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婚約破棄されて崖から飛び降りようとしたら、通りすがりの美形に「僕も一緒に死ぬ」と心中を迫られて自殺を断念した件 〜死んだ魚の目で生きていたら、元婚約者が一瞬で失脚して超高スペック男に求婚されました〜

掲載日:2026/06/16

「エルザ・ヴァレンタイン。君のような陰気な女との婚約は、本日限りで破棄させてもらう!」

婚約者であったルーク・ルミナス伯爵令息の嘲笑を含んだ声が、今も耳の奥で嫌に響いている。

彼が隣に寄り添わせていたのは、エルザの異母妹だった。家格も申し分なく、ただ純粋に愛し合っていると信じていた男からの、あまりにも無慈悲な裏切り。

すべてを失ったエルザが足を進めたのは、王都の果てにある断崖絶壁だった。

吹き荒れる夜風が、ボロボロになったドレスを激しく揺らす。下を見下ろせば、暗い濁流が渦巻いていた。

(もう、どうでもいいわ……)

すべてが嫌になり、エルザがそっと目を閉じて一歩を踏み出そうとした、その時。

「おやおや。こんな時間に、こんな寂しい場所で先客かい?」

背後からかけられた場違いなほどに軽やかな声に、エルザはびくりと肩を揺らした。

振り返ると、そこには月光を浴びて信じられないほど美しく輝く、一人の青年が立っていた。夜の闇を溶かしたような漆黒の髪に、妖しくきらめくアメジストの瞳。お忍びのようだが、身にまとう仕立てのいい上着からは隠しきれない高貴さが滲み出ている。

「……放っておいて。止めないでちょうだい」

エルザは掠れた声で突き放した。しかし、青年は怯むどころか、ふっと綺麗な唇を綻ばせた。

「止めはしないさ。――うん、ちょうどいい。自分も一緒に行こう。どうせ、こんな世界は味気なくて退屈していたところだ」

青年は迷いのない足取りでエルザの隣に並ぶと、本当に今すぐ飛び降りそうなほど身を乗り出した。

「なっ……何をおっしゃっているの!? あなた、狂っているわ!」

「狂っているのはお互い様だろう? さあ、行こうか。君が先か、僕が先か」

楽しげに微笑む青年の瞳は、本気だった。

エルザの胸に、突如として冷や水のような恐怖が湧き上がる。私が死ねば、この何の関係もない、恐ろしいほどに美しい男まで一緒に死んでしまう。

(私のせいで、誰かが死ぬなんて……そんな業を背負って死ねるわけがないわ!)

「……やめるわ。私は、死ぬのをやめます!」

エルザが必死に叫び、崖から数歩後退すると、青年はピタリと足を止めた。そして、エルザの顔をじっと見つめ、「ふむ」と顎に手を当てる。

「もう大丈夫そうだね。それじゃ、僕はこれで」

青年はまるで「散歩のついでに挨拶した」とでも言うような軽さで、さっさと踵を返して去っていった。

「え……? あ、待って……!」

残されたエルザは、ぽつんと崖の上に立ち尽くした。

冷たい風が頬を打つ。そこでようやく、エルザは自分が「騙された」のだと気づいた。

「死ぬことすら……自分の意志で死ぬことすら、できないなんて……!」

エルザは地面に崩れ落ち、声をあげて慟哭した。絶望の底で、彼女の心に黒い感情が芽生える。気まぐれに命を救ったあの美しい青年――その存在すら、今のエルザには酷く恨めしかった。


それからのエルザの日常は、生きながらにして死んでいるようなものだった。

死ぬ機会を完全に逃した彼女は、すっかりうつ状態になり、すさんだ生活を送っていた。髪は梳かさず、顔色も青白いまま。部屋に引きこもり、ただ泥のように眠る日々。

そんなある日、突如としてヴァレンタイン邸に激震が走った。

「エルザ! 大変なことが起きたわ!」

母親が血相を変えて部屋に飛び込んできた。

聞けば、あのルーク・ルミナスが、国家転覆に関わる大規模な不正汚職の罪で一発失脚したというのだ。財産はすべて没収、爵位は剥奪。ルークとその家族は、一介の平民へと落とされたらしい。

(あの大金持ちで、王族とも繋がりの深かったルミナス家が……? そんな突然、なぜ……)

驚きはしたものの、今のエルザの心は乾ききっていた。自業自得だとは思うが、それで自分の傷が癒えるわけでもない。

しかし、運命の歯車はさらに加速する。

ルークの失脚とほぼ同時に、エルザの元へ信じられないような結婚の申し込みが舞い込んだのだ。

「お相手は、我が家など足元にも及ばない、身分違いの素晴らしいお方! エルザ、お前にもようやく春が来たんだ!」

父親は興奮気味に捲し立てるが、エルザは冷ややかに目を伏せた。

「お断りしてください。もう、男の人に裏切られて辛い思いをするのは凝りごりです」

「何を言うんだ! これほどのお話を断れば、我が家は王都で生きていけなくなる! 会うだけでいい、顔合わせだけはしてくれ!」

両親の必死の説得と涙に圧され、エルザは渋々、一度だけ顔合わせをすることに同意してしまった。どうせ、何らかの裏がある結婚に違いない。エルザは相手の素性を調べる気すら起きず、聞く耳を持たずに当日を迎えた。


顔合わせの当日の朝、エルザは最悪の気分で目覚めた。

重い体を引きずり、鏡の前に座る。今からあの忌々しい社交の場に出向かなければならないと思うと、吐き気がした。

「はぁ……。このまま消えてしまいたい……」

溜息をついた、その瞬間。

*――カチャリ。*

鍵を閉めていたはずの窓が静かに開き、ひらりと影が室内に滑り込んできた。

エルザが驚いて振り返ると、そこには――あの夜、崖の上で出会った漆黒の髪のイケメンが立っていた。

「……え?」

エルザは目を丸くした。なぜ、彼がここにいるのか。ここは伯爵邸の、それも三階にある私の部屋だ。

(ああ、そうか。私はついに頭がおかしくなって、幻覚を見るようになったのね……)

あまりの現実味のなさに、エルザは自嘲気味に呟いた。

「死に損なった私を嘲笑いにきたのかしら、幻覚さん」

すると、青年は眉をひそめ、すたすたとエルザに近づいてきた。そして、彼女の両手をきゅっと握りしめた。

「幻覚じゃない。ほら、温かいだろう?」

掌から伝わる、確かな体温と強い力。エルザはハッと息を呑んだ。

「な、何のために来たのよ!? ここは私の部屋よ!」

「何のためにって……君が今日、結婚の申し込み相手と会うって聞いたからね。気になって」

青年は悪びれもせず、アメジストの瞳を細める。エルザは不機嫌そうに顔を背けた。

「そうよ。会うけれど、私はすぐに断るつもりだわ。どうせ、大金で私を買い叩こうとする、お腹の出た醜いおじさんに違いないもの。加齢臭だってするかもしれないわ。……あーあ、このままどこか遠くへ逃げちゃおうかしら」

エルザが半ば自暴自棄にそう溢した瞬間、それまで余裕を崩さなかった青年の顔が、劇的に強張った。

「えっ……!? お、おじ……っ!? 逃げる……!?」

青年は見たこともないほど狼狽し、エルザの肩をがっしりと掴んだ。その美しい顔が、今にも泣き出しそうなほど歪んでいる。

「頼むから、それだけはやめてくれ! 断るのも、逃げるのも絶対に駄目だ! お願いだから、大人しく顔合わせの席に来てくれ……っ!」

「な、何でお客様のあなたがそんなに必死なのよ……?」

エルザが困惑していると、廊下からバタバタと足音が響いてきた。

「エルザ! 準備はできたの? お迎えの馬車が……」

母親の声だ。ノックの音にはっとした青年は、チッと小さく舌打ちをすると、エルザの手をパッと離した。

「とにかく、絶対に逃げるなよ!」

それだけ言い残すと、青年は驚くべき身軽さで開いた窓から飛び降り、風のように去っていった。エルザは呆然と、開いたままの窓を見つめるしかなかった。


案内されたヴァレンタイン邸の豪奢な応接室で、エルザはうつむいていた。

どんな醜悪な男が座っているのかと身構えていたが、まだ相手は到着していない。

やがて、重厚な扉が開いた。

「お待たせして申し訳ありません、ヴァレンタイン伯爵」

響いたのは、鈴の鳴るような、しかしどこか聞き覚えのある低く心地よい声。

エルザが弾かれたように顔を上げると、そこに立っていたのは――仕立てのいい最高級の礼服に身を包んだ、あの「崖の上のイケメン」だった。

「な――」

エルザの喉から、声にならない悲鳴が漏れる。

「初めまして、エルザ嬢。私はクリストフ・フォン・アスラニア。――この国の、第二王子です」

彼が名乗ったその高貴すぎる名に、エルザの両親は椅子から転げ落ちんばかりに恐縮し、平伏した。

エルザは目を見開いたまま、完全に硬直していた。

第二王子。現国王の最高傑作と称されながらも、冷徹で退屈を嫌い、表舞台に滅多に姿を現さないという、あのアスラニア殿下。

(どうして……彼が!?)

混乱するエルザの脳裏に、すべてのピースがカチリとはまっていく。

ルークの、あまりにも唐突で完璧な失脚。国家権力でも使わなければ、あんな大貴族を数日で潰せるわけがない。

(まさか、ルークを陥れたのは……)

驚愕と混乱で顔を真っ白にさせ、口をあんぐりと開けているエルザ。

そんな彼女の様子を見たクリストフ殿下は、実に見事に、さも満足そうに、極上の笑みを浮かべた。

「あの夜、言っただろう? 『こんな世界は味気ない』と。だが、君を見つけてから、僕の世界はちっとも退屈しなくなったんだ」

彼はエルザの前に跪き、その手をとって優しく口づけを落とす。

「君を深く傷つけた不届き者は、僕の手ですべて排除しておいたよ。さあ、僕の可愛い婚約者殿。今度は逃げずに、僕の隣で生きてくれるね?」

そのアメジストの瞳にあるのは、崖の上の時と同じ、引き返す気のない絶対的な独占欲。

エルザは自分が、死に物狂いの超大物肉食獣に目をつけられていたことを、その時ようやく理解したのだった。

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