プロローグ
――情報、情報。ああ、それが一体どれ程のモノだというのか。
ろ過し、ひとかけらの揺らぎすら許さず漉し取った高純度の『ソレ』をヒトは求め、ゆえに己を失った。
間違えてはいないか。
記憶と記録は、似ているようでいて、その実、白と黒を並べて比べるほどに明確な差異を持っている。
ああ。ヒトはなぜ、二十一世紀も終わりを迎えるこの時になってすら、そこに思い至らないのか。
プロローグ
それはまるで、南洋の海に浮かぶフライパンのようだった。
放棄されて久しい海上の道路はしかし、アスファルトが多少傷んでいることと白線が薄れて読みづらいこと以外には、何の問題もなく存在していた。
その橋縁、年季の入った白く厚いコンクリートの上に腰掛けている女が一人。
海上から伸びるしっかりとした橋脚に支えられた堂々たるそれは、今はもう当初の目的を果たすあてもなく、ただ一人の女の体重を支える白亜の椅子の地位に甘んじていた。
この感覚だと、昼には東京全域で40度を超えるだろう。
あと少しでたんぱく質を凝固させてしまうだろう温度に達する海風を浴びながらも、女は、特に気にする風もなく本の頁を一つ捲った。
青白いと言っても過言ではない彼女の片手、それよりも幾分か人の肌に色が近いよく日に焼けた年代物のそれは、文庫だった。
古めかしく、その上飾り気のない上品な装丁のそれは、一世紀以上も昔に刊行された文学の名作。
シンプルでありながら、理知的な佇まいを失わないこの本の装丁が、女は気に入っていた。
そうしている間にも、太陽は天の最も高い場所まで駆け上がっている最中だ。
じりじりと肌を焼くような、いや、いっそ海の湿気を含んで蒸し焼きにでもしようかとでも言いたげな空気に顔を凪がれ、女は初めて顔を上げた。
「……お前も、難儀な運命をもったものだな」
目を細めて、自らが椅子としていたその白肌を一つ撫でる。
蒸すような暑さを生む反射光は、この黒い環状龍のせめてもの抵抗かと一瞬考え、次いでくつくつと笑う。
「人間の特権だったか」
『想像』そして『創造』という領分は。
「……さて」
最後まで通し終えた文庫の奥付からのど、天までをいとおしげに撫でると、辿り付いた先にある臙脂色のスピンを丁寧に差し入れてぱたりと閉じる。
タトウ紙に包んだそれを腰に吊ったポーチに詰めると、引き換えに小さいアクセサリーを取り出す。
平たい黒と棒状の銀で出来たそれは、乗り物のキーだった。
黒く扁平な樹脂の上には、片翼を模したエンブレムが銀色に光っている。
取り出したキーを懐に、注釈するならその胸元に挟むと、それまで腰元まで下ろしていたつなぎ状のライダースーツを着込み始める。
胸下までのジッパーを引き上げると、胸元に挟んだキーを口に咥え、胸上のタッグを留める。
シャツの上に着込んだのは、赤と黒のライダースーツだった。
女は、咥えていたキーを片手に渡すと、黒い環状線上の唯一のお客となっていた大型バイクのキーシリンダーにそれを差し込んだ。
小気味の良いエンジン音が響く。
しばし、エンジン調整という名目での一瞬の演奏会に聞き入った女は、十分に満足したのか、その長い足で車体を左右からきっちりと挟み込んだ。
「さあ、帰ろうか相棒。我らの『街』に」