一 動き始めた時間
みーん、みんみんみん。
蝉の声がやけにうるさい。
おまけにこの暑さだ。
外にいるだけで、頭がぼーっとしてくる。
――どこか、涼しいところに行こう。
そう思って、僕はたまたま見つけた古本屋に逃げ込んだ。
店の中は薄暗く、埃と紙の匂いが混じっている。
冷房の風が肌に当たって、ようやく息をつけた。
棚を眺めながら、夕方になるのを待つ。
時間を潰すには、ちょうどよかった。
しばらくして、腕時計に目をやる。
そろそろ帰ろうかと思った、そのときだった。
隣の棚に、妙に目立つ本があった。
『女性にモテる七つの言葉
男よハーレム道を行け』
……なんだ、それ。
その本を、真剣な顔で読んでいる男がいた。
読む本のセンスを除けば、どう見ても伊達男だ。
背が高くて、服装も整っている。
正直、モテそうだった。
やがて男は本を閉じ、店番のおじさんに会計を済ませる。
包まれた本を手に、そのまま店を出ていった。
――あの本、買うんだ。
思わず、そんな感想が浮かぶ。
残念イケメン、ってやつかな。
そう思った瞬間、足元に違和感を覚えた。
財布が落ちている。
しかも、さっきの男が会計しているときに持っていたものと同じだ。
僕は財布を拾い、考えるより先に店の外へ出た。
まだ、間に合うはずだ。
けれど――
通りには、男の姿がなかった。
店を出てから、まだ一分も経っていない。
それなのに、どこにもいない。
胸の奥に、引っかかるものが残る。
それでも僕は、町を歩き回った。
通りすがりの人に尋ね、角を曲がり、走る。
そのときだった。
不意に、背後から視線を感じた。
振り向いた瞬間、目の前に男が立っていた。
――銃を、こちらに向けたまま。
心臓が跳ね上がる。
息が止まり、体が動かない。
男の目を見た瞬間、全身が縛りつけられたように硬直した。
指一本、動かせない。
「何かご用ですか?」
穏やかな声だった。
「もしかして、君は私のファンですか?」
必死に首を振る。
けれど男は、気にした様子もなく話を続ける。
「残念ですね。綺麗な女性のファンなら嬉しいのですが、男の子はご遠慮ください」
男は僕の顔をじっと見つめ、首を傾げた。
「あれ? 君……どこかでお会いしませんでしたか?」
声が出ない。
喉が、ぎゅっと締めつけられている。
男は銃を下ろし、軽く指を鳴らした。
その音と同時に、体の力が抜ける。
僕は膝に手をつき、荒く息をついた。
男は、少しだけ気まずそうに笑った。
「どうやら、一般人のようですね。悪意も感じません」
「それで、どうして私を追いかけていたのですか?
正直に話してくれれば、身の安全は保証しますよ」
僕は震える手で、拾った財布を差し出した。
男は目を見開き、慌てて自分の鞄を探る。
そして、頭を抱えた。
「……ああ。私の財布ですね」
男は深く頭を下げた。
「拾ってくださったんですか。
本当に、失礼しました」
張りつめていた空気が、一気に緩む。
「それなら、そうと言ってくれればよかったのに」
思わず、本音が漏れた。
男はニヘラ、と力の抜けた笑みを浮かべる。
「まあ、動けなくした私が言える立場ではありませんが……本当に申し訳ない」
――今の、何だったんだ。
能力? それとも……。
僕の疑問など気にせず、男は続ける。
「お礼をしたいところですが、時間がなくて」
男は財布から一万円札を取り出し、僕の手に押しつけた。
「これで、何か美味しいものでも食べてください」
そして、耳元で小さく囁く。
「それと――私のことは見なかった。忘れていただけると幸いです」
声を出そうとしても、うまく言葉にならない。
「もう会うこともないでしょう。
では、少年。良い夢を」
男は背を向け、歩き出す。
「待ってください」
必死に絞り出した声。
だが、その瞬間――
男の姿は、消えていた。
瞬きをした、その一瞬の間に。
あとに残ったのは、
うるさい蝉の声と、手の中の一万円札だけだった。
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