44・下へ1
セイネリアには、上でアンナが何を言っているかを完全に聞き取れはしなかった。だが確実に、逃げろと言っているのだけは分かった。となれば次にどうすればいいかなんてのは決まっている。
「さっさと下りてこいっ」
怒鳴れば即、奴隷女がバルコニーから顔を出した。その隣に部屋付きの侍女の姿が見えたから、セイネリアは彼女が何か言い出す前にまた怒鳴った。
「まずあんた自身が下りろっ。奴らの狙いはあんただけだ、他の者を構ってる余裕は奴らにないっ、いそげっ」
案の定、先に侍女を前に押し出そうとしていた彼女は、言われた途端、侍女と場所を入れ替わってバルコニーの手すりに縛ってある布を自分の体に巻きつけた。そうしてバルコニーから身を乗り出して下りてくる。
「え? おい、何があったんだ?」
セルパはアンナの言葉が聞き取れなかったのか戸惑ってこちらを見てくる。
「彼女を受け止める事になったら、あんたは敵の相手をしてくれ」
「お、おうっ」
一度はしのいだようであるから、そこから逃げろというならかなりマズイ状況だと思われる。アンナ達は全力で足止めをしているだろうが、彼女がおり切る前に敵が来る可能性は高い。
一応周囲も警戒しつつ、セイネリアは上を見る。彼女はバルコニーから手を離して、やっと布を使って下りてきているところだ。バルコニーから顔を出しているのは侍女だけだから、まだ敵の足止めは出来ている。彼女は思ったよりも腕の力はあるようで順調に下りてきてはいる……が、慣れている冒険者のようにそうそう手際よくはいかない。安全面を考えれば出来るだけ自力で下りてきて貰いたいところだが……。
そう思ったところで、上で『どけ』という声が聞こえたかと思うと侍女ではない男の頭がバルコニーから見えた。しかもその顔を見た途端……暗くて顔自体は見えなかったものの、前に潜んでいた賊と思わしき侍女と同じ違和感を感じたから、セイネリアは彼女にまた怒鳴った。
「手を離せっ、受け止めてやるっ」
彼女はこちらを見てから上を見た。そうして、彼女の捕まっている布を持ち上げようとしている男を確認すると持っている布から手を離した。高さはほぼ2階分、これくらいなら女一人受け止められる。
そうして直後、彼女の体はセイネリアの腕へと落ちた。
悲鳴は上がらなかったが彼女がこちらにしがみついてきたため、セイネリアはすぐに彼女を下ろさずそこから離れて建物の方へ行った。
「セルパ、少しの間頼む」
そこから間もなく、今度は上からのぞいていた男が飛び下りてくる。あの高さを普通に飛び下りてきたところからしてこいつがアッテラ神官かもしれない。強化を掛ければそれくらいはいける筈だ。
「うおぉぉっ」
セルパが吼える。強化入りの相手は少し厳しいかもしれないが、単純な一対一の戦闘なら彼女をおいてくる間くらいはどうにかしてくれるだろう。
「ここでじっとしてろ」
彼女を建物前の地面に下ろして、未だにこちらにしがみついているその手をはがした。立ち上がれば彼女が顔を上げ、明らかに不安そうな表情をしていたからセイネリアは意外に思う。
――世慣れたようで、こういうのは初めてか。
「大丈夫だ、すぐ終わる。それに奴があんたを即追いかけてきたってことは、上の奴らもおそらく死んじゃいない」
上にいた侍女の悲鳴は聞こえなかったし、奴が下りてきてから上で音はしなくなった。つまり、侍女は殺されていないし、上に敵は残っていない。この男の様子からして、急いで彼女を追ってきていたから……上の連中全員を殺し切ってきたとは思い難い。
彼女の顔が安堵に変わるのを目の端に捉えて、セイネリアはセルパのもとへ走った。
セルパは無事だった。
見ればへたに攻撃を受けず避ける事に徹しているようで、先ほどみたような本能的な避け方で敵の攻撃をしのいでいた。敵の方は意地になっているようで、セルパにひたすら攻撃を仕掛けている。この男がアッテラ神官だというなら短剣の2刀攻撃は珍しい方だが、意地になって周りが見えてない辺りたいした敵ではない。ただ気になったのは男が警備兵の恰好をしていた事で、それはつまり警備兵として屋敷内に紛れ込んでいたという事になる。
――どちらにしろ、詳しい事は本人に聞くだけだな。
セイネリアは男が攻撃を仕掛けようとするのに合わせて、男とセルパの間に剣を入れた。それに丁度敵の短剣がぶつかる。思った以上に衝撃があったが、セイネリアはそこから剣を切り返して振り上げた。それに弾かれて、相手の短剣は手から離れて宙を舞った。
このシーンはそのまま次回に続きます。