75・騙されない
ドートー達が部屋から出て行って彼らが遠ざかるだけの時間を待ってから、アンナは大きなため息を吐いた。開いたままのカーテンの向こう側では、ディタルが力を抜いてやっぱり盛大に息を吐いているのが見えた。セルパは表情を取り繕うのが苦手だから、侍女達を外に出す時に見張り役を兼ねて一緒に外に出て貰っていた。
ベッドの上を見れば、ルーテアも体の力が抜けたようにほぅっと息をついていたから、横にいたゾーネヘルトと顔を見合わせてから、アンナは彼女の方に行ってベッドに座った。
ベッドが沈んだ事で気づいた彼女が顔を上げる。
彼女の顔の派手な傷には反射的に驚いてしまったが、すぐに笑って彼女に言う。
「お疲れ様、どーにか終わったわね」
「あの……大丈夫だった……でしょうか?」
「う~ん、あの調子なら大丈夫そぉじゃないかな~」
不安そうな彼女に、アンナはあえて気楽そうに答える。ボンダリーの表情からすれば、彼女の傷を信じて彼女に興味を失くした――と考えて大丈夫だろうとアンナは思っている。
それにしても本当に、あの男の思惑通りに事が進んだ。
『連中の計画にこれだけ協力していたんだ、ボンダリーは当然あの魔法使いの能力をきちんと分かっている。なら絶対に、実際の彼女を見た時に、彼女の傷があの魔法使いによるものではないかと疑う筈だ』
だから、必ず触って確認してくる。
セイネリアのその言葉を受けて、例の襲撃後から今まで、彼女と魔法使い、そしてアンナの女3人は、どうにか傷跡の触った感触を再現しようと試行錯誤していた。そのために侍女達をこちら側に置けなかったというのもある。
『商人としてやり手だった男なら、魔法で変えられるのは見た目だけ、という事まで分かった上で今回の計画を考えたに違いない。だから魔法による傷跡なら、触れば即分かると思い込んでいる筈だ。……なに、どうせ見た目は魔法で作るんだ、感触だけが再現出来ればいい。しかもそこまで正確でなくても問題ない。じっくり触って確かめさせず、触られたと思ったらパニックを起こしたように悲鳴を上げて逃げてしまえばいい』
あの男の言うところによれば、ボンダリーとしては『魔法なら見た目だけ』と思い込んでいるから感触があっただけで割合あっさり信じるだろうという事だった。だからルーテアには精神的に衰弱しているふりをしろという指示もあった。
かじった程度の話を聞いただけでも、ボンダリーという男は商人として狡猾で疑り深そうな人物だとはアンナも思う。それなら彼女の傷を自分で確かめたいと言い出すのは確実だろうし、見たら必ず本物の傷かどうかも疑ってくるのも分かる。
あの男が言うには――もし今回の件に例の魔法使いが関わっていなかったのなら、ボンダリーを騙し切るのは難しかったろうという話だ。その場合は魔法でも偽装でも、最初から偽物の傷を作ってみせる事になるだろうが、そうなれば親切なふりをして自分の息のかかった神官でも送り込んで傷をきっちり調べさせただろう、と。だがボンダリーは今回協力した魔法使いの能力を使えば嘘の傷跡を作れる事を知っている。しかもあの魔法使いの術は見た目だけだから触ればバレるというところまで知っている。その知識があるせいで視野が狭くなって、感触があるだけで魔法を使っていないと思ってくれるそうだ。
『自分が賢いと思っている人間はな、知識のせいで逆に騙される事がある。あとはあの爺さんがこっちを見下して馬鹿にしているせいもあるな。奴の心理的には、あの魔法使いの術を使えば自分を騙せると思ったのだろうがその魔法を見破る方法を自分は知っているぞ――という感じだ』
……まぁ、そういう事なのだろう。アンナとしてはあの男の予想が当たり過ぎて、手のひらの上で転がされている気がして気持ち悪いくらいだが。
おそらく、この手が使えなかった場合でも、あの男なら別の手を考えたのだろうと思う。
「ほんと、敵には回したくない男よねぇ」
あの男の思惑通り過ぎて気味が悪くなると同時に、敵に回したらなんて考えてぞっとする。ただ、ウチの面子だと傭兵として戦争で雇われでもしない限りはあの男と戦うなんて事にはならないとアンナは思っている。
なにせあの男は、見た目と言動だけなら冷酷非道と言われても納得しそうなのに、考え方はやたらと正しい。いや『正しい』というのは少し違うが、少なくとも仕事仲間として正しい相手、真実しか告げない相手には、あの男はかならず真実で答えるし、仲間として全力で守ってくれる。
思考に情がないから常に冷静だし、判断も鈍らない。へんな欲や虚栄心もないから考え方が安定していて、ここから彼が悪人になる未来も考えられない。
だからウチのリーダーがディタルである限り、あの男と敵対する事はないだろうというのがアンナの思った事だ。
という訳で、ボンダリーを騙すのが成功したところで、次回は魔法使いの話。