29・お許しください。
生きたいように生きなさい――そう、あの人は言った。
いつも通りの朝、いつも通りに起床後の支度を手伝って、部屋を出ていく時に一度だけ振り返ったこの家の主人である男は彼女にそう、言ったのだ。
『君はまだ若い、出来るならしがらみに縛られる事なく、生きたいように生きなさい』
その言葉と最後の優しい微笑みだけが、ナスロウ卿がアカネに残してくれたものだった。
扉が彼の姿を隠し、部屋の中に残されたアカネはただ苦しくて胸を抑えた。この気持ちを何と呼ぶかは分らなくても、ただひたすらに苦しくて悲しかった。
それでも、彼を止めてはいけない事は分かっていた。晴れ晴れしい顔で部屋を出て行った彼の最後の願いが叶う今、それを止めてはいけない事は彼女も分かっていた。
かつては騎士団の勇者と呼ばれ、けれど何も残せなかった、何も変えられなかったと失意の晩年を過ごしていた騎士の最後の願いは一つ、『戦って死ぬ事』――自分が認めた相手と戦ってその中で死ぬ事だった。戦場で死にたかったと、口癖のように呟いては自嘲の笑みを唇に乗せる老騎士の姿をアカネは何度も見てきた。だからこれは止めてはいけない、やっとあの人の最後の願いが叶うのだから――。一人残された彼の部屋で、アカネは涙を流して立ち尽くすことしか出来なかった。
そうして、暫くの時間をその場で過ごし、アカネは屋敷の外に出た。足が向かう先は中庭の奥、いつもナスロウ卿が従者である男と剣を合せているところ。けれどそれは自分でも意識していない行動で、だから気付いた時に彼女は足を止めて躊躇した。
止めたいのか。
それとも、彼の死を見届けたいのか。
自分のしたい事が分からず彼女は考える。行ったとしてそれ以外にする事などないだろうに、そのどちらにも違うとしか答えられない。自分でも自分が分らずまた立ち尽くせば、今度はある気配を感じて彼女は反射的に身構えた。
「さすがにここまで近づけば分かりますかね」
見覚えのある男を見て、アカネは眉を顰める。
「随分鈍ったものだといいたいところですが、まぁいいとしますか」
『ボーセリングの犬』としての実力順ではアカネはこの男よりもずっと下になる。ナスロウ卿が首都にいた当時から潜入していた彼は、今はアカネの見張り役でもあった。とはいえ優先順位としてはナスロウ卿が殺されるかどうかの方が重要な事は確かで、それで今ここに居るという事は恐らく――もうそちらは終わった、という事なのだろう。
「ナスロウ卿は死にましたよ、貴方の役目も今日までという事ですね」
だからその言葉にも驚く事はない。それは分っていたことだ。
「さっさと帰る支度をしたらどうですか? ……あぁいや、そういえば貴方はここで顔を覚えられ過ぎてますかね、ボスのもとに帰るなら、ついでにここの使用人も始末してくるべきでは?」
けれど、その言葉を聞いて彼女の心は決まった。アカネは赤い唇をつり上げて、晴れやかな気持ちのまま鮮やかに笑った。
――旦那様、残念ながら私には生きたいように生きる事は出来ないのです。けれど、死にたいように死ぬ事なら出来ます。だから、お許し下さい。
そうして腰からナイフを抜くと、アカネは自分より格上である『犬』に向かって駆けて行った。




