決戦の始まり
どれほど進んだだろうか。
予想に反して、全く蜘蛛と遭遇しない。オーブとメルゼスが無事に引き付けているということだろうか。
やがて、糸で囲まれた開けた場所に出た。十数人は寝泊まりが出来そうな広さがある。そこかしこにまだ木の根が残されているので、誰かが意図的に作ったのだろう。
ちょうどキリが良い。仮面も自分もすっかり糸にまみれたので、何度目かの掃除をする。
その時だ。
「まったく、とんだネズミが入り込んだものですわね」
頭上から急に声が掛けられる。
振り仰げば、糸で真っ白になった枝の中に、淑女が一人佇んでいた。
それは、ここにいてはいけない存在であった。
「あ、あ、アラクネ……!」
どういうことだ。なぜここにアラクネがいる。
オーブの読みが外れたということか。
こちらの反応を見ても、アラクネに嘲るような表情は無い。こちらの裏をかいてやったという優越感も見られない。ただ、冷たい目で僕を見下ろしているだけだ。
ただそれだけで、僕の戦意はゴリゴリと削られていく。
そんな緊迫した空気を軽薄な男の声が切り裂く。
「ほーらほらほら、思った通り! いやぁ、姑息な奴らの考えることはどうしてこう、読みやすいんですかねぇ。女王様に居ていただいて本当によかったぁ!」
アラクネの後ろに、一つの人影が現れた。
青年期も後半、中年に入りかけている男だ。軽薄という言葉がよく似合うへらへらした顔、見慣れぬ意匠の服、頭部の半分だけを覆う金色の髪。
だが何よりも、その肌の色がその男を“魔人”であると語っていた。
「ねっ? ねっ? もしあのまま女王まであちらに行ってたら、巣を燃やされていたかもしれませんよぉ? 言った通りだったでしょう?」
魔人の男は軽快にまくし立てるが、アラクネは全く振り向きもしない。まるでそこには何もいないかのように無視を決め込んでいるものだから、ひょっとして僕にしか見えないのかと一瞬思ってしまった。
「あれ? あれあれ? もしかしてこの間のことまーだ怒ってます? いやですねぇ、お互い良い大人なんですから、次会うときまでには気持ちを整理しておかなきゃぁ、ね?」
僕はその時、アラクネの表情に心底、心底嫌そうな顔というものを見た。
大きくため息を吐いて、苦々し気に言葉を紡ぐ。
「私にここにいて欲しいのはあなたの願いでしょうに。大方、魔力を得た私がどのような行動に出るか分からずに自分の傍から離したくなかったとか、小賢しい知恵を絞ったのでしょうね。言っておきますが、私の巣はおいそれと簡単に燃えるものではありませんし、我が子の受けた屈辱は一生かかっても雪げぬものと知りなさい」
「おお、こわぁい」
「次、またその腹立たしい口を開くのであれば、この命尽きてでも貴様を殺します。精々巻き添えにならないように栗鼠のように隠れていなさい」
ふつふつと沸騰寸前の湯のような怒りを向けられた男は、軽く肩をすくめると非常に鼻につく仕草でアラクネの後ろから姿を消した。
オーブの読みを覆したイレギュラーは、どうやらあの魔人の男のようだ。いったい何者で、アラクネとどういう関係なのか。決して良好な仲とは言えないが、何故かアラクネは男に手を上げていなかった。
「さて、本当に哀れな生贄ですことねぇ。私、今、少し虫の居所が悪いの」
アラクネの目に、最初に会った時のような呑気さは無い。ただ冷酷に、無遠慮に巣に入り込んだ餌をどう処理するかを考えている目だ。
「あなた、変な仮面を被っていますけど、あの時の坊やでしょう? あのまま大人しく去れば殺されることも無かったでしょうに。人間とは本当に度し難い」
その気迫に、すっかり戦意を削がれていた僕の心は再び冷風に晒される。出来る事ならば、今すぐにも逃げ出したい。
だけれども、それは、僕の人生にとって間違いなく「恥ずべき事」になる。
(人生超えなきゃならん壁の一つや二つ、あるってもんさ!)
思い出したオーブ師匠の叱咤を腹の奥底へ飲み下すと、不安と恐怖が渦巻いていた体がかっかと熱くなる。
(やれよ、男だろ。英雄を目指すんだろうが!)
そう自分に言い聞かせ、剣を抜き放つ。どう転んでも、戦いは避けられないと本能が判断した。
「ハローを、あの女の子を返してもらいに来た!」
アラクネからすれば、それは子犬が必死になって吠え立てているのと変わらないだろう。僅かながらに憐みの笑みが浮かんだ。
「ふふ、勇ましいのは結構だけれど、あなた一人で一体何ができるというのかしら?」
「あなたの子を殺したの僕だ。であれば、僕を連れて行け! ハローは関係ない!」
僕の最終的な目的はアラクネを倒すことではない、ハローを助けることだ。何とか僕に矛先が向いてくれれば、ハローが逃げる隙も生まれると思ったのだが。
「そう、そうね。今のあなたならば、幼き我が眷属たちでは太刀打ちできないでしょうね……でも、もういいの。あの子は我が子たち以上の価値があるわ。助けたくば、奪い取りなさいな。どのみちこの地に足を踏み入れたあなたを生かしてはおかないけれどね? 巣を壊した罪を償って死になさい」
勝ち目がどうのの問題じゃない、ここまで踏み込んだからには、ここが僕の“死地”だ!
アラクネの指先に魔力が宿る。と同時に、見覚えのある光が灯った。
「さぁ、せめて安らかに眠りの中で殺してあげましょう!」
あの時の睡眠魔法と同じだ。
喰らえば、僕の意識は再び深い泥へと沈むだろう。
だけど、あえて突っ込む。
抜き放った剣を腰だめに構え、僕はアラクネとの距離を一気に詰めた。
アラクネの顔が驚きに歪むが、その右腕は躊躇いなく振られた。右手の指先から放たれた睡眠の魔法弾は確かに真正面から僕に着弾したが、その効果が発動することは無く、全て仮面へと吸収された。
魔力吸収の機能を先に確認しておいてよかった。これで開幕から戦闘不能という最悪の事態は避けられる。
突進の勢いのままに僕の剣がアラクネへと迫る。
「あの時のままの僕ちゃんじゃない……ってことのようね!」
アラクネが高く跳びあがったため、剣がアラクネを斬り咲くことはなかった。アラクネがそのまま僕の頭上から蜘蛛の足先に付いた鋭い爪を突き立ててくる。
転がるようにして逃げた先にも、爪が何度も襲い掛かってきた。鋭い音と共にいくつもの穴が地面に空いていく。
反撃をしなければ串刺しだ。回避に合わせ、脚に目掛けて剣を薙ぎ払う。
がきっ、という音と共に相手の突き刺し攻撃が怯んだ。即座に筋肉を総動員して体を撥ね起こす。
『風の矢よ《ヒュルノーツ》』
立ち上がった僕の顔の横を何かが高速で通過した。背後からものすごい音がする。
過ぎ去った方向を見ると、大木に穴が空き、今まさに倒れていくところであった。
アラクネに視線を戻すと、冷酷な笑みを浮かべていた。
「おほほほほほほ! いつまで避けられるかしら!?」
アラクネの白い指先から、次々と不可視の矢が打ち出される。あれは下級の風魔法“風の矢”だ。あんな威力の矢、見たことも聞いたこともないけど。
アラクネの金の瞳が興奮に彩られているのがわかる。とんだ好き者だ。
「うおおっ、くそっ、無茶苦茶だ!」
周囲の木々を次々となぎ倒していく風の矢の嵐を、奇跡のような回避を連発して避けていく。
やがて風の矢が止まった頃には、広場が倍ほどに広がっていた。
「うふふ、やりますわね。少し楽しくなってまいりましたわ」
「そう、それは、よかった!」
次の魔法の準備をさせてはじり貧だ。
僕は再び、一気にアラクネへ詰め寄ってその距離をゼロに潰した。
「せぇやっ!」
突きを起点として、幾度も剣を振るう。だが、そのこと如くが上質な衣に阻まれる。魔力が流れているのが見える辺り、自分の糸で紡いだのだろう。なかなか上手に織るものだ。
しかし、蜘蛛脚といい、着ている衣服といい、防御力が高すぎる。
それに人と違って急所の場所が高すぎる。蜘蛛の下半身が大きい分、背が高いのだ。顔などに当てようと思ったらかなり難儀する。
「ほほ、接近戦がお得意なのね? なら、これはどうかしら」
そういうと、アラクネの手の爪が真っ黒に染まり、腕と同じくらいの長さにまですらりと伸びた。
まるで細剣のような爪が全部で十本、その全てが鋭利な輝きを見せる。
「しゃぁっ」
アラクネが両の腕を交差させ、鋭い声と共に振りぬく。迷わず、剣を盾にしてその爪を防いだ。
ぎゃりぃ、と金属がぶつかり合う音と共に、僕の身体は後方へと弾き飛ばされた。
「ぐぅっ」
無事に着地したところへ、アラクネの追撃が来る。だが、先ほどの魔法のような脅威はない。接近戦ならこちらにも多少の分がある。
いや、多少の分がある? 仮にも上級モンスター相手に?
戦いに必死に食らいついている状況ではあるが、これは一体どういうことだ。
転身は最後まで取っておけというオーブの言いつけ通り、温存している。そのうえで、あのアラクネとある程度やりあえているこの状況は正直言って予想以上だ。
遊ばれている?
一刻も早くこちらを始末してオーブたちの方へ行きたいだろうに、そんな余裕を見せる者だろうか。
もしかして――
ある予想が頭をよぎるが、それを確認する前に怒涛の攻撃が思考を阻む。
今は、この一時に集中しなくては、いつ殺されてもおかしくはない。
一撃でいい。
布で覆われていない手首を切り落とせれば隙が出来る。首が落とせれば上出来だ。例えそれで死ななくとも、隙が生まれた間に逃げ出して、ハロー達を連れ出せれば作戦は成功だ。
そう、一撃さえ入れば。
長い剣戟が続くが、膠着状態だ。
(頭がぼーっとしてきた)
熱病に浮かされたような、ありえないひと時が過ぎていく。
早鐘の如く打つ心臓の鼓動が心地の良い。徐々に視界が広がっていき、草木の震えすら読み取れるような気がしてくる。
僕が、下級冒険者になったばかりの未熟者が、あのアラクネと打ち合えている。
一合、二合と剣と爪がぶつかり合い、火花が散り、刃がこぼれていく。
それだけでも、後世に語り継ぐには十分だ。
いつか子が出来た時、酔っぱらいながら自慢をするには過ぎた成果だ。「また親父の自慢が始まった」と笑われる程度には。
足りない。
僕の夢にはとても足りない。
英雄になりたいのだろう。アラクネ程度を一撃で薙ぎ払えるような英雄に、子だけではない、だれもが語り継ぐような英雄になりたいのだろう。
(ハロー……!)
やがて、視界が白く染まり切った。




