物語は動き出す
大樹の下でその子供は泣いていた。
隣には真っ白な建物。用事を済ませて帰ろうとしたところをたまたま見かけたのだ。
通り過ぎても良かったのだが、その日は興味がわいた。
――その子が「天使になりたい」と呟いていたから。
「何故?」
そう問いかけると、その子は俯いていた顔を上げて驚いたような顔をした。
「てんし……さま?」
思わず口に出してしまったのだろう。
つられて自分の肩越しに背中を見れば、まさしく純白の羽が広がっていた。
「よかったら入れ替わりませんか」
天使がそう提案すると、子どもは大きな眼をパチパチと瞬かせて。
ほんとうに、と尋ね返す。
「本当に。――ええ、自分も人間に興味がありましたから」
天使の言葉を聞いた子どもは笑う。嬉しそうに笑った。
「さあ。あなたが望むなら、早いところ済ませてしまおう」
気が変わらないうちに、という言葉は目を輝かせているその子の顔を見て飲み込んだ。
天使は人間になりたかった。己の自由意思で生きてみたかった。
だから。人間と入れ替わるのは願ってもないことだと、思っていた。
ぱちり、と目を覚ます。
時計を見れば朝の6時前。寝起き後にしては思考は鮮明で霞みもない。
白い建物――あれは恐らく病院だろう。樹が植わっていたのは中庭だろうか。思い返しながら、日生は夢の光景にどこか懐かしさを感じていた。
〝でも、なんでこんな夢を?〟
瞬間、目覚ましのアラームが鳴り響く。
その音で我に返った日生は寝間着から制服に着替えて階下に下りた。
「おはようございます」
ダイニングに顔を出せば、新聞を読む父親と朝食を用意する母親。
見慣れた光景だ。自分がこの家に来てから十余年。いつも通りの朝だった。
「おはよう。朝ご飯できてるよ」
日生は母親の言葉にこくりと頷いて、父親の隣の椅子に腰かける。
「おはようございます。ご飯冷めるよ」
「まあ待て、まだ四コマを読んでいないんだ」
「冷めるよ」
進言はするものの強く出るということはせず、両手を合わせて食前の祈りを唱える。
「日々の糧を与えたまえ。恵みの御神はほむべきかな」
どうやら日生伊月という男はクリスチャン(と言うには少々アレンジが加わっているが)の家に生まれたらしい。自分が敬虔な信徒だとは微塵も思っていないが、親の手前、形だけはなぞっていた。
「伊月、あまりかきこむと詰まらせるぞ」
新聞に視線を落としたまま父親が告げる。
「ふぁーい」
返事をしながらご飯を味噌汁で流し込んで、そのまま玉子焼きを摘まんだ。
♪♪♪♪
昇降口。下駄箱を開けた日生は、上履きとは別に見慣れない封筒が入っているのを見つけた。
「これは……」
柄物の封筒の表には縦書きで「日生 伊月様」の文字。同姓同名でないならば自分宛てで間違いないだろう。
封を開けて中身を見る。そこには封筒と同じ柄の便箋が入っていた。
「よぉヒナセ! 立ち止まったりしてどうしたんだ?」
「多聞……」
日生は後ろから声をかけてきたクラスメートへゆっくりと振り向いて。
「大変だ。藤岡先輩からスカウトがきたかもしれない」
封筒の便箋を級友に突きつけた。
そこには「放課後、校舎裏で待っています。一人で来てください」と書かれている。
「何? ……なんだ、ラブレターじゃないか」
中身を読んで、多聞が言う。
モテるねえ、とにやにやしているが、当事者にとってはそれどころではない。
「藤岡先輩からの?」
「一回藤岡先輩のことは忘れろ」
訝しみながらそう問えば、普段はボケ担当の多聞が珍しくキレのあるツッコミを入れた。




