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不満足名称  作者: 音喜多子平
9/30

母親と血の繋がっていない父親との会話3

少し長めです。

 翌朝はとても早く目を覚ました。


 授業の支度を手早く済ませると、静かに部屋を出てこっそりと一階へ降りた。


 今出れば殆ど始発に近いような時間だったが、構わず家を出ようと思っていた。昨日の今日なのでなるたけ母とは顔を合わせたくはなかった。


 朝食はどうでもよかったが、洗面所には行きたかった。

リビングの戸を開けたところで、キッチンに明かりがついていたのに気が付いた。昨日の晩、消し忘れていたのだろうかと思い、のぞき込むと志郎さんが立っていたので驚き身がすくんでしまった。


 志郎さんはこちらの反応に気が付いたのかいないのか、清々しくあいさつをしてきた。


「おはよう」

「…お早うございます」


 何故こんなに早く起きているのかとも思ったが、一先ず洗面所で顔を洗う事を優先させた。歯を磨き終わるころには、空腹を助長するかのような香りが漂ってきていた。


「すぐにパンが焼けるから座ってて」

「いや、もう出ますんで大丈夫ですよ」


 折角の申し出ではあるが、なるたけ母親と顔を合わせたくないのが本音だったので断ることにした。家に居る限り、常にそわそわと意識していなければならないのが嫌だった。


 けれども志郎さんは意に介さず応えた。


「用事で?」

「いえ、そうじゃないですけど」

「優子さんはもう少し寝てるだろうから大丈夫。結実の夜泣きは平気だった?」

「まあ、平気です」


 夜泣きがあったことにも気づかない程、よく眠っていたようだ。


「よかった」


 グングンと志郎さんのペースに乗せられ、気が付けば椅子に腰かけていた。


「というか、何で起きてるんですか?」

「仁くんが早く出そうな気がしてね」

「志郎さんも眠いんじゃないですか」

「大丈夫だよ」

「あの」

「うん?」

「一つ聞いてもいいですか?」

「もちろん」

「志郎さんは、何で僕の事を孝文って呼ばないんですか?」


 昨日から自分の名前について聞くことが多い。名前が変わるという事に覚悟をしていなかったツケを払わされている感覚だった。


「君が嫌がっているからっていうのが一番だけど、僕も嫌だからかな。あ、嫌な名前を付けたって意味じゃないよ」

「それは分かりますけど」

「この改名制度が出来たのって、確か八年位前だったよね。十年は経ってないと思ったけど。そういう制度が出来るかもっていうのをニュースで見て、決定を知ったのはラジオだった。まさか、自分がその制度に関わるとは、その時は思ってなかったんだけどさ」

「はあ」

「その時に思ったのがね、何だか侍みたいだなって感じたんだよね」

「侍、ですか?」


 分からなかった。テレビの時代劇で見た様なシーンが連想されるが、名前の話題とは結びつかなかった。


「そう、侍。『元服』って知ってる?」

「言葉だけなら。昔の武士の成人式みたいなものですよね」

「まあ、概ねそうかな。武士だけじゃなくて町人もやってたんだけどね。地域とか時代によって差はあるんだけど、大体十五歳くらいでやってたみたい。氏子になってる神社に行って、大人の着物を付けて、大人の髪型――つまり丁髷だね。丁髷を結うんだ。町人はここまでで終わりなんだけど、侍には続きがあるんだよね。大きく二つの事をしなければならない。まず、名前が変わる。今までのが幼名って扱いになるんだ」


 名前が変わるという単語に耳が反応した。


「へえ。幼名っていうのは知ってましたけど、そういう由来があるんですね。それで大人の仲間入りって事ですか?」

「うん。ほら高校卒業と同時に名前が変わるってことは十八歳だろう? 選挙権を得るのも十八歳になるかも知れないし、日本と違って外国じゃ十八歳で成人だからね。現代風の元服みたいだなって思ったんだよ」

「それは、その侍本人が名前を考えるんですか?」

「いや、基本的には親だろうね。要するに大人になったケジメを目に見えるようにしたってことだろうね。名前が変われば、いやでも今までとは違うって自覚するでしょ?」

「まあ、そうかも知れないです」


 というよりもそれは正しいと思う。


 僕が母に反抗しているのは、無理矢理違う人間に仕立て上げられていると感じているからだ。今までの名前が取られるのは、過去の自分を全て取られるのではないかと思えてしまい、やり方を間違えたからという理由でリセットボタンを押されているような不快感がある。


 志郎さんは続ける。


「そういう意味じゃ、特別な高校に行った人だけが名前を変えるんじゃなくて、成人になったら全員が改名した方が、ひょっとしたらいいのかも知れない」

「役所が大変です」

「そうかもね」


 志郎さんは笑った。けれども今の自分を鑑みると、名前を変えるという行為には、簡単でない何かがあると漠然と感じているのは事実だった。


「それで、僕を孝文って呼ばない理由の説明はありますか」

「あ、そうだね」


 志郎さんはトーストとハムエッグを用意してくれた。折角なので有難く頂くことにする。


「また、ちょっと話が逸れるんだけどさ」


 対面の席に座ると治郎さんは紅茶を一口啜った。


「結実の名前も、同じような方法で考えたんだ」

「それぞれが、漢字一文字ずつってことですか?」

「そういうことだね」

「それで、よく上手い事ハマりましたね。二回も」

「言われてみれば。ああ、それでね。結実の名前が決まった後に、君の新名を考える事になったんだけど、その時違和感があったんだ」

「血の繋がりですか?」

「そうかも知れない」


 おどけて言ったつもりだったが、真っ向から肯定されてしまったので少し焦った。何故だろうか、今日の志郎さんはいつもの弱弱しさとは違うオーラが出ていると思った。


「それでですか?」

「違うよ。何て言うんだろう…お願いの仕方が、かな」

「お願いの仕方?」

「結実は〈実〉の方を僕が考えたんだ。人生の中で何か一つでも努力が実って欲しいと思って。勉強でもスポーツでも、人間関係とかでもね。まあ、全部実ってくれれば言う事ないんだけど。〈結〉の方も優子さんは誰かと結ばれて一人ぼっちにならないようにって意味を込めたんだって」


 思わず僕は朝食を食べていた手と口を止めた。


「名前っていうのはさ、本当ならそれが持っている性質、とか要素っていうのかな? それを言い表すものだと思うんだ。縞模様がある馬だからシマウマだとか、海にある葡萄だから海葡萄とかね。けど、僕は産まれたばかりの結実がどんな性格で、どんな要素を持っているのかはしらない。だから『こういう要素を持っている』じゃなくて、『こんな要素を持って欲しい』って願いがあって、名前を考えた。だけど」

「だけど?」

「何言うのかな。仁君の場合は、まだ初めて会ってから四年くらいだけど、どういう人間なのか、少しは知っている」

「だから、字が綺麗な人間です――って説明するのに〈文〉の字な訳ですか」

「いや、そうじゃないんだ」

「え?」


 見れば志郎さんは喉まで出かかっている何かが出てこないという、もどかしそうな顔をしている。


「君の名前にも願いは込めたんだよ。何ていったらいいのかな―――分かり易く言うなら、字が綺麗なまま、今の君のままこれからも育っていってほしいってことかな、僕が言いたいのは」

「…そうですか」

「うん」


 意外だった。


 普段は雲の流れるような弱弱しくて誰かに吹かれればそのまま飛んでいきそうな印象だった。僕とも未だに馴染もうとするのが精一杯だし、家庭の事と言えば母や結実のことで手一杯だと思っていた。


 急に恭しい気分になったので、食べている途中だったトーストをカフェオレで流し込んで誤魔化した。


 ふう、と一息を付くともう一つ尋ねた。


「さっきの元服の話の名前が変わる以外のもう一つは何ですか?」

「ああ、それはね。父親から切腹の仕方を教わるんだ」

「切腹――ですか」


 にこやかな顔から物騒な言葉が飛び出してきたので、僕は一瞬たじろいだ。


「うん。その頃、大人の仲間入りをするってのはそういう事だからね。有事の際には、死んでお詫びをしなければなかった。現代風に言うなら犯罪を犯した時、少年法は適応されなくなるってことになるのかな。責任のレベルが格段に違うけどね。だからね、一応は仁君の父親だから偉そうな事を言わせてもらうと、名前が変わるっていうのはそれだけ大きい意味があるんだ。日本の法的に大人になるのはもう少し先だけれど、予行練習と思って自分を一つだけ成長させないと――なんてね」


 冗談をいうかのように話が終わった。


 志郎さんの意外な一面と朝からは重い内容の話の二つの余韻に浸ってしまい、一仕事終えたかのような息が漏れてしまった。けれども、その余韻はドアの開く音に掻き消されてしまった。


「お早う」


 母が起きてきた。顔が一気に陰ったのが自分でも分かった。


「…お早う」

「おはよう、優子さん」

「二人ともどうしたの? こんなに早く」

「二人して目が覚めちゃったみたい」

「結実の夜泣きのせいかしら」

「どうだろうね」

「行ってきます」


 僕はカバンを手に取るとすぐさま二人の横を抜けて玄関へ向かった。


 コートとマフラーを着る間もなく、手に持つだけ持って靴を履く。


「孝文」


 昨日と同じく僕でない誰かを呼び止める声がした。ここで止まってしまったのが昨夜の敗因だ。返事も振り返ることもせず、少々乱暴に鍵を外し玄関のドアを開ける。するとオレンジ色の朝焼けに照らされた、足跡のついていない雪面が僕を出迎えた。


「行ってきます」


 閉じた玄関のドアが、とても頼もしいものに見えた。


 カバンの持ち手を咥えて、コートとマフラーを身に着けながら歩き出す。空気が朝の冷気で澄み切っているせいかそれとも別の理由かは分からないが、やけに清々しい気持ちだった。ただ一つ、志郎さんが用意してくれた朝食の食器を片付けもせずに出てきた事にほんの少しの反省というか、罪悪感が残った。


読んでいただきありがとうざいます。


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