空間俯瞰能力
この感覚を初めて味わったのはいつだったか、思い出してみる。確かずっと昔のことだ。
後ろの席の男から、一枚の紙切れを渡された。あ、だからか、と内心で納得する。先程からクスクスと笑い声が聞こえ、ウジ虫みたいな連中が小さくうごめいていたその訳が分かった。この紙に書かれた内容を、その紙を回していくことを、皆で笑い合っていたのだ。余程、日常がつまらないのだろう、と僕は推測する。笑いのツボが、ネタが、あまりにも乏しい。
その紙に書かれた内容は、今までの経験というか、流れからというか、読む前から大方予想がついた。自分のことに関する内容だろう。あいつらも芸がない。
雑に折られ、さらに小さくなったその紙切れを開く。そこには、弱々しい筆圧で書かれた文字があった。その内容は、例によって大体予想通りだ。
この紙切れには、沢山の指紋がべたついているんだろうな、と僕は想像する。人から人へ、後ろから前へ、そこから横へ、と、自分のところまで到着するまでに、十数人くらいの人が一度は手にしたのだから、と。
今すぐにでもこの指紋を全て採取し、照合して、当てはまる人物を皆殺しにしたいところだが、生憎そんなことができる技術も、度胸もない。いや、そもそも本音を言えば、そんなことするつもりも、願望も毛頭ない。彼らに対して憎しみを抱いてやれるほど、僕はお人好しじゃない。興味もなければ、そんなことに感情を移入している時間もない。かまってなど、いられない。
僕がその紙切れを前の席の女に渡す必要はない。何せ、僕宛の言わば手紙なのだから、前の席の女に渡したところで、すぐに返ってくるだろう。紙切れを、ポケットに仕舞う。
わざわざ、その紙をぐちゃぐちゃに丸めてから仕舞ったのには、理由がある。その方が、周りから動揺しているように見えるからだ。自分は弱い人間なのだと、クラスの連中に知らしめることができる。
次の瞬間、後頭部に小さな衝撃を覚えた。それは、蚊が腕に着陸したほどの小さな感触で、実際思い返してみれば、その衝撃は恐らくこの数秒で三度目か四度目ものであるのだと、後になってから気づいたほどの、些細な感覚だった。
それから、散乱銃の如く後頭部に連射されたいくつか玉の一つが、僕の机の上に転がった。消しゴムの欠片だ。もったいない、とその時僕は思った。目的をそがれ、僕の後頭部に向かって放り投げられたその消しゴムの欠片たちは、もはや存在意義を無くしているように思える。床に転がっている彼らも、拾い集めて練ればまだ使えるのかもしれないが、残念ながら僕は、そこまで消しゴムを必要としていない。
皮肉に例えるなら、その消しゴムの欠片を投げ込んでくるあいつらは、その消しカス同然だろう。目的をそがれ、何か大きなものにその身を投げ捨てられ、生活という床に転がっている。
僕は気にしないそぶりで、いや、実際気にしてなどいないが、あくまでも「気にしないように強がっているそぶり」で、教科書を見やる。そこに書かれていたのは、世界人権宣言の一節だ。
「すべての人間は、生まれながらにして…」
自由? 平等? これが?
世界なんて相手にしている気でいるから、
偉そうな人間はこんなことを簡単に言えるのだ。
クスクス、クスクス、と、笑い声が聞こえる。
教師の鳴らす、チョークの打撃音が聞こえる。
クラスメイトがペンを走らせる音が聞こえる。
それぞれが不快な音をたて、不協和音を奏でていた。
僕は慌てて、両耳を塞いだ。それでも、奇妙な音楽は消えない。頭の中のずっと奥底から鳴り響いてくる。
ノートをめくる音が聞こえる。椅子を位置を動かす音が聞こえる。話し声が聞こえる。吐息が聞こえる。
全部、聴こえる。誰かが話している声も、その内容も。そしてそれが誰の声であるのか、全て判る。四方八方から囁かれている音が、頭の中で重く響く。
すると、誰かのシャーペンの芯が折れた。ポキッ、という音が、体の内部で小さく爆発し、重く響いた。
その瞬間、僕はゆっくり空を飛んだ。ふわっとした漠然たる感覚が体を襲ったかと思うと、教室が少しだけ徐々に小さくなり、僕はそれを真上から見下ろした。
幽体離脱か? と僕は疑った。だが、それにしては視界も、感覚もはっきりしている。もっとも、幽体離脱など経験したことないが、それでも、違う、と断定することができた。
そこには、クラスメイト全員の姿があり、黒板に向かっている教師の姿があり、そして席に座っている自分の姿もあった。
空飛ぶ僕は、低空で教室内を少しだけ自由に飛行できた。
廊下側の壁に貼られた「思いやり」と書かれた半紙は、僕の作品だけ破られている。教室の後ろの棚に並べられたランドセルは、相変わらず僕のだけボロボロだ。窓から見える校庭は、誰もいなく静かで、殺風景だ。そこからさらに奥に見える大きな山は、いつもと変わらない。なんて偉大なんだ。きっともっと近くで見たなら、日々何かしらの変化を遂げているのであろうが、ここからではそれを少しも感じさせない。
僕は再び上昇し、教室の中心、その真上から教室の全体を見渡す。こんな不思議な体験をしているのに、僕は冷静だった。
席に座っているもうひとりの僕はといえば、教科書を両手でもち、黙読している。どうやら、僕を続けてくれているみたいだ。
試しに、念じてみた。もうひとりの僕、つまり、机に向かってペンを動かしている僕は、果たして本当に僕であるのか、試したかった。念じてみる。
すると、もうひとりの僕は教科書を読むのをやめ、右手にペンを持ち、ノートの真ん中に大きく、「マクロで見れば喜劇」と書いたので、僕は安心する。この現象が起こっている間、僕は二人の僕を動かすことができるようだ。
周りの人間を見渡す。誰が何をしているのか、見える。どういったことを話しているのか、聞こえる。隅々まで、全てを見渡せる。
全て、手に取るように分かる。
世界を、把握できた。牛耳ることができた。まるで、地球を掌の上で転がせそうな、そんな気がした。なんて、そんなことを感じたのは、若かったせいだろう。
回想を中断し、仕事に戻る。今やその「空間俯瞰能力」は、いつでも引き出すことができるようになった。厄介なのは、精神的に大きな披露を伴い、頭が異常に熱くなるということだ。
人は息を殺せても、死ぬことはできない。口や鼻からの呼吸をとめることはできても、皮膚呼吸までとめることはできない。そもそも、僕だけが感じ取れるようだが、「魂の息吹」なるものは、誰にも消すことができない。少なくとも、僕はそれを出来る人に出くわしたことがない。
五人か。皆、拳銃を仕込んでいるが、容易い。
扉に手を掛け、勢いよく開ける。