71・出来る事の範囲
――本当に、何なのよあの男は。
感心したというより呆れたわよ、とアンナは心の中で思った。
実を言うとアンナは、あの襲撃事件以後にセイネリアから言われていた事があった。
『彼女が自分の顔を傷つけようとするかもしれない。あんたは彼女の傍にいて、すぐ止められるよう常に彼女の動きに注意していてくれ』
つまりルーテアがあんな行動に出るのはあの男の想定の内だったという事だ。それどころかドートーを脅して彼女を解放させるところまでがあの男の予定通りで間違いない。まったく本当に頭のよく回る男だと思う。それを伝えられてからのこちらの神経のすり減り具合には文句をつけたいところだが、あの男のせいで全て丸く収まりそうなのだから黙るしかない。ドートーの心配が無くなるだけではなく、彼女が無事奴隷から解放されるのなら、こちらとしては後味よくスッキリと仕事を終わらせる事が出来る。いわゆるハッピーエンドという奴だ。
――まったく……冷酷なのか、実は優しいのか分からない男ね。
顔や言動からは情を全く感じさせないくせに、ちゃんと全員の事情的にいいように考えている。味方であればとんでもなく心強い事だけは確かだが、おそらく敵に回したら最悪の人間だろう。
とりあえずドートーとの交渉も無事済んで、こちらの今後についてもしっかりと決まった。
契約延長になった事で、アンナとしては彼女に一番近い場所での警備を担当する事で変りはない。屋敷の外の警備まではしなくていいから、部屋の中はアンナとゾーネヘルト、部屋前の廊下での警備はセルパとディタルが担当する。変わったのは、アンナは簡易ベッドをおいて彼女の傍で寝る事になったくらいだ。あとはセイネリアがドートーの護衛役になった事が一番大きい。彼がこっちの警備から抜けるからこそ、アンナは彼女に常についている事になったのもある。
ちなみにセイネリアは既にドートーについて部屋を出て行ってしまったが、ディタルとセルパは今はまだ部屋の中にいた。ルーテアは今の話し合いで顔に傷を負った事になっている――だから廊下で待っている侍女達を入れる前にいろいろ打ち合わせておかなければならなかった。
「暫くは侍女さん方はカーテンの中へは入れない、でいいんだったな」
例の厚いカーテンを引っ張っぱって閉めながらゾーネヘルトが言う。
「じゃ、俺は彼女の傷をどうにか出来ないか見てるってぇ事にして、アンナは護衛兼世話係で、基本は俺とアンナと……一応そこの魔法使いさんもかね、だけがこっち側にいるって事で」
「でも折角魔法で顔を変えるなら、他の人間にまったく姿を見せないのもマズイんじゃないの?」
「食事を運んでもらったり、着替えを持ってきたり、掃除やシーツを替えたりなんてのだけは侍女さん方に中入ってやってもらえばいい」
「つまり、彼女の体に触れたりするような世話は私がやればいい訳ね」
「そうなるな、悪ィがアンナ、そンでいいか?」
「いいわよぉ、それくらいなら」
彼女周りの事は全部やるくらいのつもりはあったから、アンナとしても全く問題はない。話が纏まればアンナと老神官はカーテンの中へ行って、ディタルとセルパが部屋から出て侍女を中に入れる。ただ彼女達にも入る前に事情を説明しなくてはならないから、ディタル達が出て行っても即彼女達が入ってくる訳ではない筈だ。
「では、そちらは頼む」
「はいはぁい、任せて」
ディタルにそう言って手を振ってあげれば、彼は一度ドアの方を向いてから、気づいたように振り返った。
「そうだ、さっきは助かった。君がすぐに動いて止めてくれなかったら、大変な事になっていた。やはりアンナがうちでは一番周囲を見てくれていて反応が速い」
いつもなら得意げに返してやるところだが、今回はちょっと複雑だ。乾いた笑いを返すしかなくて何も言わず手を振れば、ディタルは特に気にした様子もなく手を振ってセルパと共に部屋から出ていった。
それを見送ってからアンナはカーテンの向こうへ行く事にした。ゾーネヘルトや魔法使いは先に向こうへ行っている、アンナも侍女達が入ってくる前には行っておかないとならなかった。
「確かにアンナが止めなかったら大変な事になってたな」
向こうへ行った途端ゾーネヘルトにもそう言われる。ただディタルとは違って、彼とはずっと顔を見る事になるのでさすがに笑ってごまかすのは厳しいとアンナは思った。
「実を言うと、セイネリアから言われてたのよ。だからすぐ動けたわけ」
「なぁるほどねぇ」
正直にいうと、老神官は笑った。
「そこまで全部お見通しかい、まぁあの男じゃもう驚かねぇがな」
「そうねぇ……」
アンナがそこで盛大に溜息をつけば、弱弱しい声が掛けられた。
「何故、彼はここまで私にしてくださったのでしょう……」
声は当然ルーテアだ。アンナとゾーネヘルトはそこで顔を見合わせると、2人して少し悩んだ。アンナは唸ってみたが、老神官の方がまだ考えているらしい様子を見て、わざと軽く言ってみた。
「あの男的に貴女の事が気に入ったんじゃない?」
今度は彼女が悩んでいるような顔になる。まぁでも、ここはおそらく深く考えなくていいんじゃないかとアンナは思った。
「私が見た感じだけど……あの男って、真っ当に努力っていうかちゃんと自分で何かしようとしてる人間を好ましいと思ってるみたいなのよね。で、自分的に気に入ったら、その人間に対して自分がやれる範囲の力を貸す事は惜しまない……て感じぃかしらねぇ」
「でも、その程度の気持ちでやってもらうにしては……」
それでもまだ納得いっていない彼女に、今度はウインクしてみせる。
「ま、見合わないくらいの事をしてもらったーって感じるかもだけど、あの男の場合は単に出来る事の範囲が広すぎるから、きっと今回の事もあの男にとっては大した事じゃないのよ」
ね、と笑ってみせれば彼女は目を丸くして、それから困った顔で大きく息を吐いた。
次回はセイネリアとドートーの会話。