8・歌声
夏が過ぎきったこの季節、夜はかなり肌寒くなる。上弦の半月にあたるクーアの月が高い位置に昇る夜中、セイネリアはドートーの屋敷を出た。
奴隷女の事、ドートーの事、そして例の『紅の西風団』の事。それらについての情報は出来るだけ早く欲しい。丁度いい事に今夜の見張り役はディタル達の組がやる事になったため、セイネリアはワラントのもとにいるカリンに会いに行く事にした。
勿論交代の時間は最初の予定通りだから帰りが朝になったら寝ていなくても見張りに立つ事になる訳だが、そうなっても一晩程度は問題はない。
仕事中であるからパーティーメンバーは当然としてここの警備隊長殿、そこから雇い主へと伝えてもらって、それぞれ外出の許可は取ってある。だから最初は堂々と正面玄関から屋敷を出て門へと向かうつもりだったのだが、ついでに外から見た部屋の位置を確認していくつもりで裏から庭を横切って門まで行く事にした。勿論それも警備隊長には許可を取ってある。
――よじ登るとなるとかなり目立つだつな。
奴隷女の部屋は3階にあって窓の近くに高い木などはないから、窓から入るならバルコニーにロープを引っかけてよじ登るしかない。もしくは屋根から下りてくるか。どちらにしろこれだけ兵がいれば侵入前にまず見つかるだろう。
――外から入って攫うとなれば、騒ぎを起こしてくるか。
敷地に入ってからの距離や警備状況を考えても、強引につっこんでどうにかなるとも思えない。あらかじめ屋敷に入り込んで隠れているか、警備兵にまぎれるかしないとならないだろう。更に窓から警備兵達の目をそらすために、どこかで騒ぎを起こす必要がある。警備兵達は頼りがいがありそうには見えなかったが、警備体制はそれなりにちゃんと考えてあるから、そこは感心するところだ。
だが、そうしてあの奴隷女の部屋を見ていたら、その窓が開いて人影が現れた。ランプ台はついていないから暗くはあるが、一応月あかりだけでもその人物が誰かは分かる。シルエットからして例の奴隷女でほぼ間違いない。
こんな夜中に何をする気かと思いながら見ていれば、やがて声が聞こえてきた。
――歌?
それは歌声だった。高く透き通った若い女らしい伸びのある歌声。状況的にまずあの女が歌っていると思って間違いない。ただ一応言葉は聞き取れはするのだが意味は全く分からなかった。少なくともクリュースの言葉ではなく、蛮族の言葉の響きとも違う、聞いた事もない音の組み合わせだ。
つまりこの歌は、セイネリアの知らない言語の歌だという事だろう。
窓の近くまで行ってみる事にしたが、途中見かけた兵士達は動きを止めて皆、歌の聞こえる方角を向いていた。この様子だと彼女が歌うのは珍しい事でもないらしい。
歌はあまり長いものではなかったからセイネリアが近くまで行った時には終わってしまったが、だからこそ都合がよくもあった。
「いい声だな、どこの歌だ?」
バルコニーにいる彼女にぎりぎり聞こえるくらいの声で言ってみれば、彼女はこちらを見て明らかに警戒した様子を見せた。先ほどの位置からは彼女の顔は全く分からなかったが、森生活の長いセイネリアにはここまでくれば彼女の表情もある程度は分かる。……おそらく向こうは見えているとは思っていないだろうが。
「……さぁ、分かりません」
返事を返さないだろうとも思っていたらそう返ってきて、セイネリアは僅かに口元を歪めた。
「あんたの故郷の歌じゃないのか?」
「それは……どうでしょうか」
声だけは怯えたように……だが彼女の目はずっとこちらを警戒するように睨んでいる。
これは十中八九彼女の故郷の歌であっている――とそう直感したセイネリアは、それ以上追及しない事にした。なにせ、ここで彼女がシラを切っているという事は自分の出身国については話したくないという事だからだ。このまましつこく聞いてもいい事はない。
「そうか、まぁあんたのご主人様は心配症だからな、こんな時間に外に出るのはやめておいた方がいいぞ」
「そうですね……ご忠告だけは、受けておきます」
そこで彼女は逃げるように部屋の中へ戻ると窓をしめた。
殆ど面識がないにも関わらず、向こうは最初からこちらを相当に警戒している。怖がっているのではなく警戒している辺り、何か後ろめたいところがあるのか。
――例の『紅の西風団』とかいう連中、彼女なら知っているかもな。
可能性としては考えていた、あの奴隷女と誘拐予告をしてきた連中が繋がっているというパターン……現時点では確定までしないが、かなりそのセンは濃厚そうだとセイネリアは思った。
「あの、あの方に勝手に声を掛けるのはその……困ります」
彼女が消えた後もその場に立っていれば、窓の下で警備をしていた兵が強張った顔でこちらに向かってやってきた。
「あぁ、悪いな。窓近くの状況を見ていたら歌が聞こえて来たんでつい、な」
「気を付けて下さい。旦那様が知ったらお怒りになられます」
ドートーは彼女が他の男と話すのも許せないのだろうと、それはすぐに察せた。ただ折角警備兵がやってきたのだからついでに聞いておく事にした。
「夜中に彼女が歌うのは珍しくないのか?」
「そうですね、毎日ではなく……たまに歌って下さいます」
その言い方だとまるで自分達のために歌ったと思っているようだと、そう思ったが別に口にまで出す気はない。
「そうか、つまり聞けたら幸運な訳か」
それには、兵が満面の笑みで答える。
「はい、そうです」
そして兵達は彼女が歌っている間は歌に聞きほれて注意力が落ちている、か――どう見ても逃げるための準備にしか思えないとセイネリアには思えた。
次回はワラントとの交渉。