第三十七話 降りる
決断は、
劇的な瞬間に訪れたわけじゃない。
朝、
目が覚めて、
カーテンを開けて、
光を見た。
それだけだった。
スマートフォンを手に取る。
通知は、少ない。
《今後について、ご相談したい》
事務所からの、短い連絡。
もう、
急かす言葉はなかった。
事務所に向かうと、
空気が変わっているのが分かった。
誰も、
私を“象徴”として見ていない。
普通の、
一人の人間として、
距離を取っている。
会議室には、
新しい運営責任者と、
法務、
マネージャーがいた。
社長はいない。
それだけで、
時代が変わったことを、
実感する。
「今後の活動についてですが」
運営責任者は、
慎重な言葉を選んでいる。
「再開する場合」
「新しい形を取る場合」
「一度、区切る場合」
選択肢が、
初めて、
並べられている。
私は、
少し考えてから、
言った。
「……降ります」
一瞬、
空気が止まった。
「引き継いだ役割から」
「降りたいです」
誰も、
驚いた顔はしなかった。
それが、
逆に、
胸に来た。
「私は」
「姉の代わりにはなれない」
「なろうとしていた時間が」
「必要だったことは、否定しません」
「でも」
「これ以上、
誰かの“続き”として
生きたくない」
マネージャーが、
小さく頷いた。
「……そうですよね」
引き止める言葉は、
出なかった。
それが、
一番の救いだった。
「活動終了の発表は」
運営責任者が聞く。
私は、首を振った。
「終了じゃなくて」
「休止にしてください」
休止。
戻るかどうかは、
決めない。
「理由も」
「“自分の時間を取り戻すため”で」
誰も、
反対しなかった。
事務所を出る時、
私は、
もう振り返らなかった。
役割は、
そこに置いてきた。
夜、
公式アカウントに、
短い文章が載る。
——しばらくの間、活動を休止します。
——自分自身の時間と向き合うためです。
コメント欄は、
静かだった。
《お疲れさま》
《戻ってきてもいいし、戻らなくてもいい》
《あなたの選択だよ》
初めて、
誰も、
物語を求めていない。
それが、
とても、
ありがたかった。
部屋に戻り、
私は、
ノートを開いた。
最後のページ。
そこに、
一行だけ、書く。
——私は、引き継がない。私は、私を生きる。
ノートを閉じる。
もう、
記録する必要はない。
姉の声は、
外に残った。
私の声は、
これから、
内側に戻る。
窓の外で、
夜が、静かに流れている。
物語は、
終わった。
でも、
人生は、
ここからだった。




