずに出してくれた、あの味。
「……っ」
白馬は俯き、箸を持つ手を止めた。
(ああ……)
ここに来てから、命の危険だらけで、
怖くて、痛くて、理不尽で。
でも――
この味噌汁だけが、
「帰る場所」を思い出させてしまった。
気づいた時には、一滴、椀の中に落ちていた。
「……?」
凪沙が気づき、そっと声をかける。
「……口に合いませんでしたか?」
白馬は慌てて首を振った。
「ち、違います!すごく……すごく美味しいです」
涙が見えないように、顔を伏せたまま、必死に味噌汁をすする。
誰にも見せたくなかった。
弱いところも、寂しいところも。
それでも――
(母さん……)
白馬は、音を立てないように、静かに泣いた。
その様子を、誰も何も言わずに見守っていた。
God Killerの面々は、あえて何も触れなかった。
凪沙は、そっと鍋を見つめる。
「……また、作りますね」
白馬は、小さく頷いた。
その夜、白馬は久しぶりに、
少しだけ、安心した気持ちで眠りについた。




