魔女の噂
N高の一年C組、俺は柔道部に所属していた。
俺はもともと柔道の素質はそれなりにあったのだろう。
小学生のころは地域の柔道大会で賞を総なめにし、
地元では少しばかり知られた存在であった。
中学に入っても俺は恵まれた体格を武器に、相手を力でねじ伏せることができた。
しかし、当時から根本的な問題があった。
俺は強くなるために練習することが好きではなかった。
要するにヘタレである。
高校に入り、当然のように柔道部からスカウトを受けた。
体格から誤解を受けることも多いが、根は繊細で気弱な俺である。
その誘いを断ることができなかった。
しかし高校生の柔道ともなると厳しい。
もはや体格を活かしてだけの試合運びでは通用しなくなる。
毎日先輩から苦も無く投げられる日々に、
自信を喪失しかけていた時、とある事件が起こる。
クラスメイトの川田という女子生徒に、見事な内股で投げ飛ばされたのだ。
自分の一言に、彼女がぶち切れしたというのが事の顛末だが、
どうしてそうなってしまったのか、いまだに良く分からない。
全く女というのは怖い、という教訓を得て、
その日の部活に励んでいると、部長がこちらを睨んでいる。
「生野、ちょっとこっち来い」
実に悪い予感がした。
「生野、聞いたぞ。お前、クラスの女子に投げ飛ばされたんだってな」
「はあ……」
俺はなんとも間の抜けた返事をした。
「全く情けない。だいたいな、最近のお前は……」
部長の話はとかく長くて要領を得ない。
要約すると、最近の自分はいかに柔道に不熱心で駄目な人間であるかを
くどくどと説明しているようだった
「だから、女にも負けちまうんだよ」
「はあ……」
俺が相変わらず間の抜けた返事を返すと、すかさず部長が尋ねてきた。
「で、生野、その女ってのはどんなやつなんだ?」
部長の関心はそこか。
「どうって言われても……よくわからねえ奴ッスよ。第一クラスの誰とも喋らないし。
ただ、身長は女子にしてはかなり高いッスね。170センチ以上あるんじゃないかな?」
「ほう……」
部長はしばらく腕を組んで考えているようだったが、
やがて声をひそめて言った。
「生野。よく聞けよ」
そういうと部長は声をひそめはじめた。
顔を近づけると部長はやたら汗臭い。
よく聞かなくてもいいように、もっと大きな声で話せと俺は思ったが。
「その女、うちにスカウトして来い」
「……は?」
部長の予想外の言葉に俺は思わず聞き返してしまった。
「だから、その女、川田とか言ったか?柔道部に入れって勧誘して来るんだよ」
「勧誘って、俺がッスか!?」
思いがけず素っ頓狂な声が出て、練習していた部員はいっせいにこちらを注目した。
「しーっ、声がでかいんだよ馬鹿!いいか、よく聞けよ」
部長はとかく長くて要領を得ない話で俺に説明した。
どうやら部長は期待の新入部員が、女子にいともたやすく投げ飛ばされたという事態が、
柔道部の沽券に関わる一大事と思い込んでいるようだ。
そう言われるとそういうような気もしてくる。
で、その体裁を取り繕うためには川田を柔道部に取り込んでしまえばいいと考えているらしい。
そうすれば、部員同士が柔道の技を掛け合ったということで、ことはおさまる、と。
一瞬、妙に納得した俺だったが、ちょっと待てと思い直した。
「ちょ、ちょっと、部長。川田は女ッスよ。さすがにうちに来いってのはマズくないッスか?」
この柔道部には女子部員というものは存在していなかった。
過去にもそういう人が居たとは聞いたことが無い。
「だからお前は馬鹿なんだよ、この馬鹿!いいか、元からこの柔道部は女子禁制じゃないんだよ。女子部員が居ないのは、ただ単に入部希望者が居ないからなんだよ、この馬鹿!」
偉そうに言えない事情を偉そうに言う部長を、俺は偉いとは思えなかった。
どう考えても得策とは思えない。
「でもやっぱ実際女子が居ると問題あるんじゃないッスか?ほら、着替えのスペースとか……」
「それは大丈夫だ、俺が顧問に掛け合ってやる。冷静に考えてみろ。女なのにお前を投げ飛ばすくらいの逸材だぞ。菊沢がみすみす逃すと思うか?」
菊沢というのは、うちの顧問の名である。
体育教師ということでいくつかの運動部顧問を掛け持ちしているが、
俺にとっては迷惑なことに柔道部に思い入れがあるらしく、
非常に熱心な指導で部員には恐れられている。
しかし、菊沢の名前を出されると俄然、現実味が出てくるのも事実である。
流されやすい性質の俺は、部長の話に付き合うことにした。
「わかりました、一応、説得してみます。でもあんまり期待しないでくださいよ」
俺は折れた。
しかし、あからさまにしぶしぶといった感じが気に入らなかったらしく、
すぐに部長の怒声が返ってきた。
「馬鹿、そんな弱気でどうする!いいか、これはわが柔道部の命運がかかっている一大プロジェクトだぞ!」
「はあ……」
声の大きさに比例して高揚してくる部長に比べて、俺は冷めていた。
一大プロジェクト……絶対成功しないだろ。
「このままじゃあ、柔道部は図体ばかりデカくで、女にも劣る役立たずどもの集まりだと皆に笑われることになりかねん」
あ、それって、俺のことか。
「はあ……じゃあ、もし断られたら、どうしますかね?」
もし、というか、十中9.9くらいの割合で断られると思うんスけど。
「それではわれわれの面子が立たん。そのときは、お前に責任を取ってもらうぞ」
軽い気持ちでたずねた質問に、思いがけなくヘビーな返答が返ってきた。
「その川田という奴とお前で、正式に試合しろ。負けるのは許されん、いいな?」
えーっ、何だよそれ……。
部長はそれで話を切り上げて、練習に戻っていった。