エピローグ的外伝:無名の誰かの視点「画面の外の席」
私は、彼女たちを知らない。
正確には、会ったことがない。
それなのに、ある時期まで、私は彼女たちの声で一日を区切っていた。
仕事が終わって、コンビニで缶コーヒーを買って、帰って、部屋の電気をつける。その手順の途中に、当たり前みたいに配信が入っていた。
当たり前のように。
ファンだと言うほど熱心じゃない。
グッズも、イベントも、ほとんど追っていない。
ただ、コメント欄に時々「こん」と打つくらいの人間だ。
忙しい日は、アーカイブすら見ない。
だから私は、いわゆる“上澄みの外側”にいる。薄いファン。あるいは、視聴者。
それでも、薄い関係のはずなのに、薄い関係のまま終わらなかった。
あの件が起きたからだ。
最初の違和感は、言葉だった。
発表文の言葉が、整いすぎていた。
「療養」「回復を優先」「見守ってください」
この業界の辞書に載っている文章。
誰も傷つかないように丸められた文章。
でも、丸められたものは、いつも何かをこぼす。
こぼれたものは、拾う人だけが拾う。
私は、そのとき拾った。
拾ってしまった。
「……あれ?」
たぶん、声には出していない。
心の中で、足が止まっただけだ。
それから、同じ違和感を持つ人が、少しずつ見え始めた。
コメント欄ではなく、もっと奥のほう。
タイムラインの端っこ。
言葉のトーン。
“燃やそうとしていないのに、納得できていない”人たち。
不思議なことに、怒りは目立たなかった。
代わりに、計算が増えた。
時系列。
言い回し。
使われていない言葉。
配信の間。
画面の明るさ。
涙のタイミング。
私は、そういうものに詳しいタイプじゃない。
けれど、一覧で並べられると、誰でも分かる。
分かってしまう。
「……これ、説明じゃなくて、演出じゃない?」
その一文を見たとき、私は画面を閉じた。
閉じたのに、何度も開いた。
開いては閉じて、閉じては開いた。
それは、多分、心が自分の居場所を探している動きだった。
私は、彼女のことが好きだった。
でも、好きの中身は軽かった。
生活の隙間に収まる程度の好き。
消えても生きていける好き。
なのに、消え方が、軽さを許してくれなかった。
妹が前に出た日、私は見た。
見たくなかったのに、見た。
配信のタイトルは、あまりにも“正しい”言葉でできていた。
前向き。感謝。これから。
その言葉の中に、終わったものが入る余地はない。
妹は丁寧に話した。
声も落ち着いていた。
言葉も選ばれていた。
「私が選びました」
その一文が出たとき、コメント欄が一斉に綺麗になった。
「偉い」
「ありがとう」
「応援する」
綺麗な言葉は、人を黙らせる。
黙らせる、というのは、誰かを悪者にすることじゃない。
疑問を持つことが、場違いになるということだ。
私は、その瞬間に思った。
ここは、完成していく場所だ。
完成していく場所にいると、人は安心する。
安心するから、疑問が罪になる。
疑問は空気を壊す。
壊す人は、嫌われる。
私は嫌われたくなかった。
だから黙った。
それでも黙りきれなかったのは、同じ時間に“別のもの”が出たからだ。
海外の掲示板の翻訳。
断定のない箇条書き。
音声の断片。
それは、炎上の火種にしては地味だった。
けれど、地味だからこそ怖かった。
地味なものは、正義にも娯楽にもならない。
だから、長く残る。
私は、その断片を読んだ。
音声を聞いた。
そこにあったのは、犯人の名前じゃない。
復讐の言葉でもない。
ただ、拒否だった。
「完成したくない」
「語られたくない」
そういう言葉が、静かに置かれていた。
そのとき初めて、私は気づいた。
私たちは、いつも“残すこと”を良いことだと思っている。
残るのが正義。
忘れられないのが愛。
でも、残ることは、時に暴力になる。
残す側が、自分の都合で形を整えるなら。
彼女は、それを拒否していた。
そしてその拒否が、誰かによって拾われて、外へ置き直された。
私は、怖くなった。
怖いのは犯人じゃない。
構造だ。
人がいなくなっても、物語が続く。
人がいなくなったことが、物語の燃料になる。
燃料になった瞬間、その人は完成品になる。
完成品になった人は、二度と未完成に戻れない。
私は、薄いファンだ。
だからこそ、薄くしか関われない。
深く関わる人たちの痛みを、私は持てない。
でも、薄く関わっている人間でも、構造に巻き込まれる。
それが、あの件の後日談の最初だった。
その後、界隈は二つに割れた。
と言っても、戦争みたいな派手な割れ方じゃない。
もっと生活に似た割れ方だ。
片方は、前を向く人たち。
もう片方は、前を向くふりをする人たち。
私は、後者だった。
前を向く人たちは、妹を応援する。
応援は正しい。
応援は優しい。
応援は、誰も否定しない。
前を向くふりをする人たちは、言葉を減らす。
減らして、ログアウトする。
配信を見なくなる。
でも、嫌いになったわけじゃない。
ただ、見続けると、自分の中の疑問が腐るからだ。
腐った疑問は、やがて誰かへの攻撃になる。
私は攻撃したくなかった。
だから、距離を取った。
距離を取ったのに、時々戻ってしまう。
懐かしいから。
生活の音が変わるから。
あの声があった時代が、確かに自分の人生の一部だから。
私は、矛盾したまま生きている。
それは、多分、多くのファンがそうだ。
この業界は、矛盾を飲み込むのが上手い。
「複雑だけど応援する」
「色々あるけど見守る」
そう言って、前へ進める。
けれど、矛盾が消えたわけじゃない。
矛盾は、見えない場所に移動しただけだ。
ある日、妹が活動を降りたというニュースを見た。
その瞬間、私は変な呼吸をした。
笑っても泣いてもいないのに、息だけが乱れた。
やっと終わった、と思った。
終わってしまった、とも思った。
この二つは、同時に起きる。
矛盾は、ここでも消えない。
私は、その日、久しぶりに姉の古いアーカイブを見た。
そこにいたのは、完成していない人だった。
噛む。笑う。迷う。少し黙る。
その全部が、愛おしかった。
私は思った。
この未完成のままの人を、完成させないでくれ。
せめて、私の中では。
そして気づく。
それは、彼女が言っていた拒否と、同じ形をしている。
私は、やっと遅れて、彼女の側に立った。
ファンとしてではない。
視聴者としてでもない。
ただの人として。
“残すことが、必ずしも善じゃない”と理解する側に。
その理解は遅い。
でも、遅くても意味がある。
意味があるのに、派手じゃないから、消費されない。
だから、残る。




