再び、母親との会話3
長めですが、区切りが良いので。
しばらくは鳴りを潜めるか冷戦状態になるかと思ったが、考えが甘かった。また説教とも説得とも言えない会話をしなければならないのかと思うと嫌気がさした。
一応は断ったが、それは否定された。これ以上の面倒事はそれこそ面倒だったので大人の対応として大人しく従うことにした。
リビングには志郎さんが座っていた。いつ帰って来たのかは気が付かなかった。
「起きてた?」
「ええ。将棋して遊んでいたわ」
その言葉で僕の燻りに火が付いた。この憶測だけで物を判断して、あまつさえこちらを逆なでする物言いをする癖だけは本気でどうにかしてほしい。
「そっちの椅子に座って」
「…その前にトイレに行ってきてもいい?」
「ええ。早く行ってきなさい」
一旦トイレに入ると僕はスマートフォンの録音アプリを起動させた。
何となく嫌な予感がしたからだ。誰に聞かせる訳でないが、録音しておいた方がいいような気がした。録音状態を確認すると、それをポケットに入れてリビングへ戻った。
母と志郎さんが並んで座っており、僕は対面へと腰かけた。
「で、話って?」
「確認するけれど、仁は私たちが考えた名前を選ぶつもりはないのね?」
「三つ出揃っていないから、まだ選べてはいない」
「昨日は嫌だって言ったわよね」
「勝手に決められる事が嫌だとは言ったかな」
そっちの都合良いように解釈されてはたまらないので、細かいが訂正を入れる。
「はっきり言いなさい。選ぶ可能性はあるの? ないの?」
「今のところはかなり低いよ」
そう言うと母は一つため息を吐いた。
「そう、わかったわ。ならお母さんが今朝言ったことも承諾するってことでいいのね?」
「家を出てけって話を言ってるの?」
「そうよ」
「本気で言っているなら出て行くよ」
「出て行ってどうするつもり? 働くの? それとも進学するの?」
「今日、そっちがいきなり言い出したんだ。まだ何も決めてないさ。進学だって西南大を目指せって言ったのは母さんでしょ。志望校も勝手に決めていいって事?」
「出て行くんだから全部あなたの自由にしなさい」
「ああそう。だったら尚更、卒業した後のことは分からない」
「まあ、出て行くというのは認めているみたいだから、その後の事は追々で良いわ」
母は志郎さんとアイコンタクトを取った後、後ろの引き出しからプリント用紙を二枚取りだし、その内の一枚をこちらに寄越してきた。
「じゃあ、これを読んでサインしてくれるかしら?」
「なにこれ?」
「志郎さん。読み上げてみて」
それまで口を噤んでいた志郎さんが初めて声を出した。差し出された紙に書いてある文書を一言一句違わずに読み上げる。
紙には大きめのフォントで誓約書と書かれていた。
――――――――――――――――
誓約書
乙川仁殿
私、乙川仁は下記の内容を誓約いたします。
・高校を卒業した後、一か月以内に家を出て行くこと。
・現在、通っている塾を今月いっぱいでやめること。
・実家を出た後に、学費、生活費、その他一切の金銭的援助を求めないこと。
・二〇歳を迎えた時、乙川志郎、乙川裕子(以下両親)と親子の関係を切ること。
以上を申し渡す理由は両親の助言を受け入れず、反発・反抗して家庭内の秩序を乱し、協調する意思を持たないためである。それ故に両親は、親子の関係を維持していくことができないと判断しました。
よって誓約書の内容を確認した上で、両親の要求に誓約するよう命じ渡します。
――――――――――――――――
目で文字を追い、淡々と文を読み上げる志郎さんの声も間違いなく聞き取れているのに、何が書いてあるのか理解が追い付かなかった。
そして僕の混乱に付け入る様に、母はサインペンを差し出し冷たく言った。
「じゃあ、ここにサインして」
「待ってよ。何だよこれ」
「誓約書よ。ここに書いてある事を守るよう、サインを書いて」
「…本気で言ってるの?」
そう聞いたが本気なのは分かり切っている。こういう冗談を言う人間ではない。それでも、口が勝手に薄い希望を吐露していた。
「勿論本気よ。お母さんが邪魔なんでしょ? 家を出て行くってのはこういう事よ」
「親子の関係を切るってどういう事? 絶縁するって言ってるの?」
「そう。言ってる通り」
「家を出た後金銭的援助を求めないって…」
「当然の事でしょう。家族の事を考えるから家族は家族になれるの。あなたみたいに自分さえ良ければいいって考え方は、はっきりいって大迷惑です。親のいう事が聞けないなら出て行く、出て行くならお金のこともきちんとしなきゃいけないわ。ただ、いきなり無一文で追い出すほど私たちも鬼じゃない。進学するならあなたの為に貯めておいたお金があるから。一応進学すると考えて学費として百万、当座の生活費として百万、合わせて二百万円をあなたに渡します。それ以上は一切援助しません」
「…」
「反論や質問がないようならサインして」
ない訳がなかった。ただ考えがまとまらず言葉が出てこないだけだ。それでもあがくように声を捻り出した。
「待ってよ。書ける訳ないだろ」
「どうして?」
「どうしてって…いきなりこんな紙突き出されて、馬鹿正直に書けると思ってるの?」
「あなたを子供じゃなくて、大人として認めてるの。大人なら単なる口約束だけじゃいけないってのは分かるでしょ? きちんと証拠が残るようしなきゃ後々ややこしくなるわ」
「いきなり過ぎるし、やり方も馬鹿馬鹿しいよ」
「けどさ、仁君。君は家を出て行きたいんだろう? ならサインしなよ」
不意に横から飛んできた志郎さんの言葉が馬鹿に頭の中に響いた。そしてそれに反射するかのように顔を見た。表情がいつもとまるで違くて、何も読み取れない。
今まで中立的な立場に立っていてくれていた志郎さんの雰囲気は、影すら残っていないように思えた。
少なくとも今は完全に母の側の人間だった。
水の中に零したインクのように嫌な気配がジワリジワリと僕の中に広がっていく。
「出て行きたいんじゃなくて、出てけって言われてるんですけど」
「なら出ていけって言われてる理由は分かってる? 僕も見てきたけど、君にも非はあると思うよ」
「何があるっていうんですか?」
「だからさ、纏めて言っちゃうと仁君はこっちの言う事を聞きたくないんでしょう? なら聞かなくていいようにするからサインしてって事なんだけど…分からないかな?」
目の笑っていない笑顔というものを初めてみた。まるで出来の悪い幼稚園児を諭すかのような口調と態度には、苛立ちよりも怖さが先に出てきた。
本当に僕の知っている志郎さんとは別人に思える。
「理屈は分かりますよ」
「分かるんだったらサインしないと」
「ただ納得できない」
「何が?」
「一方的過ぎるからっすよ」
鼓動も息も語気もどんどんと荒く強くなっていく感覚だけが、僕の中に残った。
「そうかな? 君の言い分も分かるけど裕子さんの言い分も間違ってはないと思うけどな」
「子どもは親のいう事を聞く。それが普通で常識なの。あなたにはそれがないから出て行ってもらう。そしてお互い後腐れがないように誓約書を書きなさいと言ってるの。何か間違っている事言ってる?」
「そりゃあ他人同士ならそうなるかも知れないけど、親子なんだよ?」
「こうなってから親子だって言い出すのは考えが甘いわよ。きちんとした親子なんだったらまず、今までの反抗的な態度を改めて謝りなさい」
「…何なんだよ、一体」
昨日の母と口論した時のことを回想した。
僕はそれ以上に声を荒げ、叫んだ。
「僕がどんな気持ちでいたのか知ってんのかよ。全部…全部……全部勝手に決められて! 離婚するのも、引っ越すのも、再婚も進学も全部勝手に決めてそれで言う事聞かなかったなんてよく言えるな。父さんに会うな、将棋はもう止めろ、その分勉強しろ…そして今度は自分に都合よく書いてきた誓約書にサインしろって何なんだよお前、本当に」
「けど従いたくないんだろ? ならサインしろよ」
いつもの志郎さんからは想像できない声で、命令するように言った。
「嫌だっつってんだろ」
「ならどうするつもりなの? 親の言う事を聞くのが嫌だから家は出て行く。けど生活費は親が出せっていうのは理屈がおかしいでしょ? 小学生じゃないんだから」
「…それにね、仁君は色々我慢してきたって言ってるけど、それは君だけじゃないんだよ。僕だって君の父親になろうと努力して、我慢する場面だってあったさ。けどこっちが打ち解けようとしても君は基本的につっけんどんだったろう? あまつさえ目の前で、前の旦那の事を言われる僕の気持ちを考えたことあんのか? あんまり人を馬鹿にするんじゃねえぞ、テメエこの野郎」
「っ…」
どす黒い声に僕は思わずたじろいだ。
志郎さんの冷たく突き放す言葉に、僕は裏切られたと苦しくなった。そう思うということは自分でも、無意識のうちに志郎さんを信頼していたのだろう。
そしてそれ以上に、自分の考えている真意が何故捻じれてでしか伝わらないもどかしさが苛立たしく、消化できない葛藤のやり場に困った。僕の言葉が足りないのか、そこまで自分の思いが伝わっていないのかと思うと恐くなった。
「馬鹿になんてしてませんよ」
「君がその気でなくても、事ある毎に言われると馬鹿にされてると思うんだよ」
「…とにかくサインはできないよ。そっちはここまで用意周到にしておいて、僕にだけ即決を迫るのは卑怯だろう」
「卑怯でも何でもない。社会に出たらこのくらいの事は普通にある。君に社会経験がないだけだ」
「…」
「言う事はもうないんでしょ。ならサインをして」
「…わかったよ。ただ言質を取るんだったら、そっちも家を出るに当たって二百万円を渡すと明記して」
「わかったわ」
「ここの後ろに括弧書きで、当座の生活費として二百万円を譲渡すると書きます。納得した?」
「ああいいよ」
僕は観念した。けれどもここまで言われて素直に謝る気など到底起きなかった。
母は消沈した僕を見た。そして微笑んで言った。
「後もう一つ、書き加えます。『但し高校卒業までに誠意をもった対応を見せたと判断したときはこの誓約の一切を無効とします』とも書いてくれる? 問題ないわね?」
何を思ってそう言ったのだろうか。そして何故母は笑っていられるのだろうか。
言いたい事が言えたからなのか。思い通りに誓約書が出来上がったからだろうか。それとも単に僕を嘲笑しているだけなのかもしれない。
人の笑顔ってこんなに気持ち悪いモノだっただろうか?
「勝手にすれば」
吐き捨てるように言った。
「了解がもらえたから、志郎さん書き足してくれる?」
「わかった」
志郎さんは両方の紙にその旨を書き加えた。
そしてその場の三人が、それぞれの署名欄に自分の名前を綴った。
僕はこの時には、もうどうでもよくなっていた。
「はい。これはあなたの控え。言われなくとも分かってるとは思うけど、失くさないように保管しておきなさい」
この場にはこれ以上は一秒たりとも居たくはなかった。頭はフラフラとしているが、早々に部屋に戻るために立ち上がろうとしたところで志郎さんに呼び止められた。
「仁君」
「はい?」
「君の言いたいことは分かったし、僕も言いたいことは言った。これで一旦はリセットできたと思ってる。この後、何をどう考えるか分からないけれど、頑張ってね」
「はい」
顔も声音もいつものそれに戻っているが、返って気味が悪かった。
一刻でも早くここからいなくなりたかったが、その焦りが出てしまった。
パーカーのポケットに入れていたスマートフォンを立ち上がった勢いで落としてしまった。そして悪いことに、気を利かせた志郎さんに拾われてしまった。
背筋に嫌な汗が流れる。
拾った時にふと画面が視界に入ったのだろう、まるで汚いものを見るような、それでいてどこか冷静な目で志郎さんは僕を見た。
「何? 録音してたの? 見かけによらず、すごいことするね」
そのまま画面を母も見せる。
そして大したことではないと言わんばかりに、余裕をもって僕に手渡してきた。
「いいんじゃない? 人に聞かれて困るような事は言ってないよ。当たり前の事を言っただけなんだから」
「そうね」
母も猜疑的な目を向けてきてはいたが、特に言及されることはなかった。
その二人の態度に僕は焦り、二人に飲まれまいと強がった事を言う。
「心配しなくたって使いませんよ。なんなら今消しましょうか?」
「別にいいって」
「そっすか…」
そこからは素早く部屋に戻った。そしてベットの中に潜り込むと、改めて空しさや悔しさ、怒りや情けなさといったおよそ負の要素にカテゴライズされるであろう感情が襲いかかってきた。頭にも心にも隙間はなくなり、二人の表情や声が何重にもエコーしている。
どれだけ時間が経っても興奮が収まることはなかった。いや、時間が流れている事すら気にする余裕がなかった。カーテンを通り越して朝日が部屋に差し込まなかったなら、一睡もできずに夜を明かしたことにも気が付かなかったと思う。
カーテンの間から橙色の陽の光が目に入った。
僕は思い立つよりも早く、家を出る支度をしていた。
服を着替え、ノートと本をカバンに詰め込んだ。財布と携帯電話を間違いなく持ったことを確認すると、二人に気が付かれないよう気配を殺して家を出た。
外は冬の朝に相応しい温度だった。けれども僕にとっては暖かかった。世界中のどこと比べても、この家に比べれば暖かく感じられると思った。
行く当ては全くなかった。息を吐くと朝日に照らされながら風に流され、いつもの通学路の方へ消えていったので、それに倣って足を向けた。そうすると定期があるから駅に向かおうとか、いっそのこと街にまで行ってしまおうかと、色々な考えが湧き出てきた。
肺に入る空気はとても冷たいが、それが返って生きている実感のような、そんなものを感じさせてくれた。
冬が好きな人間でよかったな、と思いながらまた白くなる息を吐き出した。
読んでいただきありがとうざいます。
感想、評価、ブックマークなどしてもらえると嬉しいです!




