1-1 魔王と戦乙女
「古来より、人々は『器』の存在に気づいていました。器量という言葉や大器晩成という四字熟語が示すように、人には何かを受け入れる器があると..............」
ご高説を垂れる男教師に一瞥すら与えず、そいつは窓の向こうを眺めていた。
天気は目が痛くなるほどの晴れ、気持ちは分からないでもない。
だが、その道理は当たり前ながら生徒にしか通用しないもので。
「こら、比留間。余所見をするとは何事か」
ああ、注意された。
眉根を寄せて歩み寄ってくる城島先生に、ヤツは、比留間有馬はその眼差しを窓の向こうから教師の元へシフトさせた。
何もかもを貫くような、鋭い視線。
獣のような眼光は、今にも燃え上がりそうな橙の輝きを灯している。
思わずたたらを踏んだ先生に、比留間は眉根を下げ、いくらか申し訳なさそうな雰囲気を漂わせて。
「申し訳ありません、城島教員。少し興味の惹かれるものがあって」
「興味?」
「一応耳は傾けていましたから、話の内容は全て頭に入っています。余所見の罰として暗唱しましょうか?」
「いや、反省してるならいい」
「ありがたきお言葉」
堅苦しい口調で謝意を告げてから、緩やかに頭を下げた。
重力に惹かれ、金紗のような髪が垂れる。
「では、授業を再開する。比留間、続きを読め」
「反省しているならそれでよかったのでは?」
「いいから読め」
「手厳しい」
くっ、と楽しげに苦笑してから、その細い指が教科書のページをめくる。
「..............23ページ、3行目」
誰にも聞こえぬ程度に放った言葉は、確かにヤツの元に届いたようで、こちらに向けて小さく手を上げた。
敬礼に似たポーズ。
おずおずとこちらも敬礼を返す。
「我々人類の内に魔法を行使するための機関、『器』が発見されたのは2020年、科学者犀塔和人が二十歳の時であり..............」
朗々とした声が教室に響く。
ありふれた学園風景。
ただ、そこに座る生徒と教壇に立つ教師が皆魔法使いであることを除けば。
今から五年前の話だ。
この世に"天使"が舞い降りるようになったのは。
現存する兵器ではどう足掻いても倒せない怪物のために、人類は奇跡の法、魔法を編み出し、対抗することとした。
「災難だったわね」
昼休み。
閑散とした校舎の屋上には春風が吹いていて、たなびくように揺れる黒髪を抑えながら私は立っていた。
一人胡座をかいていた比留間は緩やかな挙動でこちらを見上げ、
「..............ああ」
それから小さく微笑んだ。
「あの時は助かった。いや、どうも退屈でな」
「窓の向こうをぼんやり眺めるのもそんなに楽しいものではないと思うけど?」
「いやいや、そんなことはあるまい。お前ほどとは言わなくとも、相応に熱意の満ちた者はいる」
そう言って立ち上がり、屋上から柵を超えた先、遠い下界へ目を向ける。
私も彼の隣に立って視線を並行にするが、小学校の校舎や校庭しか見えない。
「―――[[rb:肯定する > 届け]]」
詠唱、視力を三倍ほどに引き上げる魔法を起動。
すると、校庭で楽しげに遊んでいる子供たちの姿が見えた。
「いいな。実にいい。幼児の熱意は無垢でいい」
「..............ロリコン?」
「何を言うかと思えば。私はお前のささやかな乳も好きだよ」
「セクハラね」
「あんぱんにメロンパンを付けよう」
「イチゴミルクも付けなさい」
「承知した」
くっ、と愉快そうに笑ってから今一度腰を下ろす比留間。
「瀬良もどうだ? 昼、まだなのだろう?」
「名前で呼ばないで。セクハラよ」
「吾郎のチョコレートパフェを奢ろう」
「..............物で釣ろうだなんて浅ましいわね」
「そういうセリフは何のためらいもなく言ってこそだ、峯岸瀬良」
くくっ、と笑う。
その声色は、イタズラ好きな子供のようでもあり、人を貶める悪魔のようにも思えた。
腹が立つ。
こいつはいつも妙に自信ありげで、こちらのやることなすこと皆受け止めてしまう。
「まぁなんだ。ここは寂しい男子高校生を助けると思って相席してくれ。話し相手が欲しい」
「ならさっさと友達でも作ったらどう? 入学してから、私以外と会話している姿を見かけないけれど」
「手厳しいな」
「手厳しくない」
「いや、人付き合いが下手でな。それに人見知りだ。ある程度仲の良いものでないと飯も食えんのだよ」
「社会的弱者ね」
「社会など知らん。腹の足しにもならんだろう」
くくっと笑って、胡坐をかく自分の隣をぽんぽんと叩く。
そこに座れということだろう。
特に拒む理由もないので腰を下ろす。
元より、そのつもりで来たのだし。
「あぁ待て待て。ハンカチを引いてやろう」
「あら、気が利くわね」
「何、気にするな。現役女子高生の尻に敷かれたハンカチは貴重な資金源にいや待て冗談だ。校内での魔法の攻撃行使は禁止されているだろう? お前が休学になると私はいよいよひとりぼっちになる。やめてくれ、瀬良」
「なればいいじゃない。私がいなくなれば他の子達も話しかけてくると思うけれど?」
クラスで目の敵になっている私なんかとつるんでいるからこんなところで昼食を食べる羽目になっているのだと思うのだけど。
「話しかけられたところで無視するのが関の山だ。悲しいが、それもまた私の在り方でな」
「またよく分からないことを言うわね」
まぁ、そういうことなら仕方ない。
お言葉に甘えてお昼をご一緒させてもらうとしよう。
「ほう、サンドイッチか」
「あげないわよ」
「いらん。私が食べるよりもお前が頬張る方が目の保養にもなるというものだ」
「お邪魔したわね。さようなら」
「待て待て、冗談だ。いや、すまない。どうもお前と会うとはしゃいでしまってな。こんなつまらない洒落も泉のように溢れ出てしまう」
「酔っ払った中年親父ではないんだから..............」
そう言いつつも緩む頬が抑えられないのは、ひとえに私が社会的弱者だからだろう。
「..............はい、どうぞ」
「いや、いらんと言ったはずだが」
「放課後、パフェを奢ってくれるのでしょう? ならお腹を空かせておく必要があるの」
「なるほど、一理ある。そういうことなら遠慮なくいただこう」
いただきます、と両手を合わせ、小さく一口。女子かと思うほど小さくついばむような食べ方だ。
変なところで男らしくない。
「ああ、うまい。うまいな。実にうまい」
「語彙少なすぎない?」
「..............あまりの旨さに天地は鳴動し新たな時代が幕を開くことだろう」
「ごめんなさい、偏っていただけなのね」
「少年漫画が好きでな..............」
くっ、と笑う。よく笑う人だ。
「いや、しかし本当にうまいな。店に並んでいても違和感がないくらいだ」
「大袈裟ね」
「女子高生のお手製となればその価値はさらに高く」
「どうしてそう発想が中年寄りなのかしら」
「少年漫画が好きでな..............」
「少年漫画はもっとこうフレッシュで溌剌としたものだとばかり思っていたわ」
「所詮描き手が中年だからな..............まぁ全て冗談だ」
「でしょうね」
「女子高生のお手製がどれほどの価値を持つのかはこの世の真理ですらあるからな。少年漫画にこだわることもあるまい」
「貴方のせいで世の男性諸君への印象がだだ下がりなのだけれど..............」
「なら仕方あるまい。私が責任をとって男を見せてやろう」
「..............嫁にでももらうつもり?」
「いや、二十四時間耐久筋肉鑑賞会を開く」
「拷問ね」
「男を見せるとはそういうことだろう。男らしさと聞けば大抵筋肉が挙がるものだ」
「時代錯誤も甚だしいわね..............」
溜息を吐くと、また比留間は笑った。
「付き合いがいいな、瀬良は。有り難く思うぞ」
「それはどうも。私は貴方みたいな人に付きまとわれて毎日ケータイが手放せないわ」
「ほう、襲われる前に通報できると? 念の為に防犯ブザーも身につけているといい」
「貴方自分のことをどう思ってというかなんで持ってるのよちょっやだっ、ネックレスみたいに付けないで!」
いきなり首の後ろに手を回されたかと思えば、胸元に冷たい感触がある。
露店で売られているシルバーに似た、しかしそれらよりもはるかに品の良さそうな銀のクローバー。
「特注品だ。困った時は外せ。ブザーが鳴る」
「妙に装飾が綺麗なのだけど」
「この年にもなってあの野暮ったい防犯ブザーを身につけるのは辛いだろう? それならデザイン的にも気軽に身につけられると思うが」
「..............いいの?」
「何がだ?」
「こんなもの、もらってしまって」
「お前がブザーを鳴らして私が補導される可能性が高まると? 心配するな、警察に捕まるような私ではない」
「いやそうじゃなくて。いやそれはそれで心配だけれど。..............私なんかに、こんな」
いいものを。
そう言いかけた唇に、何かが押し付けられた。
それは今まさに比留間が封を開け喰らおうとしていたジャムパンで。
比留間は私にジャムパンを押し付けながら、優しい眼差しで。
「私なんか、などど己を卑下するな、瀬良。私はお前を高く買っている」
「綺麗だから?」
「熱意だ。誰にも負けない熱意があるからだ」
「熱意、ね..............」
少年漫画が好きなこの人らしい。
「確かに、そこらの学生よりやる気に満ち溢れているとは自負するけれど」
だからなんだというのだ。
「熱意があっても、世の中結局は才能よ」
魔法を使うためにはその容量を受け入れるだけの『[[rb:器 > HDD]]』が必要で。
その『器』の容量は生まれながらにしてある程度決まっていて。
この私、峯岸瀬良の『器』は零に近かった。
「どれだけ努力しても越えられない壁はあるの。熱意だけじゃ、どうにもならないこともあるのよ」
「..............」
やさぐれたように言った私に、比留間は楽しげな笑みを隠さなかった。
「馬鹿にしてるの?」
「いいや? そんなわけはあるまい。私はお前が愛しいよ、瀬良」
「なっ..............!?」
いきなり何を言い出しているのだろう、このぼっちは。
「ああ、お前の言い分も分かる。実際その通りなこともあるだろう。だが、そんなことはどうでもいい。些細なことだ」
「なら、」
「大切なのは、それだけ絶望しただのどうしようもないだの口にしているお前が、それでもなおこの学園にいて、筆記試験で一位を取り続けていることだ」
「っ..............!」
その言葉に、体の芯から熱くなる。
それは羞恥でもあり、歓喜でもあり。
「..............」
苛立ち紛れに、もぐ、とジャムパンを頬張ってやった。
上目遣いで睨みつける私に、比留間はまたくっ、と笑ってジャムパンを持った手を引く。
そしてなんでもないように一口含んでから、空を見上げた。
「まぁ、そう捻くれる必要もあるまい。気持ちは分かるが」
ゆめ忘れるな、と比留間は言った。
「私はお前を高く買っている。お前を誇らしくさえ思っている。そのことだけは、忘れてくれるな」
「..............忘れたら罰でもあるの?」
「大の男が全力で涙を流す姿を、お前は見たいと思うか? 漫画のそれではない、ひどく汚いものだ」
「..............貴方は、本当に馬鹿ね」
「そういうものだ。何かに魅入られるというのは、そういうことなのだ」
ジャムパンをかじり、どこか満足げに笑う。
私はその横顔を、何か感じるわけでもなく眺めていた。