第十二話 逸脱
配信開始まで、あと三十秒。
イヤーモニター越しに、スタッフの声が聞こえる。
いつも通り。
何も変わらない。
台本は、画面の横に表示されていた。
もう、指が勝手にページを送れるほど見慣れている。
カウントがゼロになる。
「こんばんは」
声は、震えなかった。
それが、少し怖かった。
コメント欄が、一気に流れる。
《待ってた》
《今日もかわいい》
《元気そうでよかった》
雑談を進める。
用意された話題。
用意された笑顔。
台本は、後半に差しかかっていた。
問題の一文が、そこにある。
【すべては、自分で選んだことです】
読むつもりは、なかった。
呼吸を整え、
私は、画面を見つめた。
「……ひとつだけ、言っていい?」
コメントが一瞬、止まったように見えた。
「全部を話せているわけじゃない」
「でも——」
その瞬間、イヤーモニターに、強いノイズが走った。
「音、少し乱れてます」
スタッフの声。
被せるように、別の声。
「次、行きましょう」
社長だった。
私は、続きを言おうとした。
でも、マイクの感度が落ちた。
声が、わずかに遅れて返ってくる。
「……大丈夫?」
コメント欄に、疑問が浮かぶ。
《今、何か言いかけた?》
《音、変じゃない?》
私は、台本に視線を落とした。
——読むか。
——読むな。
一秒。
二秒。
「すべては——」
言いかけて、止めた。
「……簡単な話じゃないです」
それだけ言った。
次の瞬間、
配信画面が一瞬、暗転した。
《通信トラブルのため、少々お待ちください》
画面に表示される、無機質な文字。
私は、ヘッドセットを外した。
心臓の音が、うるさい。
ドアが、すぐに開いた。
マネージャーと、技術スタッフ。
そして、社長。
誰も怒鳴らない。
誰も責めない。
それが、逆に怖かった。
「今のは、予定外です」
社長は、静かに言った。
「ほんの一言です」
「問題になるようなことは——」
「問題になります」
即答だった。
「“揺らぎ”は、広がる」
「あなたは、それを知っているはずです」
私は、言葉を失った。
「今日は、ここまでにしましょう」
「体調不良ということで」
決定事項。
議論は、なかった。
控室に戻され、
スマートフォンを返された。
既に、公式アカウントが動いている。
——配信トラブルにより、途中終了しました。
——ご心配をおかけして申し訳ありません。
コメント欄には、心配と擁護の声。
《無理しないで》
《休んでいいんだよ》
“優しい言葉”が、
一番、強力な蓋になる。
数分後、
社長から個別メッセージが届いた。
《勇気があるのは、悪いことじゃない》
《でも、場所を間違えると人は壊れます》
壊れる。
誰が?
私は、返事をしなかった。
帰宅すると、
部屋の空気が、少し違っていた。
机の位置。
引き出しの向き。
微妙に、変わっている。
USBメモリを確認する。
バッグの中には、なかった。
心臓が、冷たくなる。
引き出しを開ける。
鍵は、壊されていない。
——でも、USBだけが、消えていた。
スマートフォンが鳴る。
非通知。
出ると、
低い声が言った。
「無くなったものは」
「最初から、無かったと思った方がいい」
通話は、それだけで切れた。
私は、床に座り込んだ。
たった一行。
読まなかっただけで、
これだ。
それでも。
画面の向こうで、
一瞬だけ、
コメント欄がざわついたのを、
私は見逃さなかった。
小さな揺らぎ。
でも、確かにあった。
——まだ、終わっていない。
配信は、止められた。
証拠は、消された。
でも、
疑問は、消えない。
私は、立ち上がった。
USBがなくても。
証拠がなくても。
覚えている。
姉の声を。
あの、止められた言葉を。
次は、
もっと静かに、
もっと確実に。
そう決めた瞬間、
スマートフォンに、新しい通知が届いた。
《例の音声》
《バックアップ、ある》
送り主は、
知らないアカウントだった。
画面を見つめながら、
私は初めて、
小さく息を吸った。
——まだ、道は残っている。




