第一話
古来度重なる気候変動が王国に被害をもたらし、国民の憂いとなっていた。
時の国王は救いを求めて祈り続け、ついにある天啓を得る。
この先、国王の血筋に他に類を見ない黒い髪を持った王子が幾度となく誕生するだろう。
その王子が最愛を得るとき、風と海の均衡を守るだろう。
──しかし、ともすれば畏怖の対象となりやすい黒髪王子を本心から愛し、王子からも愛される女性がパッと現れるものだろうか。
そこで国王は、王子にとって最も相応しく有益な伴侶を魔術の力を借りてパパッと呼び出そうと考え、王子の行く末が決まるであろう時期、すなわち成人を迎えたときにその儀式を執り行うと定めた。
初代王子の際に召喚されたのは異世界のとある国の黒髪の娘で、それは慣例のように何代も同じように繰り返される。
先代王子が逝去されてほどなくして、現在の黒髪王子はこの世に生を受けた。
王子の誕生から三年後、先代王子の妃がお隠れになった年に起きた冷夏と長雨、そして再び繰り返されるようになった自然の猛威に国民は、黒髪王子の結婚への期待を膨らませていった。
王宮の地下、床に描かれた魔法陣の真ん中に、体型を見る限り恐らくは女性が立っている。
彼女の顔は奇妙な仮面によって隠されていて、髪の色さえも仮面を縁取るように生えている大量の鳥の羽のせいで見ることができない。
魔術師長は奇怪な面に首をひねりながらも、彼女の素性を決められた手順で明らかにするよう指示を出した。
数人の者たちの中から進み出たのは年かさの男で、手には文字のようなものが書かれた紙の束を持っている。
その男を仮面越しに見たであろう彼女から、ハッと驚いたように息を呑んだ気配がした。
「⋯⋯?」
その反応に一瞬訝しげな顔をした男だったが、気を取り直して持っていた束の一枚目をサッと彼女に見せる。
その紙には異世界のとある国で使われている言語でこう書かれていた。
『この文字が読めますか』
それを見た彼女はコクリとうなずき、外すためだろうか仮面に手をかけたが、それより早く男が二枚目の紙を彼女に差し出してその動きを止めてしまった。
紙には大量の文字が整然とならんでおり、一番上に他より大きな文字で彼女への指示が書かれている。
『あなたの名前を一文字ずつ指差してください』
彼女はためらいながらも手を伸ばし順番に二つの文字を指し示した。
『ア』『ヤ』
それを見た男は、ほうっと息を吐く。
その名前は先代の黒髪王子の妃と同じで、彼女の国の言葉で、彩るという意味を持つと伝えられていた。
実は王国では先代妃にちなんだこの名が周期的に流行するため、比較的よく見られる名前でもあった。
男はその場の全員に聞こえるように声を出す。
「お名前は『アヤ』とおっしゃるそうだ」
書記官がカリカリとペンを走らせる音が止んでから、男は別の紙をアヤの前に出した。
その紙には先ほどとは違う文字が並んでいて、上にはまた別の指示が書かれている。
『あなたの年齢を指差してください』
アヤは人差し指をしばらく彷徨わせた後、
『20』
の文字の上で止めた。
「年齢は王子と同じ二十歳だそうだ」
男が言い、書記官が記録する。
そして、次の紙にはこう書かれていた。
『あなたは日本に住んでいますか』
歴代の妃は皆その日本という国の出身で、先ほどから男が差し出す紙に書かれている日本語を母国語としていた。
今回現れたアヤもこの日本語を理解していることから同じように日本から来たに違いないと男は確信しているように見える。
しかしその考えに反して、アヤは仮面を重たそうに揺らしながら首を振った。
「違うのか?」
男が驚いた様子で声を上げる。すると、その声に答えるようにアヤがうなずいた。仮面がブンブンと揺れている。
男はその行動に一瞬怪訝そうな顔をした後、紙の束からある一枚を探し出した。
『あなたはどこに住んでいますか』
そしてその隣に、先ほども見せた大量の文字の羅列、五十音表を並べる。
アヤは人差し指を立てて、しかしすぐにその指を戻した。
男は不思議そうにその姿を見ていたが、ふいにアヤが声を出す。
「あの」
その声に微かなざわめきが起こった。彼らの動揺をよそにさらにアヤの言葉が続く。
「王国語で話してもいいですか」
今度のざわめきは先ほどとは比にならないほど大きなものだった。
「お、王国語が話せるのですか」
男が狼狽しながら問う。
「はい」
アヤはためらうことなく肯定して、男の方はしばらく躊躇した後ようやく意を決したような面持ちで口を開いた。
「あなたはどこに住んでいますか」
そして、アヤが答える。
「王宮の東の住宅街です」
部屋の中にはしばらく沈黙が続いて、しかし示し合わせたようなタイミングで半ば叫ぶような声が重なって、響き渡った。
「「「家近いな!!!」」」
驚きに任せて叫んだものの、事態を正確に把握できている者はいないようだった。互いに顔を見合わせながら、頭上には疑問符が浮かんでいるように見える。
「⋯⋯あなたは、異世界から来たのでは、ないのですか?」
男の絞り出すような声が聞こえて、部屋中の視線が再びアヤに注がれた。
「はい、王国の人間です」
男は呻いて眉間を押さえる。周囲がざわつき始めたが男は構わず質問を続けた。
「あなたは何をされているのですか」
「王立図書館で働いています」
「図書館!?」
アヤの答えに男の声が裏返り、慌てふためいた様子で畳み掛ける。
「課は!?」
「翻訳課です」
「⋯⋯担当は」
「日本語です」
男は手のひらで額を押さえて目を閉じると長い長いため息をついた。ため息の絨毯ができそうなほどだった。
そして、あきらめたように声を出す。
「アヤなのか」
「はい、館長」
むう、と館長から呻き声が漏れる。
「⋯⋯君が一体どうしてここに。というかその仮面はなんなんだ」
言われてアヤは被っている仮面を慎重につかんでゆっくりと顔から外した。
現れたのは肩までの長さの明るい茶色の髪。王国ではありふれた色彩である。
ぷはっとアヤが息を吐いた。頬が紅潮している。
「苦しかった! 私今日はお休みだったんですが珍しく家にいまして、届いた荷物の整理をしていたんです。でも、気付いたらなぜかここに」
場違いなほどに明るい声が響く。
「この仮面、父から送られてきたんです。今一緒にいる部族からもらったみたいで。それで試しに被ってみたんですよ」
館長はしばらく思案すると何かに思い当たったようだ。
「確かお父上は民族学者をされているのだったか⋯⋯?」
「そうですそうです!」
嬉しそうなアヤの声。そこに魔術師長が口を挟む。
「館長、彼女は異世界ではなく王都の出身で図書館員だと?」
魔術師長の問いに答えたのはアヤだった。
「いいえ! 生まれは王国の外れも外れ、山奥の奥の字が億個付きそうなところにある村です。でも、両親と一緒に各地の部族と交流しながら生活していたので、そこに実家があるわけではないのですが」
「部族と、交流? ⋯⋯王都には、いつ?」
「四年と少し前です。王都の語学学校に三年間通って図書館に就職しました。蔵書の日本語への翻訳が主な業務です」
魔術師長は腕を組み目を閉じると、ううむと考え込む。
「だから日本語がわかるのか」
「そうです!」
アヤが胸を張って言った。
「なぜ彼女が召喚されたのか⋯⋯。確かに王子とも面識はあるが」
一人つぶやいた館長の言葉を聞きとがめたように、アヤは慌てて声を上げる。
「王子と面識なんてありませんよ! だって私ただの図書館員ですよ?」
「いやいや! よくご案内して差し上げてるだろ!」
間髪入れずに突っ込んだ館長に、ええ? とアヤは首を傾げて考え込む。
「私まだ二年目だから案内業務は買って出るようにしてるんですよね。だからもしかしたら王子をご案内してるかもしれませんが、すみません覚えてないです⋯⋯」
アヤの言葉に館長は思わず目を剥いた。
「黒髪王子だぞ! 見たらすぐにわかるだろ!」
「いやあ、私全身入れ墨だったり首が長かったり竹馬に乗ってたりいろいろな部族を見てきたもので、髪が黒いくらいだとあまり気に留まらないというか⋯⋯よっぽど特殊な会話をしない限り記憶に残らないというか」
言ってアヤは誤魔化すように笑う。
「黒髪王子をなんだと思ってるんだ!」
「ええっと⋯⋯、私、雨乞いの巫女とかシャーマンの友人がいるんですが、王子もそのような方かなという認識でした」