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9 お菓子大好き、管理人さん

 ◆


 ヴィグラムはミドリとシャクティを南三区のアパートへ送った後、自宅に戻ると激怒した。なまじ顔が秀麗なだけに、その豹変振りはすさまじい。


「貴様等、雁首揃えて小娘一人に敗れるとは、どういうことだっ!」


「恐れながら、若、我等は決して敗れたわけではありませぬ。あくまで大事をとって退いたまで。あの小娘――管理人と申しましたか? どうして勘が鋭うございますれば」


 密閉されたヴィグラムの部屋で、黒装束の男たちが五人、並んでいる。

 部屋の四方にランプが燈り、ボンヤリとした明かりが彼等を照らす。

 今は部屋の中央に座るヴィグラムが、胡坐をかいて床に拳を打ちつけなが激怒していた。

 対して黒装束の首魁――五人の中央で跪く男が、右隣で跪く男の手に視線を送り、ヴィグラムに何かを示している。


 ヴィグラムがそちらに目をやると、赤紫色にはれ上がった男の手の甲があった。


「申し訳ございませぬ」


 男は五人の中で最も若いが、同時に最も手練だ。そもそもそんな男が先日、火かき棒一つ避けられなかった事も意外だった。

 打撲と火傷の跡が痛々しい手の甲を見やると、ヴィグラムは「ちっ」と舌打ちをして、忌々しげに問う。


「正体がばれそうだった、というのか?」


「はっ――恐れながら」


「ふん、知れたところで、そのまま攫ってしまえば良かったではないか」


「若、余り無茶を仰いますな。お父君とて、何でもかんでも揉み消す訳にはまいらんのです」


「そうであろうが、元解放奴隷(ダリット)や元平民(スードラ)の娘程度なら、どうとでもなろう? 俺はあの管理人も気に入ったのだ。何とかして、モノにしたい」


「はあ、確かにどうとでもなりましょうが――それをインデュラさまに気付かれてはなりません。ただでさえ近頃、我等の近辺には数名の闇の者がうろついておりますれば、慎重を期すが良いかと」


「ああ、分かった、分かった。お前は相変わらず口うるさい」


「これも全て、お家のため――どうか、名門たるこの家を若の代で潰す事が無きよう、切に願いまする」


「ふん、何を馬鹿げたことを。この程度の遊びで、我が家が揺らぐものかよ」


 ――――


 ヴィグラムは五人の戦士ヴァイシャを下がらせると、壁際に置かれた本棚の前に立つ。びっしりと置かれた専門書は、歴史、文化、バングルに関する記録などなど――ダンバード学院で学ぶべき大よその資料が揃っていた。

 彼の成績が一定して優良であるのも、授業に先んじてこれらの書物を使い、家庭教師に教えられているからだ。なので特段、彼が優秀という訳ではない。家庭が裕福であるということは、そういった恩恵も享受できるわけで、他人より一頭抜きん出ることはむしろ当然といえた。


 ヴィグラムが本棚の中から数冊を選び抜き取ると、その奥に灰色の小さな突起が現われた。

 口元を歪めながら、彼はその突起を撫でるように押す。これからが、彼の悦楽の時間である。


 ヴィグラムがやや距離を取ると、本棚はクルリと九十度回転し、狭い階段が現われた。階段の右側にはランプの火が燈り、闇をボンヤリとオレンジ色の光で照らしている。

 ヴィグラムは愉悦を顔に貼り付けて、ゆっくりと階段を降りて行った。

 

 細い階段の突き当たりに、分厚い鉄の扉があった。ヴィグラムは腰にぶら下げた鍵束から悩むことなく一つの鍵を取り出すと、穴に差し込みゆっくりと回す。カチャリと小さな音がして、扉は内側に開いた。

 

 扉の先に現われた部屋は、三十平方メートル前後だろうか。すえた匂いが漂っている。獣の匂いと言ってもいいかもしれない。

 室内には手足を縛られ寝台に横たわる少女が一人、嗚咽を漏らしている。背後のランプに照らされて出来たヴィグラムの長い影を見ると、少女は全身をビクリと震わせた。


「ククク……」


 後ろ手に扉を閉めて、ヴィグラムは部屋の四方を回りランプに火をともしていく。すると、いよいよ少女の姿がはっきりと見えた。

 長い栗色の髪は幾日も洗っていないせいか、ゴワゴワで汚れている。全裸の体には無数の痣と瘡蓋があって痛々しい。

 彼女は利発そうな鳶色の瞳に恐怖の結晶たる涙を浮かべ、哀願するように部屋の主へ声を掛けた。


「……助けて、下さい、ヴィグラムさま。学院に、帰りたいです……」


「いずれは帰してやろうと思っていたが、お前は一度、逃げ出そうとした。だからどうにも、信用ができなくてなぁ……」


 言いながらヴィグラムは少女に近づき、その豊かな胸を揉み、舐める。


「ちと、大きすぎるなぁ」


 まるで地底を這う蛇のようにヌメリとした声が、薄暗い空間に響く。ヴィグラムの本性をよく現した声音だった。


「い、いやぁ……」


「今更だろう、パドマ。大体、私に言い寄ってきたのは、お前だったはずだぞ? その私がお前に施しを与えているのだ。喜ばれこそすれ――」


「そ、それは……それは……こんな方だと思わなかったから」


「ふっ、ふふ……ふはははははっ! まあいい、もう少しの辛抱だ。もう少し大人しくしていれば、解放してやるさ。どうせ新しい女どもを仕入れるつもりだからな……」


「えっ、えっ? 本当に?」


「ああ、お前も前の二人と同じように、解放してやるさ。安心しろ……ククク」


「い、い、いや、いや、殺さないで……殺さないで」


 ◆◆


 シャクティと共にアパートへ帰ったミドリは、さっそくイルファーンの下へ葡萄酒をせびりに行く。彼の部屋のある二階へ向かう足取りは軽いが、すでに蜂蜜酒で出来上がっている彼女は千鳥足だった。


「ういー、今帰ったのじゃ」


 言うなり勉強中のイルファーンを無視して床に寝転ぶミドリは、どこぞのダメ親父もかくや、という有様だ。

 早速、懐から出したイカゲソを食べる。しかし残量が少なく、あまりもっきゅもっきゅ出来ないから不満だった。


「ツマミがたらーぬ!」


「ちょっと、管理人さん、何しに来たんですか?」


「ぬ?」


 ミドリはふと天井を見上げ、呟いた。


「見知らぬ天井じゃ……」


「酔っ払ってるだけなら、帰ってください! 俺は勉強しなきゃいけないんだからっ!」


 ミドリは部屋を見回し、エッチなものが無いかチェックを始める。若い健全な男子の部屋だ。裸の女が描かれた絵の一枚位はあるだろう。


(じゃが、そんなものを探しにきたのではない気が……)


 四つんばいになりながら、ミドリがグルグルと部屋を回る。だがイルファーンは、微動だにしなかった。


「変なものを探してるんでしょうけど、そんなの俺、買う金持ってないですからね。探しても無駄ですよ」


 ここで漸く、ミドリの残念な脳みそが“ピーン”と反応した。


(そうじゃった。わし、情報を仕入れてイルファーンに酒を買ってもらうんじゃった)


「――まあまあ、そう言うな、インデュラの目的が分かったのじゃ。そもそもこれは、お主が調べてくれ、と言うたのではないか。それでわざわざ来てやったというのに、聞かぬのか?」


 ミドリは再び座って、厳かな口調で言った。イルファーンも背を向けて勉強していたが、怪訝そうに振り返ってミドリの目を見据える。

 

「ミドリさん、鼻の穴がヒクヒクしていて面白いな――」と思ったイルファーンは、その事をミドリに伝えなかった。そんなことより、彼女が調べたことの方が気になったからだ。


「えっ? もう分かったんですかっ!?」


「そうじゃ――わしの力をもってすれば、造作もないことじゃ。――おほん。じゃがの、ことは存外と重大であった。人の命にも関わるゆえ、心して聞け」


「命っ? は、はい――」


「では、説明を始めるのじゃ」


 ミドリの説明はあまり要領を得ないが、それでもイルファーンは「なるほど」とか「はあ」などと言って頷き、話を理解してゆく。

 こうして管理人の話を全て聞いたイルファーンは、半信半疑でありながらも腕組みをして唸っていた。


「うーん……でもどうしてヴィグラムさまが女の子を……」


「元来、この国の貴族クシャトリヤ王族ブラフミンは、平民スードラ以下の者をモノか家畜程度にしか見ておらぬ。そのままの通りにあの男が育っているなら――興味を持った女を犯し、不要になったら殺して捨てるというのは、ある意味もっともな話なのじゃ」


「――そんなっ!」


「そもそも貴族クシャトリヤ平民スードラ以下の者達の生殺与奪権を失ったのは、今より二十年前――五英雄が元平民(スードラ)であったことが発端なのじゃ。

 ヴィグラムの家は、古よりの貴族クシャトリヤ家と聞く。さらには王家ブラフミンの末裔となれば、そのような考え方もするのじゃろう」


「だからって強姦も人殺しも、絶対に許されることじゃないでしょう!」


「じゃからインデュラが一芝居うって、ヤツの罪を暴こうとしておる。故にお主はこれまで通り、インデュラと接しておればよいのじゃ」


「それじゃ俺はシャクティを囮にして、のうのうと暮していろってことですか?」


「――そう言われても、それしかあるまい? ヴィグラムの家には百の戦士ヴァイシャがおるし、何より貴族クシャトリヤじゃ。お主がどうこう出来る相手ではあるまいよ」


「――そうですか。そうですよね……分かりました」


「まあ、安心できるかどうかは知らぬが、シャクティに関しては、わしがきちんと守るによって――。そもそも、お主の身とて安全ではないのじゃぞ? それをインデュラが守っておること、忘れるでない」


 イルファーンが眉を顰めた。ミドリの強さを知らない彼は、どうしてシャクティを彼女が守れるというのか、不安でならない。

 珍しくそれを察したミドリは、「わしのバングルは、水――最強系サルバダストじゃ」と言った。しかも証明する為にバングルを発動させて、中空に無数の水を浮かべて見せるという大サービス。

 イルファーンは口をあんぐりと開けて、「そんな、まさか」と呟き、目を瞬いている。信じるも信じないも、自在に水を操る管理人を、もはや尊敬の眼差しで見つめていた。


「そしてわしは、絶世の美女でもある」


 調子に乗ったミドリが、口角を持ち上げ言い放つ。


「いやいや、ミドリさん目の下に隈があるし、酒臭いしイカ臭い。美女じゃないと思います」――しかし、こればっかりは否定の早いイルファーンだった。ミドリの肩が、がっくりと落ちる。


「俺にも、俺にも何か出来る事は、他に出来ることは無いんですか?」


 ミドリの心を言葉という彫刻刀で抉りながら、まったく気にしないイルファーンはえぐい。立ち直る時間も与えられなかったミドリは、目に涙を浮かべながら必要なことを伝えた。


「そ、そうじゃのう。今度、ヴィグラムの家にお菓子を食べに行って来るのじゃが――その時、もしもわしが闇の三ムフールタ(午後九時)を過ぎても戻らない時は、インデュラに知らせてくれぬか」


「――はぁ? お菓子?」


 イルファーンの片眉が上がった。なめてんの? と言わんばかりの表情を作っている。


「ひぃ!」


 もはやイジメられっ子状態のミドリだ。

 彼女としては割と本気の保険を掛けたかったのだが、お菓子などと言ったせいで台無しだった。


「む、むう、なんでもないのじゃ! お主はもう、勉強でもいたせ!」


 ミドリはイルファーンに対して、ラクシュミに対してと同じような苦手意識を持ちつつある。なので、とっととこの場から去りたくなった。

 煮たり焼いたりされては、たまらぬ! なんて思っている。


「……あ、そうだ。お礼の葡萄酒は今度でも?」


 だが別に悪意も悪気も無いイルファーンは、律儀に謝礼の件を覚えていた。しかしミドリは少しだけ酔いが醒めたせいか、殺風景な部屋に少し同情の余地を見出している。それに恐い人には、恩を売っておいた方がいいだろう。


「ふん。よく考えてみたら、エッチな本も買えぬほど財政難の男から酒を買ってもらうほど、わしは落ちぶれておらぬ。よって、此度の報酬はいらんのじゃ――恩に着るが良い」


「エッチな本は、財政難だから買わないわけじゃありませんよ! 誤解しないで下さい!」


 イルファーンがミドリの誤りを訂正する。その際、彼女の両肩を掴んで揺さぶったのが悪かった。

 素面になりつつあるミドリの頭脳が、ピンク色の妄想を現実に重ね合わせ始めている。


(ま、まさか! エッチな本を必要としないというのは――わしか!? わしの身体があるから、必要ないということかっ!? 

 う、うむ、今、まさにがっちりホールドされておる! このままでは、ヤられるのじゃっ! 嬉し恥ずかし初体験じゃ!)


 嫌なのか嬉しいのかよく分からないミドリは、思わず胸が高鳴った。

 しかし流石にシャクティの恋敵になろうとは思わないミドリは、意外と理性的なのだ。


「や、やめるのじゃ。わ、わしには心に決めたどぶろくが――」


 イルファーンを振り払うと、内股気味でそそくさと部屋を後にしたミドリである。


 一方、イルファーンは酒とイカの匂いを漂わせたミドリが出て行くと、すぐに部屋の窓を全開にした。

 少しミドリに失礼だと思うが、実際にイカの匂いはちょっとマズイ。もしも今、シャクティが来たらと思うと、気になって仕方がないイルファーンだった。

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