再び、母親との会話
毒親注意
父の店から家までの足取りは重かった。けれどもいざ着いてみれば、道のりはあっという間だった。
玄関を開けると志郎さんの靴があるかどうかを真っ先に確認した。そしていつもの革靴がないことに軽く落胆した。どうやら今日は一騎打ちをしなければならないらしい。
「ただいま」
意識したわけでないのに声はか細くなってしまった。
そんな声でさえ耳聡く聞き取ったのか、それとも玄関の戸の閉まる音が耳に届いたのか、母がリビングから顔を出した。
「孝文、ちょっとこっちに来て座りなさい」
母からはおかえりの言葉もなく、まずはジャブの代わりに冷淡な命令を飛ばしてきた。
「…何? やることあるんだけど」
「いいから来なさい」
どうやらかなり機嫌が悪いらしかった。いつものように強引に部屋に引きこもるより、空返事で受け流す方が後々楽になると判断して、大人しくリビングに座り込んだ。
「何?」
「どういうつもり?」
「だから何が? はっきり言ってよ」
「何であの人のお店に通ってるの?」
そう聞いた刹那、ぞわっと全身の毛穴が開いたような感覚が全身に走った。同時に色々な憶測が頭の中を右往左往する。僕は飽くまで平静を装って、分かり切っている事を念のために聞き返した。
「…父さんの店って事?」
「もうお父さんじゃないでしょ」
「そんな訳ないだろ。どうなったところで父さんは父さんだよ」
「志郎さんに申し訳ないと思わないの? あなたは今あの人に育ててもらってるのよ」
「それとこれとは話が違うよ」
「とにかく、あの人のお店に行くのはもう止めなさい」
「行くか行かないかは自分で決める」
そういうと母は深呼吸をした。
そして困惑と蔑視が合わさったような目で僕を見た。
「どうして親の言う事を素直にきけないの――あの人と同じB型だから。融通が利かないのね。頑固なのは損するだけで、得することは何もないのよ」
「…」
「何をしにお店に行ってるの?」
「別に。コーヒーショップなんだからコーヒーを飲みに行ってるだけ」
「ならあのお店でなくてもいいでしょう。他のお店でも、家で淹れたっていいじゃない」
「他にもあるよ、相談事があったりさ」
「それこそ、志郎さんや私にすればいいでしょう」
「嫌だよ」
「何がそんなに嫌なの。あなたの為に色々考えてあげてるのに」
「母さんに相談したってこっちが思ってるような事しか返してこないから無駄だよ」
「何を相談したいの? 名前のこと?」
お互いにどんどんと、口調は早く強くなり、声には苛立ちが交ざってきている。
僕はガツンと言ってやろうとも思ったし、冷静さをなくしたらダメだとも思っていた。頭の中に何人もの自分がいるような錯覚を起こしている。そして、結局表に出てきたのは、爆発を必死に抑えつつも言いたい事を止められない自分だった。
「ああそうだよ。母さんに言ったってどうせ孝文にしろの一点張りなんだから」
「あなたのことを一番知っているから、一番いい名前を考えられるのは当然でしょう。逆に何を悩むのかが分からないわ。久子叔母さんだって、良い名前だって言ってるし、あなたがここまで反発するのはおかしいって言ってるのよ」
「ほら、言った通りじゃん。相談したところで孝文にしろって言われるんじゃ相談する意味がないだろ」
「一体何がそんなに気に食わないの?」
「勝手に決めつけるところだよ。何で僕の意見は聞いてくれないのさ」
「親が子供の事を決めるのは当然でしょう」
「…そりゃあ、ある程度はそうだっていうのは認めるよ。僕は大人じゃないかも知れないけど、全部面倒見てもらわなきゃならない程子供でもないつもりだ」
「つもりよ、本当に。私たちがいなければちゃんと生きていけないでしょう」
「――だから、決めつけんなって言ってんだよ!」
苛立ちが抑えらず、大声で叫ぶように言い放った。
そして母は、人差し指を唇に押し当て「しぃ」と小さい子をあやす様な格好になった。
その仕草を見た途端、鬱憤も不満も冷静さも何もかもが、ただの純粋な怒りに変わってしまった。僕は生まれてきてこの方一番、大きな声で叫んだ。
「何がしぃだ、ふざけんな! ならどうすりゃ満足なんだよ。一から十までてめえの言う事聞きゃいいのか? だったら全部決めてみろよ。どこまで従えばいい。朝起きてから寝るまでか? 高校を出て大学も決められて、大人になって死ぬまであんたの思い通りに生きてりゃ気が済むのかよ」
頭に血が上る。
今まで想像するしかなかった言葉の意味が痛い程よく分かった。全身の血管が破裂したのではないかと思うほど体が熱い。とりわけ頭の中は直接煮え湯を注がれたかのようだった。
僕は息を乱しながら、それでも目だけは逸らさなかった。逸らしたら負けのような気がした。
母の顔は冷たく、何を考えているのかが全く読み取れなかった。
「何なのその口の聞き方は?」
「話反らしてんじゃねえよ。こっちはどうすれば良いんだって聞いてんだから、答えろよ」
長い間があった。壁掛け時計の音だけが空しく響く。
「…一体何様のつもりなの? あなたの為にあの高校を選んであげたのに、何でそんな事をいうの?」
「どこが僕の為だっていうのさ?」
「あなたの為じゃない」
「だからどこがだよ」
「…」
母はため息を一つついた。二の句が継げないようだったので、僕は更に続けた。
「ほらね。答えられないだろ。結局今言う事を聞いてくれるお人形が欲しいだけなんだよ、あんたは」
考えるよりも先に口が動く。今まで思いはしたが理性で飲み込んだ言葉たちを何の遠慮もなくぶつけた。
「僕は全部気に食わないよ。勝手に決めつけられるのも、自分の意見を周りの人間も言っている風に装うのも、上から目線なのも、何でも否定から入るのも、恩着せがましいのも全部腹が立つ」
「…そう。分かったわ」
小さく、母は言った。
「話は終わり。ご飯は食べたの?」
「いらないよ」
とても何かを食べられる心持ちではなかった。
荷物を手に取ると自分の部屋へ足早に向かった。
部屋に入った後は、しばらくの間立ち尽くしていた。座ることもベットに横たわることにも気が引けた。どれくらい時間がったのかは分からないが、一つくしゃみをして我に返った。体と頭の火照りは嘘のように冷め、暖房も付いていない部屋の寒さは既に全身を覆っていた。
部屋着に着替えると、疲れている事を自覚した。色々とやりたいことはあったがもう何も考えたくなかった。
何となく、外は雪が降っている様な気がした。
何度寝返りを打っても一向に寝付けなかった。枕もとのライトを付けると、カタツムリのように這い出て手を伸ばし、カバンを取った。ここまで暖めた布団を捨てる気は更々起こらず、今日買ってきたばかりの本を読むことにした。
読んでいる実感はある。今すぐ本を閉じて内容を要約しろ、と言われても簡単にできる。けれども頭に入っていないと思えるような不思議な感覚だった。きっと余計なものが中に多すぎるのだ。ゴミを押し入れに押し込んだだけで、部屋の片づけとしたような、その場しのぎの焦燥感がどうにも拭えなかった。
けれどもそんな感情すら人間は慣れるのか、それとも身体的なシステムなのかは知れないが、ふと大あくびが出た。それをきっかけに自分の睡魔も本調子を出してきた。
本を置き、ライトを消す。今度は意識を手放すように眠ることができた。
読んでいただきありがとうざいます。
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