142・呼び方
その日の昼前に、セイネリア達一行はグローディの屋敷を出ることにした。そんな時間になってしまったのは朝食を済ませた後のお茶の時間が長かったせいだが、その間、セイネリアだけはグローディ卿の部屋に呼ばれて仕事終了の書類を受け取ってきていた。
『今回は本当に感謝する、贅沢をいうならロスハンが死ぬ前にお前を頼っていればと思うが、その後はお前に全て救われた。礼を言っても言い切れない。我が家の名をもってこの恩は忘れないと誓おう』
最初に会った時からすれば一気に老け込んだように見えた彼は、書類をセイネリアに渡すと同時にそう言って深く頭を下げてきた。
『恩』などというものに頼る気はないが、グローディ側に無茶がない程度の事であれば今後いろいろ頼めるだろう。こういう繋がりは金以上に価値があるから、セイネリアとしてもこの仕事は大きな意味があったと言えた。
その後、部屋についてきたザラッツとディエナにも礼を言われてセイネリアは皆のもとへと戻った。彼ら二人は、今回の件の後処理が終わってザラッツが正式にナスロウ卿となってから結婚するそうだ。そうしてスオートが成人するまで、領主代理としてはディエナが立って主に外交を担当する事にし、細かい実務の方は今まで通りザラッツが行うらしい。ザラッツはナスロウ領の仕事もあるが、今後はディエナも積極的に手伝うだろうから前のように責任に押しつぶされそうになる事はないだろう。
そうして、ここでやる事を全て終えてから、セイネリア達一行は首都へ向けて出発した。
ヴィッチェ達アジェリアンのパーティ連中は一度首都に帰って、アジェリアンとフォロへの報告、それとクトゥローフにも話をしてから、向うへ移住する準備をして改めてまたグローディまで来る事にしたそうだ。だから結局、行きから帰りの面子で減ったのはレンファンだけとなる。
帰りも行きと同じくケサランと待ち合わせをして、首都までは即日コースで帰れる事になった。実を言えば帰りは普通に街間馬車を使うつもりだったのだが、帰りが決まってから二日あった事でケサランに連絡が取れて迎えに来てもらえるようになったという事情がある。
当然彼からは『この俺をこれだけ気楽に呼び出してこき使ってくれるのはお前くらいだ』と嫌味は言われたが。
その分向こうはまた厄介事があればこちらに声を掛けてくるのだろうし、その時に協力する気があるからこそセイネリアは彼に頼み事をしているのだ。
早い時間に首都に帰れたからすぐに事務局に仕事終了の報告に行って、セイネリアはカリンだけを連れて他の面子とはその場で別れた。
そうしてその足で向かったのは……娼婦街の女ボス、ワラントのところだった。
「おかえりなさいませ、お待ちしていました」
いつも通り入口前にいた女戦士、リリスに声をかければ、彼女が恭しく礼をとってきた事でセイネリアは事情を察した。
通されたいつもの部屋には誰も座っていない空の椅子があるだけで、そこにワラントはいなかった。
「婆さんは死んだか」
後ろに控えたままの女戦士は、はい、と平坦な声で答えた。
セイネリアは隣にいたカリンを引き寄せると、彼女の顔をこちらの胸に押し付けるように頭を軽く抱き込んでやった。まもなく、彼女の肩が震えて嗚咽が聞こえてくる。自分と同じくここに来てすぐ察したらしいカリンがずっと泣くのを耐えていたのをセイネリアは知っていた。
「婆様は全てを貴方に託すといい残しています。我らも全員それに同意済みです」
「そうか……」
あの婆さんがそのつもりだという事は、セイネリアもかなり前から気付いていた。だからこそ自分にいろいろ便宜を図ってくれたという事も。
――まったく、老人というのは……何もかもこちらに押し付けていこうとする。
人から譲られたものなどいらない――いつもはそう思っているセイネリアだが、今回は断るつもりもなかった。なにせ断る相手がいない……と言うのは詭弁だが、娼婦達のボスというところが自分『らしい』と思ったのは確かだ。だから、自分がいない間にワラントが死ぬのなら受けるべきなのだろうと思ってここを離れた。
「分かった。だが場所が場所だからな、俺が常時ここにいる訳にもいかないし、一番上は女の方がいいだろう。だから名義上、ここのトップはカリンとする。カリンは俺の部下だ、必然的にここは俺の配下となる、それで問題ないか?」
言えば、泣いていたカリンがゆっくりと顔を上げる。
「あの……」
「分かりました、貴方のいう通りに」
カリンが何かをいう前に、リリスがその場で跪いた。
不安そうな目で見上げてくるカリンに、セイネリアは強い声で言う。
「カリン、命令だ。俺の代わりにこを任せる。言った通り、暫く俺は自由に動けなくなる。その間に組織内を把握していつでも俺のために使えるようにしておけ」
カリンは大きく目を見開いて、一瞬、その表情に不安を浮かべたが、すぐに強い瞳で見返してきた。体を離して背筋を伸ばし、恭しく礼を取る。
「承知しました」
セイネリアはそこで笑みを浮かべて、忠実な部下である彼女の頭に手を乗せた。
「頼む、やり方はお前に全て任せる。今のお前ならどうすればいいか分かっている筈だ」
「はい」
そうして振り向けば、部屋の外にはここにいる他の女達も集まっていて、ワラントの直の部下であった女達は皆その場で跪いていた。
「カリンの言うことは俺の言葉だ、以後は皆、カリンの命で動け。ただし命令は絶対ではない、何か不満や意見があるならいくらでもカリンに言え。俺もカリンも完璧などではない、お前達の方が知っているモノも多くある、それは確実に役に立つ。だから卑下するな、お前達は全てここにいる時点で価値がある、価値があるようにしてやる」
はい、と跪いていた女達が頭を下げる。
こっそり覗いていた娼婦達から歓声が上がる。
カリンが一歩後ろに下がって、改めて跪いた。
「我が主、貴方がいない間、必ずここを貴方の望む通りにしておきましょう」
だがそこで、部屋をのぞいていた娼婦の一人が言った。
「ふふ、我が主じゃなく、我らが主、じゃないのかしら」
そうすれば周囲にいた他の娼婦達も言い出す。
「そうよね、カリンは私たちの代表だから」
「いやでも、そうなると私たちもあの坊やの事を我らが主って呼ぶの? なんか堅苦しいわねぇ」
「あんた達っ」
リリスの後ろで控えていたマーゴットが娼婦達に怒る。
そこでカリンが少し困っていたから、セイネリアは娼婦達に聞いた。
「ならなんと呼びたい? 確かに俺もお前達から主やら様付けで呼ばれるのは違和感があるな」
「そうねぇ……」
リリスやマーゴットといったかつてワラントの側近だった連中は苦い顔をして娼婦達を睨んでいるが、セイネリアが怒っていないのだからそれ以上は何も言わない。
「ボスでいいんじゃない? この界隈じゃ普通だし」
「ここのボスはカリンだろ」
「あらぁ、こんな若くて可憐な娘をボスなんて呼んだら可愛そうじゃない。逆にあんたにはぴったりだと思うわよ、いかにも腹黒の黒幕っぽくて♪」
「あんた達っ、さすがにいい加減にしないと……」
さすがにその言い様にはマーゴットが切れて怒鳴るが、セイネリアが声を上げて笑ったことですぐに口を閉じる事になる。
「まぁいいさ。いかにも箔が付いたようで悪くない。カリンがそれでいいならな」
言えばカリンはにこりと笑う。
「はい、私はそれで構いません、ボス」
それで娼婦達が喜んでボスを連呼しだし、今度は元側近連中が全員切れて娼婦達を部屋に戻らせた。それから改めて側近連中とだけで今後の事を話し合い、夜に改めて娼婦達を交えての宴会となった。
首都帰りはさくっと終わらせて情報屋のボスエピソードまで。
ちょっと長すぎたので分割しようかとも思ったのですが、週末で全部終わらせたかったのでこのシーンは全部1話に入れちゃいました。
次回でこの章は終わりとなります。




