エピローグ的外伝:無名の誰かの視点 「名乗れなくなった人たち」
私は、もう自分をファンだとは呼ばない。
呼べなくなった、の方が正しい。
好きだった。
確かに、好きだった。
でも、「好き」という言葉が、いつの間にか役割を要求するようになった。
応援するのか。
守るのか。
批判するのか。
沈黙するのか。
どれかを選ばないと、
中途半端な人間になる。
中途半端は、この界隈では居心地が悪い。
だから、多くの人が名乗るのをやめた。
私の周りにも、そういう人が増えた。
昔は一緒に配信を見ていた同僚。
イベントの感想を語り合っていた知人。
SNSでよく名前を見かけたアカウント。
今は、誰もその話題を出さない。
嫌いになったわけじゃない。
忘れたわけでもない。
ただ、名乗れなくなった。
ファンと名乗ると、
「じゃあ、どう思う?」と聞かれる。
どう思うか、という問いは、
立場を要求する。
私は、立場を持ちたくなかった。
立場を持つと、誰かの痛みを整理しなければならなくなる。
整理は、優しい顔をして、
とても残酷だ。
ある時、昔のファンアートを見返した。
線が甘くて、色も雑で、
今見ると、少し恥ずかしい。
でも、そこに描かれている彼女は、
完成していなかった。
迷っていて、
不安そうで、
それでも笑おうとしている。
私は、その未完成さが好きだった。
今、同じ絵を描けと言われても、描けない。
完成形を知ってしまったからだ。
完成形を知ると、逆算してしまう。
「あの時の言葉は伏線だった」
「あの沈黙には意味があった」
意味を与えることは、
理解のふりをした回収だ。
私は、回収したくなかった。
事件は、いつの間にか
「コンテンツ史」の一部として語られ始めた。
「あの時代の転換点」
「業界が変わるきっかけ」
「リスク管理の教訓」
そういう言葉で、
彼女の不在が整理される。
整理されると、
もう痛みは不要になる。
私は、その語られ方に、
言葉にならない違和感を覚えた。
誰かが言った。
「この事件から、学ぶべきことは多い」
学ぶ、という言葉は正しい。
でも、学びの材料にされた瞬間、
彼女はまた完成品になる。
私は、学びたくなかった。
少なくとも、すぐには。
理解するより先に、
分からないままでいたかった。
分からない、という状態は、
とても不安定だ。
でも、不安定だからこそ、
誰のものにもならない。
私は、語ることを恐れるようになった。
語ると、文脈が生まれる。
文脈が生まれると、
「正しい読み方」ができる。
正しい読み方ができると、
それ以外は間違いになる。
私は、間違いを量産したくなかった。
それでも、私は、今、こうして書いている。
矛盾しているのは分かっている。
なぜ書くのか。
その理由を、何度も考えた。
正義のためじゃない。
告発のためでもない。
記録として残すため、でも少し違う。
一番近いのは、
沈黙を独占しないためだ。
沈黙は、強い。
独占されると、
それは支配になる。
私は、沈黙を支配したくない。
でも、完全に消してしまうのも違う。
だから、名もない場所で、
名もない人間として、
断定しない言葉を書く。
誰かを説得しない。
誰かを裁かない。
結論も出さない。
ただ、
「こう感じた人間がいた」
という事実だけを置く。
それは、とても弱い行為だ。
でも、弱い行為だからこそ、
消費されにくい。
私は、ファンではない。
でも、無関係でもない。
境界に座って、
まだ揺れている。
揺れ続けることを、
やめないと決めた。
完成させないために。




