菫ほどな小さき人に生まれたし
「それは、秘密だよ」
「秘密、ですか?」
「そう。秘密だ」
:菫ほどな 小さき人に 生まれたし
我が家は祖母と母、三人の妹とわたしの六人家族である。わたしは当主だけれど、多勢に無勢と言えばいいのか、立場としてはさほど強くはない。むしろ、領地の政を全て任せてしまっている分、弱いと言っても過言ではなかった。それでも家長を名乗っているわけだから、ある種の責任というものは付いて回る。
その中の一つが、妹達の結婚だ。身内の贔屓目を抜きにしても、妹達はとても可愛らしい。上から順に、十六歳のアグライア、十五歳のエウティミア、十四歳のタリア――性格は違うが、どの子も優秀で賢く、貴族の令嬢としてどこに出しても恥ずかしくない女の子達だ。今生の世界では結婚適齢期で、わたしとしてはできるだけ条件の良い嫁ぎ先を選んでやりたいところである。
前世の現代日本では自由恋愛が主流だった。家同士としての結び付きを目的とした結婚や、親が選んでの結婚というものに対して、わたしは今一つ理解しきれていないところがある。否定はしないけれど、では、心から受け入れているかと聞かれれば、返答に困ってしまう。正直な気持ちとして、彼女たちには自分で好きな相手を見付けてほしいと思わなくもないが、例え思っていたとしても、それは表に出すべきではないのだろう。
執務室で原稿を書き上げた頃、外は夕暮れを迎えていた。
「ラスティ君」
「はい」
名前を呼べば、執務室の隅に控えていたラスティ君が歩み寄ってくる。足音はなく、ただ蜂蜜色の髪が静かに揺れただけだった。
「予定より時間を押してしまったね。ドレスの支度は整っているかな?」
「はい、すでに。お嬢様方は支度を終えられて、あとは出発なさるだけです」
「それはなによりだ」
今夜は隣の領地で夜会が開かれる。舞踏会というものだ。
わたしはあまり顔を出さないが、妹達にはなるべく足を運ぶように言っている。我が家のような没落しかけた貴族であっても、否、むしろそんな状況の家であるからこそ、貴族同士や有力者との繋がりを大事にしなければならない。幸いにも、我が家は古くから続く家柄だ。没落しかけてはいるが、没落するに至っていないのは、その辺りの繋がりが大きく影響している。
「さて、妹達を見送りに行こうか」
わたしは席を立つ。その一言でラスティ君は動き始め、わたしは彼が扉を開けてくれるのを待って、執務室を出た。
*
三姉妹長女のアグライアは母によく似ている。顔の横から胸の辺りまで栗色の髪が緩やかに巻いた、くっきりした目鼻立ちの、華やかな美人だ。濃い赤色のドレスが似合っていた。
次女のエウティミアは亡き父に似た黒髪の少女だ。快活で愉快なことが大好きな、歳相応の(むしろ実年齢よりも幼いのではと思わせる)明るさを持っている。今目の前で、淡い桃色のドレスの裾をひらめかせ、末の妹に窘められた。
三女のタリアは姉を窘められるほどしっかり者だ。幼さが残る顔立ちにぴったりの檸檬色のドレスはふんわりとしたシルエットで、フリルとレースがふんだんにあしらわれている。
そんな三人の少女を前に、わたしはにっこり微笑む。自慢の妹達が美しく着飾っているのだから、自然と笑みもこぼれるというものだ。彼女達に似合うドレスやアクセサリーを手配してくれたラスティ君には感謝してもしきれない。
「みんな、とても綺麗だよ」
素直な感想を口にする。
「ええ、分かっているわ」
アグライアは悠然と笑んだ。
「後ろのリボンも可愛いんだよ!見て見て――」
「お姉様、回っちゃダメ。はしたないですわ」
回転しようとしたエウティミアをタリアが制す。エウティミアは舌を出して「えへへ」と笑い、そんな聞く耳を持たない姉を見て、タリアが溜め息を漏らした。
「舞踏会を楽しんでおいで。各地の貴族や騎士達が来るだろうから、きみ達のお目に適う素敵な男性がいたら名前を聞いておきなさい。なぁに、男なんて単純な生き物だ。美しい女性に名前を聞かれれば、それだけで意識するものさ」
「旦那様。淑女たるお嬢様方に掛ける言葉ではございませんよ」
「ん? ああ、それもそうだね。失礼」
ラスティ君に窘められ、わたしは妹達に謝る。
「だが、悪気があったわけではないんだ。わたしは、きみ達に幸せになってほしい。結婚が全てではないけれど、良き伴侶と巡り会えないより、巡り会えた方が良いはずだ」
「お兄様。わたくしたちよりも先に、まずはお兄様よ。わたくしたちがいなくなったら、誰がこのリュオール領を治めるというの? お兄様には政に明るくて、少し変わっているお兄様を受け止めてくれるような方を娶っていただかないと」
「おや、痛いところを突かれた」
わたしは肩を竦めてみせながら、アグライアの栗色の髪に手を伸ばす。緩く巻かれた髪をそっと整えた。
「あまり引き止めてはいけないね。いってらっしゃい。楽しんでおいで」
着飾った彼女達は美しい。没落しかけた家の令嬢とは思えないほど可憐で、凛々しく、大輪の花を咲かせる予感を秘めている。その瑞々しさを守る責任が、わたしにはある。凡人の枠から出ることができないわたしに、それがどこまで果たせるかは、分からないのだけれど。
*
わたしは妹達を送り出し、屋敷の二階の執務室から、馬車がだんだんと小さくなっていくのを見届けた。今夜は母と祖母も友人と食事会らしく、屋敷にはわずかな使用人とわたしが残っているだけだ。屋敷が静まり返っているようだった。
「旦那様。食事の支度が整いました」
ラスティ君の言葉に頷く。
「分かった。食事の後はそのまま休むから、きみも部屋に戻ってくれて構わないよ」
「かしこまりました。明日は朝からジェス氏がいらっしゃる予定です。普段よりも早めのご起床になりますが、よろしいですか?」
「もちろんだよ。早起きくらいするさ。駄々なんて捏ねないよ。子供じゃないからね」
「では、そのように」
ラスティ君は執務室の扉を開けてくれた。
彼の横を通り過ぎようとした時、ふと控え目に声を掛けられる。わたしは足を止めて、自分よりも低いところにあるラスティ君の翡翠色の瞳を見詰めた。
「僭越ながら……」
「うん?」
「旦那様は結婚なさらないのですか? 旦那様が才能溢れる素晴らしい方だというのは、周知の事実です。娘を嫁にと仰られる方も少なくないはず。それにも関わらず、何故、独り身を?」
「それは、秘密だよ」
「秘密、ですか?」
「そう。秘密だ」
わたしはアグライアにしたように、ラスティ君の蜂蜜色の髪を指先で梳いた。柔らかい手触りと、無表情ながらに驚いているような彼の雰囲気に満足しながら、執務室を出る。一階へと続く湾曲した階段を下りながら、父譲りの黒髪を掻いた。
当主として子供を残さなければならない。それは、わたしの務めである。しかし果たすのは難しい。前世も含め、わたしは人を好きになったことがない。美しいとも、可愛いとも、大切だとも思うけれど、好きだとか、愛していると思ったことがないのだ。生々しい話をすれば、子供を作れる気がしない。そういうことだ。
生まれる家を間違えた。
わたしに、貴族の長男としての生は重すぎる。責任を果たせる気がしない。生まれ変わるのであれば、わたしは、そう、その辺の石ころや草木になりたかった。
そこまで考えて、夏目漱石が詠んだ俳句を思い出す。確か彼は、菫になりたいと詠ったのだったか。新作は彼の作品を騙らせてもらおう。そんなことを思いながら、わたしは静かな夜を迎えるのだった。
end