40・開始
「それじゃ、始めるぞ」
ケサランが声を掛ければ、自分以外で唯一起きているアルワナの司祭長が了承の返事を返してくる。そこで大きく深呼吸をしてからケサランは杖を掲げた。
魔法使いの杖は、自分の使う魔法に必要な長い呪文や魔法陣を埋め込んでおくためのものである。そうする事で、紐づけておいた短いキーワードを言うだけでその埋め込んである魔法を使えるようにするものだ。魔法というのは使う本人の魔力によって同じ効果でも使うための手順が違う。だから当然、他人の杖を使う事はないし、他人に杖を作ってもらう事もあり得ない。
ただ魔法ギルドには、ギルド所有の魔法というものがある。
ギルドとして必要な魔法は、必要な時には常に使えるようにしておかなくてはならない。もしくは、大量に使う必要がある場合は術者が一人いるだけでは困るという事もある。
だからそういう魔法は、ギルド所有の杖として魔法の呪文と魔法陣を仕込んでおくだけでなく、杖についている魔石にその魔法に必要な魔力も込めておくのだ。勿論、キーワードを知ってさえいれば誰でもその杖を使って特定の魔法が使えるなんてものを簡単にギルドが貸し出す訳はない。本来いろいろ面倒な約束事があるのだが、今回ケサランは苦労して交渉の末、こうして借りてきたのだった。
――それもこれも、全部あの男のためなんだからな。本当に、俺もどうかしているらしい。
「セスタ・ロック・セリー……」
杖に埋め込んだ魔法を呼び出すキーワードは普通は短い言葉にするが、魔力入りの杖に入った魔法は長めの言葉になっている。
ケサランがキーワードを言い終えれば、杖の先端が赤く光る。
そこですかさず台に置いてある箱の一つを杖の先端で叩いて、次にそれで台に寝ているラスハルカという神官の額に触れた。そこで次のキーワードを唱えれば、彼の記憶は戻る筈だった。
ただし、彼は今、アルワナの術で眠っている。
「さて、どうなったか……」
ケサランは杖を下すと、今度は同じく台の上で眠っている最高司祭の方を見た。彼は今、この記憶が戻ったラスハルカからその記憶を取得し、そこで騎士の名前が分かったならその後すぐにセイネリアの精神へ入る事になっていた。
――ここまでやって名前が分からなかったっていうのはナシであってもらいたいんだがな。
そう思いながらじっと見ていれば、最高司祭の顔が僅かに笑ったような気がした。
半分眠っている状態というのは、夢の中で夢を自覚出来るくらいに意識がはっきりしている状態らしい――そんな事を思いながら、セイネリアは今の自分のいる景色を見ていた。
そこはおそらく、セイネリアが生まれたラドラグスの街だった。
おそらく、とつくのは夢のせいか正確なラドラグスの街の風景ではないからである。本物のあの街と首都の路地の風景が混ざった出鱈目なラドラグスの街だった。ただし、歩きだしてみれば自分がよく見ていた場所ならかなり正確なようで、細かい家のつくりや店の看板などまではっきり見えた。とはいえ新しい記憶に古い記憶が混じっている状態らしく、基本は鎧を取りに行った時に見た街並みであるのに、自分が生まれた娼館はなぜか子供の頃の建物のままだった。
――これは、俺の願望なのか?
子供の時の娼館時代に戻りたいと、そういう願いでもあるのだろうかとセイネリアは考える。自分としてはそういう自覚はないが、全否定出来る程の自信はない。
そこで、後ろから声をかけられた。
「ねぇ、そこの貴方、ねぇえぇ、急いでいるのかしらぁ?」
聞いただけで、それが誰の声かすぐに分かる。なにせ聞いたのは二度目だ。セイネリアが振り返れば、そこには赤い髪の女がいた。
ただし、その顔は分からない。
赤い髪と赤い目であることだけは分かるのに、女の顔は分からない。
「ふふ、ねぇ、時間があるなら私と楽しんでいかなぁい?」
あの時と全く同じセリフを言われて、セイネリアの唇には壮絶な笑みが浮かんだ。
セイネリアは浅い眠りの中状態です。