2 イルファーンと管理人さん
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酒臭いミドリを殆どスルーして出かけたイルファーンは、彼女が管理するこのアパート――”ヒノデソウ”へ、三ヶ月前に入居したばかりの少年だ。今年、十六歳になる。
彼は辺鄙な農村で生まれ、幼馴染のシャクティと共に武器のバングルを授かるという幸運に恵まれた。だからダンバード学院への入学も許され、晴れて身分も解放奴隷から、一代戦士へと昇格したのだ。
ミドリはイルファーンが入居した当初の、それはそれは晴れやかな笑顔を覚えている。幼馴染のシャクティと手を繋ぎ、彼は意気揚々とここへやってきたのだ。
イルファーンはボサボサの黒髪さえ何とかすれば、赤目の美しい少年だった。肌はこの地方の標準よりも、やや白いだろうか。褐色とはいえない。そのことが彼を、よりいっそう美少年に見せている。
もちろんシャクティも、イルファーンに負けず劣らずの美少女だった。
ツインテールに纏め上げた黒髪は豊かで、大きな瞳には希望をめいっぱい湛えている。そしてどこまでも健康的な褐色の肌が、当時、二日酔いのミドリには眩しすぎた。
あの日、赤茶けたレンガ作りのヒノデソウを背に、ミドリは二人を出迎えた。彼等は初めて間近に見る四階建ての建物に、目を丸くしていた。
「凄いなぁ、シャクティ。僕たち、王都でこんなに立派な家に住めるんだ……」
「そうね、私の家なんて土壁だったのに。なんだか、お父さんとお母さんに申し訳ないよ」
驚きと喜びと申し訳なさを綯い交ぜにした二人に、フラフラと千鳥足で近づき、ミドリは声を掛けた。
「今日から入居するという者共は、お主らかな?」
「あ、初めまして、管理人さんですね? 僕はイルファーンと言います。こっちはシャクティ。今日から、よろしくお願いします」
礼儀正しく頭を下げて、イルファーンはミドリを見つめた。たとえ彼女が赤ら顔でも、決して笑顔を崩さない彼は立派だった。
「うむ……わしこそが遍く事象の全てを管理する、コンドー・ミドリじゃ。平伏してよいぞ」
とはいえイルファーンも、酔っ払いの戯言には付き合えない。シャクティを背後に隠すと、用件を手短に伝える。
「えと、部屋はどこでしょう?」
「うむ……二〇一号室じゃ。世界との断層をお主が所望したゆえ、特別に用意したぞ」
「あ、角部屋ですね? ありがとうございます!」
「じゃあ、シャクティの部屋はどこですか?」
「それはの、二〇二号室じゃ……二人が隣室であることを望みよったゆえ。されど、繋がってはおらんぞ。お主等が繋がるには、まだ早いのじゃ。己が欲望を制御してみせよ」
難しい言葉で下品なことを言うミドリは、口元を歪めている。どうやら冗談を言って笑っているらしいが、目の下の隈がドロロンとして、怪しい雰囲気だ。そしてそんなミドリは、突然えづいた。もちろん、二日酔いが原因だった。
「うぷっ」
「わかりました――あっ、管理人さん、どうしたんですか?」
「わ、わしはト、トイレじゃ。乙女特有のアレじゃ! 気にするな! ――ほれ、部屋の鍵を渡しておくから、後は好きなようにせよ。うっぷ」
これがイルファーン達とミドリの、ファーストコンタクトであった。
イルファーンにしてみれば、ミドリなどクリーチャーに近かったであろう。シャクティにとっても、この時のミドリは管理人を名乗る、単なる不審者だった。
とはいえ、あれから三ヶ月が過ぎた現在では、それなりに気心が知れている。だから会えば声を掛け合うし、元気が無ければそれと気付きもするのだ。
(ふむ――最近のイルファーンには、あの頃の覇気というか――元気がまるで感じられないのう)
だからミドリは今朝のイルファーンを不審に思った。いや、ここしばらくあのような調子だった気もする――
「ふむ……」
顎に指を当てて、ミドリは思案した。その結果、酒に塗れた脳が悲鳴を上げて、再び吐き気が込み上げる。そういえば、今日も二日酔いだった。
「うっぷ――」
とりあえず慌ててトイレに駆け込んだミドリは、元気の無いイルファーンについて考えた。自分の方が元気を失いつつあるが、それはまあ仕方がない。
(シャクティとケンカでもしたのか? それ以外の理由は――)
トイレから出て幾分かすっきりとしたミドリは、パタパタと響く元気な足音を聞いた。振り返れば、シャクティが髪を振り乱して階段を駆け下りてくる。相変わらず、健康的な少女だ。
彼女はクリーム色をした半袖のシャツに青色の長い布―いわゆるサリーを撒きつけ、麻の白いズボンを履いている。緑色ジャージのミドリと比べて、随分爽やかな印象だ。
「シャクティ、階段を走ってはならぬ。わしの頭にガンガン響くゆえ……」
「管理人さん、また二日酔いですかっ!? あんまり飲みすぎると、おっぱい大きくなりませんよっ!」
「ふぉあっ!? そ、そそ、そうなのか!? 初耳じゃ! じゃ、じゃあ、わしは一体、これから何を飲めばいいのじゃ!?」
「牛乳。神聖な飲み物だから、目の下の隈だって消えるかもしれませんよっ?」
「だ、ダメじゃ。牛乳を飲むとわし、お腹が壊れてしまうのじゃ」
「じゃあ、水でいいじゃない。とにかく、お酒は控えないと!」
「む、むう……じゃが、じゃが……」
「それよりも、管理人さん。最近イルファーンの様子、変じゃないですか? 今日も私を待っててくれなくてて! 別に構わないっちゃ構わないんですけど、なんだかなぁ――」
「む? それこそわしは、お主らがケンカでもしたのかと思っておったが?」
「違いますよ! 理由がわからないんです! ああ、もうっ! 時間が無いっ!」
「む? それって、お主が寝坊しただけではないか?」
「そんなことないです! 今日はイルファーンが起こしてくれなかっただけでっ! それじゃ、行ってきます! またあとで!」
「そ、それを寝坊というのじゃぞ?」
シャクティはエントランスを抜けると、早足に学院へと向かう。
(なるほど、シャクティはイルファーンがいないと、ダメの子になるのじゃな――)と、ミドリは自分のダメさ加減を棚に持ち上げ、考えていた。
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バングルとは大よそ、人や亜人が必ず所持するものだ。
その形状は腕輪だが、一般に幻界の守護者が現世の人々に与える恩寵である――と云われていた。その形や色合いなどは様々だが、凝ったデザインのものほど、巨大な力を秘めていることが多い。
またバングルとは、魔力を込めれば守護者の持つ力を具現化した道具に変わる。例えば竈や靴などだ。そしてそれらは、普通の道具とは違った働きを持つ。
竈ならば食材を入れれば自動で調理するし、靴であれば、倍の速さで走れるようになったりするのだ。こういった現象が起こるのは、バングルを齎した守護者の魂が宿っているからだと云われていた。
そんなバングルは、ある日、突然に降臨する。
イルファーンの場合は、五歳の誕生日のことだった。突如彼の左腕が輝き出し、鉄の腕輪が現れたのである。
周囲は「ようやくイルファーンも、バングルを授かったなぁ」と、暢気なものだった。彼の育った農村においては、バングルが武器に変化した者などいない。皆が皆、脱穀機であったり石臼であったりと、農業に関わるようなものばかりであった。
だから当然の如くイルファーンのバングルにも、何か便利な道具が宿ったに違いない――と皆は信じて疑わなかったのだ。
しかし実際にイルファーンがバングルに魔力を通してみると――黒い刃の輪が現われて、乾いた地面に転がった。
当初は、誰もそれが“戦輪”という武器であることに気付かず、「変わった包丁だな?」などと言っていたものだ。
だが、バングルを授かったなら、この国では役所に報告をしなければならない。だから両親に連れられ、イルファーンは最寄の街へ行った。そこで初めて、自らのバングルが武器である事を知ったのである。
役所でバングルから具現化されたイルファーンの戦輪を見た役人が、目を丸くしながら言ったのだ。
「ぬ! これはかつて、魔族の戦士が使った武器ではないか! むう……禍々しいが、ともかく武器であることに違いは無い……! であれば、この子は一代戦士となれる権利を持つが――おぬしら、いかがする?」
イルファーンの父は魔族とのハーフであったから、やや迷った。息子のバングルが武器であったとして、それはおかしな事ではない。けれどそれを魔族側の血から引き継いだとすれば、手放しで喜べないからだ。
とはいえ幸い、一代戦士の権利は手放す事も出来る。何しろ戦士の階級にあるものは、国の一大事となれば、必ず戦場へ赴く義務が生じるのだ。それが嫌であれば、平民に留まることも出来る。ただしその際は、バングルを捨てなければならないが――
だからイルファーンの父は、役人に苦笑を浮かべて言った。
「この子が戦場に立って、まともに働けるとは到底――」
けれど母は喜色を満面に浮かべて、息子の輝かしい未来を夢想していたのだ。
「あなた! 何を言ってるの! 私達の一存で、この子の未来を潰していいものですかっ! 学ばせましょう! そして、強く育てるのよっ!」
自分たちはどう頑張っても平民以上になれない。けれど息子には、戦士への道が開けた。運に味方されれば、貴族になれる可能性だって、ごく僅かだが生まれたのだ。
こうしてイルファーンは母親の強い後押しにより、寒村では珍しく勉学と武術に励む子供となったのである。
また、時を同じくして隣村の少女も、武器のバングルを授かっていた。それがシャクティだ。
以降、二人は切磋琢磨しながら、互いに武技を磨いていったのである。
やがて二人の努力は実を結び、民間最高峰と謳われるダンバード学院へ入学したのだった。
――――
そんな栄えある学院に三ヶ月ほど前入学したイルファーンは、浮かない顔で休み時間を過ごしている。
ことの発端は一週間ほど前、学年で一番美しいと評判のインデュラに告白されたことだ。彼女は貴族の生まれで、父親は王国戦士団の団長だった。
身分の違うイルファーンとインデュラなので、本来であれば決して結婚など出来ない。けれど武器のバングルを授かった戦士であれば、例外として貴族と結婚することも可能なのだ。
何故ならバングルとは遺伝する。故に貴族達は皆、武器のバングルを持つものを取り込みたいのだから。
しかもインデュラは蠱惑的な笑みを常に浮かべている、絶世一歩手前の美少女だった。太い眉毛と吊り上った目が、良くも悪くも彼女の個性を際立たせている。
インデュラの淡い緑色の髪と碧眼は共に母親譲りで、豪放磊落な性格は父に似たのだろうと言われていた。
彼女は常に白いドレスを身に纏い、バングルが齎す武器はタルワールと呼ばれる装飾も豊かな曲刀で、剣の腕前も大人顔負けだ。
そんな彼女がイルファーンに惹かれた理由は、今のところ誰も知らない。ただ、告白は突然だった。
あの日はイルファーンが掃除当番で、下校時刻を大幅に過ぎていた。シャクティには先に帰ってもらい、自分も急いで帰るところだった。
「そなた、私のモノになれ。決して悪いようにはせぬ!」
インデュラは校門を出たところで腕を組み、仁王立ちでイルファーンを待っていた。そして、胸と顎を極限まで逸らして言い放ったのである。
――あれはいっそ、上を向いて言ったのかもしれない。
「え?」
「今日からだ! いいなっ!」
「は、はい」
そして、そのままイルファーンと共に下校したのである。
当然ながら、こんな有様ではイルファーンに抵抗など出来るはずも無かった。
有名なお貴族さまが、突然のご乱心? と思ったし、下手に抵抗して反感を買いたくもなかったからだ。
明日になれば、忘れてくれるだろう――その程度に考えていた。
しかしそれからのインデュラは日々、通学途中のイルファーンを出迎えた。南二区と三区の境界で従者を従え、実に麗しい笑顔で彼に手を振るのだ。そして共に学院へ登校する。
もちろんそれだけなら、イルファーンだって男の子だ。オイシイ展開だと思うだろう。
しかしついに先日――彼女がとんでもない事を言い出したのだ。
「そなた、あの幼馴染と口をきいてはならぬぞ。なにせ、私のモノになったのだからな」
シャクティと口をきいてはならない――こうなれば、イルファーンは溜息しか出ないのであった。




