第3章 ガルシアの悲劇①
「放せ!」
廊下から響く、甲高い少年の声を聞き、レスは固いベッドからふと身体をもたげた。
ようやくうとうとしかけていたのに、とんだ邪魔が入ったものだ。何事かと、少し不機嫌に、続きを聞こうと耳を澄ませる。
「放せ!この…てめぇ殺してやる!」
「五月蝿いぞ!」
少年の声を、低い男の声…兵士であろう…が、諫めた。バタバタと暴れる音もする。恐らくこんな夜中ではあるが、新入りが兵士に引き摺られてやってきたのだろう、とレスは予想した。
『被験者』の宿舎にはランプなどない。よって夜になれば、月明かりだけが唯一の灯りとなる。まして今日のように曇りの夜などは、月明かりも届かない完璧な暗闇だ。耳だけで全てを推量するしかない。
「ちくしょう…ちくしょう!」
声はどんどん近付いてくる。新入りの部屋は近くになるらしい。随分血の気の多そうな奴だから、友人にはなれそうにないが…とレスは思う。
部屋のドアの窓から、橙の光が覗いた。兵士が持つランタンの灯りだろう。と、声と足音が、そこで止まった。
「…何だ…」
レスが疑問の声を上げるか上げないかのうちに。
バァン、とレスの部屋のドアが開け放たれた。ドアの外にランタンを提げた兵士が立っているのを唖然として見た一瞬後、兵士は何かを突き飛ばし、すぐにドアを閉める。
「いって…!」
放り込まれたのは少年のようだった。ズザッと床に倒れる音がする。
と、ドア越しに兵士が声を上げた。
「レス、それは今日からお前の同室だ」
「同室って…」
「はっ、勝手なことぬかしてんじゃねぇよこの」
兵士の声を聞き、少年が反論する。同じ部屋に放り込まれると尚更五月蝿い。
「俺はお断りだぞ!そもそもこんな辛気くせぇとこに居ること自体に吐き気がする…」
「この、わからず屋めが…黙らないか」
兵士はそれだけ言い残し、踵を返して去っていくようだ。足音がどんどん遠ざかる。
「…っおい!待てよ!」
少年が声を張り上げるも無意味だ。すぐに足音は消え去った。
「…くそッ」
少年はそれだけ吐き捨て、黙る。
レスは暫し考えた…同室。今までに同室など聞いたこともない。この狭い、ベッドもひとつしかない、牢獄のような部屋に、どうしてふたりも住めようか。…だがレスがここに保護された時は、子供なのに一室与えるのかと、兵士がぶつぶつ言っていたのを覚えている。空き部屋はたくさんあるのだが、オルディア兵士は総じてけちである。おそらくこの少年もレスと同い年くらいだから、まとめて放り込んでしまおうという魂胆だろう。
「…床、寒いだろ」
レスが声をかけると、気配で少年がビクッとしたのが分かった。
「なん…誰だお前」
「俺?レス」
簡潔に答える。レスはベッドの右はじの方に寄って体育座りをし、左手で空いたスペースをポンポンと叩いた。
「ベッド、来いよ。小さいからきついし、固くてシーツなんかボロだけど、床よりはましだと思う」
「な…」
少年は戸惑っているようだった。少し間を置いて、「暗くて見えねぇよ」と言った。
レスはすっと立ち上がると、少年の気配を感じる方に手を伸ばす…と、髪の毛のようなものに触れた。
「う、わぁ!」
「あ、悪ぃ、俺だから」
それだけ断り、手探りで少年の肩を掴んで誘導する。
「いいか、ここがベッドだ。高さあるから、足ちゃんと上げろよ」
「………」
手で触らせた後、ベッドに上がる。狭いベッドにふたり。向き合って座る。
「…で、お前はなんて名前なんだ」
「え…」
少年は言葉に詰まった。少しの沈黙があって、
「…エル」
と答える。
「そうか、エル、じゃあ、よろしく」
「いや……レス…」
「何?」
「…あのよ、さっき兵士に散々文句たらしたけど、ここにいること自体が嫌だから、お前に対して嫌って言ったわけじゃねぇんだよ…」
「………」
「…気ぃ悪くしたらごめん」
意外に冷静だ。当たられるかとも思ったが、声を聞く限りは本当に申し訳なく思っているようである。付き合いのある同室なのだから、お互い仲良くやれるのがいちばん良い。
レスは言った。
「…いや、おま…エル、は、偉いよ。俺は初日泣いたし」
「あいつらのために泣くのは勿体ないだろ」
「エルも連行されてきたのか」
「小競り合いに巻き込まれて、親が死んだんだ…」
「そうか」
沈黙。ざあっと、風に木の葉が揺れる音がした。
「…とりあえずさ、仲良くやらねぇ?」
暗闇に慣れて、エルが手を差し出したのが分かる。握手だろうか…差し出されたのが左手なのが…常識としては右手を差し出すものだろうに…レスには痛い。
「…ああ、よろしく」
致し方なし、と反対の右手を差し出す。
その時、雲が風に流され、途切れた。僅かに月が姿を現し、その光は部屋の中に差し込む。
レスは目を剥いた。
目の前にいるのは、右腕と右足が半分ない、深く強い瞳をした、同い年くらいの少年。
すぐにまた月が隠れ、何も見えなくなる。
レスは、あちらからも自分の様子…左腕がないことが、見えたに違いないと思った。
お互いの姿を認めた少年達は、沈黙する。
そうだ。ここに連れてこられるということはつまり、身体のどこかがないということ。どうして気付かなかったのだろう。気付こうとしなかったのか。
「…そっか、レスも…」
エルが呟く。
-…レスは、こんなに小さいのにここにいるのは自分だけだという不安をずっと抱いていた。虐げられ、先の見えない毎日が辛く、何も考えられなくなり心を殺していた。
そんな中突然飛び込んできたエル。自分より酷い手負いだが、強く心を持つ少年。
涙腺が緩むのをこらえる。
「エル…」
「うわ、何だよ、どうした」
「俺達…」
レスはエルの肩を掴み、言った。
「絶対に屈しないで、生きるんだ」
気配でエルが笑ったのがわかった。
「…お前となら奴等に勝てる気がするぜ」
ふたりの声が重なる。
「これから、頼んだ」
†