問答
なぜ、どうして。
僕の頭は、不思議なほどに感触なく突き刺された枝の先を見て、急速に冷えた。燃え盛る焚き火に冷水をぶっかけると粉塵が舞いあがるように、頭の中は大混乱に陥った。
纏まらぬ思考は、それでもすぐさま自分が何をしでかしたかを理解し始める。
僕は確かに、殺意を持って武器となる枝を振った。
そして、それは確かにアラクネの幼体を狙ったものだった。
だというのに。
だというのに、どうしてそこにハローがいる!
「ハロォォォッ!」
即座に枝を引いたのは、僕のどこかにまだ残っていた理性がギリギリで働いたからだろうか。
心を占めていたどす黒い何かは即座に消し飛んだ。逆に、言いようのない焦りと、嘆きと、後悔が押し寄せて僕の心を圧し潰さんとしている。
それに歯を食いしばって耐え、枝を捨てると倒れたハローの身にすがる。
ハローに意識はない。
「ハロー! ハロー、目を! 覚ましてくれ、お願いだ! ハロー!」
叫びは悲しくこだまするのみだ。
一体僕は何をしていた。戦いに身を投じ、愉しみ、見境なくなり、果てに大切な友達を傷つけた。
ガタガタと震える手が止まらない。腹の奥底から胸を上って何かが込み上げてくる。それを押しとどめてくれるのは、ハローの名を叫び続ける事だけだった。
「落ち着きなさい、勇敢なヒトの子」
とても落ち着き払ったその声は、何かに縋りたい僕にとっては神の助けに等しい。
たとえそれが、先ほどまで殺し合いをしていたアラクネで会ったとしても、だ。
見上げた先にあるアラクネの顔には、もはや戦いの意思はなかった。あれほど砕けていた顔はもうほとんど治っていて、纏う威圧感はかなり薄まっている。
「まずは傷を見なさい」
言われて、動転した自分の行動を恥じる。傷を確認していない。万が一浅ければ、応急処置をすれば生き延びられるかもしれない。近くにはオーブ師匠だっているのだ、きっと治癒魔法などお手の物だろう。
いや、そんなものはただの都合のいい祈りでしかないのは自分が一番わかっている。それでも、丁寧にハローの喉元を探った。
傷口を探しながら、僕は再び混乱することになる。
(傷が、ない?)
真っ白で柔らかい首周りの毛をかき分けても、傷どころか血すら滲んでいない。
たまたま外れたのだろうか。
(バカな、確かに刺さったところを見た)
手ごたえは全くなかった。
だが、突き出した枝の角度、互いの間合いから予想されるその威力は、当たり所が悪ければ首の血管を引き裂いて首の骨を砕いてもおかしくはない。
だけれど、現実としてハローの首筋には何もない。
ふと気づき、意識を確認すると、小さな呼吸を繰り返すのが見て取れた。
全く訳が分からない。
訳が分からないのだけど、一つだけ、ハローはまだ生きている。無事である。
その事実だけが、安堵となって僕の全身から力を失わせた。
ハローを抱えたままへたりと座り込んだ僕を、アラクネは面白いものを見るかのようにほほ笑んだ。
「勇敢な戦士よ。いかな理由かわかりませんが、姫を殺さなくて済んだようですね」
「……ええ」
もう一度見ても、アラクネに戦いの意思は見られない。
僕にもすでに、戦う気力は失せていた。それよりも、ハローを刺してしまった事実をどうやって呑み込むか、必死に平静を取り繕うので必死だった。
どちらにしろ、今の手の中にハローがいる。僕の目的は達成できた。
「もう僕に戦う理由はありません。あなたはどうしますか」
「……ふふ、そうですね、もうすっからかんです。今のあなたと戦って勝てる気はしません」
アラクネも、もう僕に戦う意思がないことを確認してホッとしたような表情を浮かべた。
互いにすっかり毒気を抜かれてしまった。
アラクネの下半身の背には、幼体が寝かされていた。そちらも意識を失っているようだ。
「その子に庇ってもらった直後に、意識を刈り取りました。しばらく目覚めはしないでしょう」
先ほどまでは親子ともども殺してやろうという憎悪にも似た念に取りつかれていた。ハローを攫って危険に晒した事実に対する怒りもあったかもしれないが、自分でもおかしいと思うほどに感情の制御ができていなかった。
それが今はどうだろうか。決して心を許したわけではないが、一先ず話をしたいという欲求が生まれている。
互いに死力を尽くしあったというのもあるかもしれないし、結果としてハローが無事であったということもあるかもしれない。
「その子を殺そうとした僕を、憎くは思わないのですか」
すうすうと寝息を立てる幼体を一瞥し、僕は尋ねる。
「あら、ヒトはそのように思うのですか。我が一族では強さこそが全て。であれば、強いあなたに敬意を向けることはあれ、憎しみなど」
そういうアラクネの頬が少し赤らんでいるように思うのはなぜだ。
「ただまあ……この子が殺されなくて本当に良かった、と思うのは人も私共も一緒でしょう」
魔物は人間と思考回路が違うと言うが、なるほど、分かり合えない部分もあるが、その根源は一緒のような気がする。
アラクネという脅威がなくなると、それ以外のことに思考が向く。まず疑問に思ったことは、ハローのことだ。
「ハローは……ハローはどうして、その子を庇ったのでしょうか」
仮にも自分をさらったモンスターの身内である。
人にさらわれたのともまた違う、恐怖があっただろうに。
あの時、ハローには躊躇がなかったように思う。
「さて、人の子の考えていることはわかりかねます。ですが、ずいぶんと仲良くしていたようですよ?」
「人と、モンスターが、仲良く?」
「私だって、決して悪いようにはしておりませんことよ? その証拠に、傷一つつけておりませんでしょう。うちの子と少し遊んでいただいたの」
モンスターと人が遊ぶ? そんなこと、あるのか。それも、あの無感情なアラクネと。
「本当です。うちの子が人間好きな変わり者で、その人の子が特別度胸の据わっていたというのもありましたけど、一時も経ったら打ち解けていましたわ。あの姿しか見ていないあなたには、信じられない事でしょうけれど。」
そこに疑問はさしはさまない。何故なら、腑に落ちるからだ。
ああ、なるほど。それでハローは――友達を護ろうとしたのだろう。
誰とでも友達になれるハローのすごいところを見た気がする。そして、その友達のために命を投げ出しても止めようとしたハローの優しさも。
それは美しくもあり、危うさでもある。
どうしてハローはそう判断したのか。その行動に理念はあったのか。僕はまだハローのことを何も知らない。
「意外です。モンスターと人が、わかりあえるなど」
アラクネは、その言葉に驚いたような顔をした。
「そう、それはあなたがまだ世界のことを知らないのでしょう。それとも、この辺りだとそれが当たり前なのですか」
「なにが、ですか?」
「あなた方がモンスターと一括りにしている私たちとて、一つ岩ではない。むしろ、人間たちよりも多種多様であるのですよ? 現に、大森林では人と交流する一族もおります」
僕は少しだけ衝撃を受けた。
僕のモンスターに関する知識は、僕の読んだ本から受けたものばかりだ。モック爺さんはモンスターとの戦い方は教えてくれたが、モンスターがどんなものかは教えてくれなかった。
モンスターにも色々いるのだと、モック爺さんも知らなかったのだろうか。そんなことはないだろう。では、なぜ教えてくれなかったのか。
それは、わからない。
「そう、そうですか。覚えておくことにします」
さて、これでおよその流れはわかった。
今日の収穫はあった。モンスターだと言っても、必ずしも人を憎み、敵になる存在ばかりではないことが分かったのだ。
僕個人の考えとしては、必要のない戦いはしたくない。
であれば、もうここに用事はない。
「アラクネ、あなたたちはこれからどうするのですか」
ハローが帰ってくるのなら、こちらもこれ以上交戦の意図はない。馬車が三台ダメになるという被害は出ているが、幸いにも人的被害はない。
馬車三台と、アラクネと徹底的に泥仕合を繰り広げることを天秤にかければ、ハローには悪いがここは撤退したほうがいい。
多分、すっからかんと言いながら最後の奥の手のようなものを残している気がするのだ。知性あるモンスターは狡猾だとモック爺さんも言っていた。用心に越したことはない。
いや、それ以上に、僕はもうこのアラクネと戦いたくはない。
アラクネの母が子を思う情、そしてハローと打ち解けたという事実が、僕に剣を握らせる理由を霧散させていた。
何故人とモンスターは争うのか。それは互いに理解がしえないからだとモック爺さんは言っていた。だけど、こうやって会話が出来て、少なくとも互いに矛を収め合ったという経験は僕のこれまでのモンスターに対する概念を打ち壊すには十分だった。
だから、僕はもうこれ以上このアラクネを追わない。出来る事ならば、どこかのダンジョンで静かに暮らしてほしいとすら思っている。
「ここを去りたい、というのが一番の願いです。ですが……」
ですが、と続くからには、それが不可能だと示そうとしたのだろう。