35・まだ……。
久しぶりに帰った傭兵団の自室で一人になれば、セイネリアでさえほっと気が抜ける感覚があった。エルが部屋を去った後、カリンも下がらせて静まり返った部屋の中で、セイネリアは椅子に座ったまま足を机に投げ出して目を閉じた。
自分は何でも理論的に考えてその時その時で一番良い、合理的だと思う行動をしてきたつもりだった。だが今回、自分がアジェリアンと手合わせをする約束を反故にしたのは感情的な理由だ。その時の自分は、彼の申し出を断りたくもなかったし、かといって彼と剣を合わせたくもなかったのだ。
それ自体に理由はある。あの時点で彼の言ってきたことを断る理由はなかったし、断るのは不自然だった、だから断れなかった。だが実際彼と手合わせをすれば、彼はセイネリアが強くなりすぎていることに気づくだろう。以前のアジェリアンと自分の実力差は腕力と思い切りの良さで勝てていた程度で、技術面はアジェリアンの方が上だったと思われる。彼の怪我があったとしても、開きすぎた実力差に彼は失望するだろう。それで自暴自棄になるような男ではないとは分かっているが、努力の末取り戻した自信を失うかもしれない。だからといって手を抜く事は出来ない。アジェリアンなら絶対気づくし、その方が負かすよりも彼を傷つけることは確実だ。
だから結局――セイネリアが取った行動は『逃げる』ことだった。
剣を合わせれば必ず彼を失望させる結果になると分かっていたから逃げるしかなかった。セイネリアはアジェリアンに対して、彼自身にも、自分自身にも、失望させたくなかった。
――これだから、いい奴、というのは困る。
彼が純粋に自分を信頼してくれるから、彼に失望させたくないと思ってしまう。そのせいでセイネリアは逃げるしかなかった。まさか自分が逃げるなんて選択肢を取ることになる日がくるなんて思いもしなかった。
嫌いな人間、ムカつく人間相手ならどんな手でも使えるし、そいつらがどうなろうが構わない。だが気に入っている人間、馬鹿みたいに善良で自分を信じている人間に対しては、自分のプライドに懸けてセイネリアは裏切らないし、失望させたくないと思っている。
こんな理由で自分が『逃げる』ことを選択するというのは、我ながら呆れることであり、信じられないことでもあった。
だから帰りの道中もほとんどずっと何も言わず、今の自分の心境、自分がどうしたいのか、どういう状況なのかを考えていたのだが……勿論、そんな漠然とした事の結論が出ることはなかった。
自分自身で自分の行動に違和感を覚える。自分が今、何を優先したいのかが分からない。腹に溜まる重い感覚は剣による自分の変化に対するものだと分かっているが、対処方法がないのだから解消のしようがない。そんな感覚を抱えたままだからなのか、今の自分は確実に何かおかしくなっているとは思う。
どう足掻いても黒の剣を手に入れる前には戻れないのだから、それによって自分の中に起こった変化をぐちぐち悩んでも仕方ない――と結論は出ているのだが、いつものように割り切りきれていない、それは自覚がある。
だからセイネリアはナスロウ領の帰り、ケサランと別れた直後にカリンに聞いたのだ。
『カリン、今の俺はらしくないと思うか?』
カリンは少し驚いた顔をしたが、それでもこちらを真っすぐ見て言ってきた。
『ボスは変わりました。以前のボスの基準からすればらしくない、と思うことは最近よくあります』
『前に比べて腑抜けたか?』
そこは皮肉げに。だがカリンはそれにも真っすぐ返してきた。
『そうは思いません。ただ今のボスは常に怒っているように見えます』
『怒っている、か』
確かにその表現はあっているのだろう。今の自分はこの現状が気に入らなくて苛立っている。他人から見れば怒っているように見えるのかもしれない。
セイネリアが黙れば、そこでカリンが言ってくる。
『今のボスは変わりました、ですが私が従うことを決めたお方であることは変わりません』
『どんな俺でも無条件で従うということか?』
カリンはどんな自分でも無条件に従う、そういう契約だからだ――その皮肉を込めて返した言葉だったが、彼女が返した返事はセイネリアの予想から少し違っていた。
『もし、ボスが以前のボスなら絶対にやらない、許せないような行動や指示をするようになったのなら私は従いません。……今のボスは確かに変わりましたが、大本が変わった訳ではありません。ボスはボスです、だから私は従うのです』
それにセイネリアが返事として返した言葉は、そうか、と一言だけ。
その先の言葉は頭の中だけで呟いた。
――そうか、まだ、俺は俺ではあるらしい。
ワンクッションセイネリアの回想を入れた後、次回はサーフェスとの交渉となります。