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読んでいただいてありがとうございます。
その酒場にアリアが入ったのは、本当に偶然だった。
街のメインストリートである大通り沿いから一つ中に入った道にあり、建物は少し古いが中は地元の人間と旅人で賑わっていた。
目立たないように隅の方に座ったが、何人かはアリアの方を見たので、意味深にふっと笑うとすぐに顔を赤らめてそっぽを向いた。
こういう時に微笑むと、相手が勝手に色々と想像と誤解をして触れてはいけない存在のようになるのでだいたい放置されるので助かる。
実際には特に意味などないのだが。
適当に食事を頼むと案外美味しかったので次回は部下も連れてこようかな、とのんきに考えていた時に、その人は酒場に入ってきた。
無造作に結ばれたグレーっぽい髪の、おそらく男性は店主と話をすると、すぐに所定の場所に座って楽器の演奏を始めた。
それで旅の吟遊詩人だと気が付いた。
男は陽気に酒場の客たちに声をかけると、酒場の雰囲気にあった曲を弾き始めた。
楽しそうに演奏する男の笑顔を見て、アリアの心臓が音を立てた。
男の無邪気な笑顔が、アリアの本能を刺激する。
『……あぁ、この男は私のものだ……』
アリアは生まれて初めてそんな想いに駆られた。
客に「姉ちゃん」と呼ばれてもへらっと笑いながら、次々に曲を弾いていく。
客のリクエストで先代の辺境伯とその妻、アリアからすると実の祖父と祖母の物語の曲を弾かれた時は、少々照れくさかった。
けれど今なら、何度も聞かされた祖母の気持ちが理解出来る。
きっと初めて祖父に会った時、祖母も同じような気持ちになったのだ。
自分のものである男の傍にいて何が悪いと言うのか。
アリアは吟遊詩人をずっと見ていた。
これが一目惚れというやつなのかもしれない。
客の男が彼に触れるたびに、その手を放せと言いたくなる衝動をこらえた。
このわずかな間で、アリアの忍耐値は急激に上昇したと思う。
アリアは祖母の言葉を思い出した。
『いいですか、アリア。会えば一目で分かります。この方だと思ったら、必ず自分のものにしなさい。ですが、焦ってはいけませんよ。焦って逃がすような事態は避けねばなりません。まずは自分の周りの厄介事を片付けて身辺を綺麗にすることです。こちらに隙があると、何だかんだと言い訳をして逃げようとしますからね。相手が何も言えない状態にしてから、確保なさい。とはいえ、そう難しく考えることはありません。最終的に押し倒してしまえばこちらのものです』
幼いアリアに祖母がそう教えているのを、祖父が苦笑して見ていた。
祖父は、身に覚えがありすぎたのだろう。
アリアは祖母の教えを思い出して、すぐに帰って身辺整理をすると決めた。
アリアがそんなことを考えているとは思ってもいないだろう男は、演奏を終えて奢られた酒を飲んでから機嫌よさそうに帰って行った。
その時、後ろを付けていく男がいたので、アリアはすぐに追いかけた。
人通りがなくなった場所で男が彼の手を無理矢理引っ張って、男でもかまわないから自分の相手をしろと言ったのを聞いて、アリアは容赦なく剣でストーカーの首に一筋の傷を付けた。
ストーカーが逃げる時に体勢を崩した彼を抱き留めると、ほっとした様子が伝わってきた。
「……大丈夫か?怪我はないか?」
声をかけると、彼は小さく頷いた。
「まったく、お前には危機感というものがないのか?先ほどのようにいくら服の上からとはいえ、酒場であのように胸を触らせたら、男でもかまわないという人間はいくらでも出てくるぞ?」
「えーっと、すみません。俺、いい年したおっさんなのでそんな誘いはないと思ってました」
もっと若い美男子とかなら分かるんだけどなー。
小さな声でそう言っていたが、お前は自覚がないのか、と言いたくなった。
ここまで無防備だといつか本当に襲われてしまう。
その前に、アリアが保護しなければ。
けれど、それは今ではない。今は、まだ出来ない。
「……酒場での演奏は見事だった。それにとても楽しそうに弾いていたから、見ているだけだった私もお前に惹かれたぞ?お前相手なら一夜の夢も悪くない。そう思った人間が少なくともここに一人はいたんだ。他にいないとも限らない」
力を込めて抱きしめると、戸惑った感じがした。
……出会ったばかりだし、アリアには色々と面倒くさい立場があるので、今すぐにこの男を自分のものにするわけにはいかない。
けれど、アリアの心はこの男を欲している。
それこそ、一夜の夢でもいいから
「えっと、俺……」
彼が顔を上げてアリアの方を見ようとしたので、アリアはとっさに彼の目を手で覆った。
今は、見られたくない。
きっと自分は、欲望にまみれた顔をしているから。
嫌われたくない。
もう少し冷静になってから、ちゃんと向き合いたい。
それに、それまでに片付けなくてはいけないことも出来た。
「うぇ?」
「今はだめだ。けれど、お前がこのまま辺境まで来るというのならば、私は必ずお前を見つけ出す。その時は……」
逃がしてあげられない。
心ゆくまで、この身体を愛でてしまうかもしれない。
「……うん、いいよ……あなたがどこの誰でも、俺は……」
「約束だ」
何も見えていない彼の唇に軽く触れるだけのキスを贈ると、アリアは素早く身を隠した。
「……あれ?」
きょろきょろと周りを見渡してから、彼は首を傾げた。
「……夢……?」
そう呟く声に、夢ならば良かったのかもしれないな、と思いながら帰って行く彼を見守り続けた。
彼が泊まっている宿は、アリアが泊まっている宿のすぐ近くだった。
無事に帰ってきたアリアに部下がほっとしたような顔をした。
「明日には帰る。やることが出来た」
ますは縁談を断り、それから一族の後継者探しをする。
その間に彼に変な虫が付かないように、密かに護衛を付けた方がいいだろうか?
いや、下手に動かない方がいい。
まだ、彼のことは誰にも知られたくない。
あれは私のものだ。
出会ってしまった以上、すぐにまたどこかで会うことになるだろう。
どうせ次に会った時には何だかんだ理由を付けて囲うのだ。
今は自由にさせておこう。
そんなことを考えながら、アリアは彼に触れた唇にそっと手を触れた。
「……待っていて……」
この時、アリアはエデルがクロを連れて辺境伯に会いに行く途中だったことを当然、知らなかった。
城で再会した時、緊張で固まっているエデルにアリアは優雅に微笑んだ。
ほら、すぐに私の元にやってきた。
それも自分から。
おまけにアリアが必要としていた一族の後継者候補の子供も連れて。
やはりこの男は自分のものだと、アリアは確信した。
後にその時に出会っていたのだと聞かされたエデルは、夢だと思っていたことが現実だったと知って驚いていた。
「じゃあ、あの時、アリアさんは俺のことを知ってたの?」
「いや?エデルがクロノスを連れて城に向かっていたのは知らなかった。たまたま偶然、酒場でお前に惹かれて、お前の後をあの男が追って出て行ったから後を付けただけだ」
「……その節はお世話になりました」
「うむ。だがよく考えたら、あの男は服の上からとはいえ、お前の胸に触れたのだな。今からでも探して罰を与えるか?」
「止めてください。あれは俺も悪かったので」
ソファーに座ってくすくす笑うアリアに、エデルはがっくりとした。
アリアはエデルを強引に手に入れたはいいが、一時は迷いに迷って、逃がしてあげてもいいのかも、と本当に思っていた。
今となっては気の迷いだと断言出来るが、その時は、エデルを自分に縛り付けても本当にいいのかどうか悩んでいたのだ。
捕まえてすぐに夫にした。
エデルの心を慮る余裕なんてなくて、とにかく確実に傍に置いておきたくて、有無を言わせず夫にした。
結婚式でエデルのウエディングドレス姿を見た時、この美しい男が自分の夫だと誰かに自慢したい気持ちと誰にも見せずに隠したい気持ちがせめぎ合った。
そして同時に、全てアリアの望むようにしてくれるエデルの本心はどこにあるのだろうと疑問に思った。
流されるまま嫌々アリアの夫になったのではないのか?
ドレス姿も本心では嫌がっているのではないか?
何より、アリアのことをどう思っているのか?
口では何と言っていても、夜、部屋で一人になるとそんなことを考えていた。
だから、アリアの心がどうなろうと、エデルがアリア以外の人を本当に心の底から愛することがあったら、彼を解放しようと思っていた。
結局、エデルがアリアに告白したことでその迷いも吹っ切れ、二度と手放してやらないと決めたのだが。
「約束は守ってもらうぞ?」
「……はい。俺も言いました。あなたがどこの誰でも、って」
「一夜の夢、か。ふふ、一夜で済まなかったな」
「一夜の夢を毎日体験出来る俺は、幸せ者ですね」
「これから先の夜も私のものだ」
「はい。俺の全てはあの時からアリアさんのものですよ」
逃がすとか逃がさないとか、もうそんな次元じゃなくて、アリアがいなければエデルは生きていけない。
約束通り見つけ出された、というか自分からねぎまで背負ってアリアに飛び込んだエデルは、気が付けばこんなにもアリアに依存していた。
それが良いことか悪いことか分からないけれど、エデルはもうアリアの傍から離れたくない。
アリアもエデルを逃がす気はない。
「……おいで、エデル」
アリアがそう言って手を差し伸べると、エデルはアリアに導かれるまま彼女に近付いた。
「……見つけてくれて、ありがとうございます」
アリアが傍にいてくれる今、エデルはもう昔の悲しい夢は見ない。
あの時みたいに、一緒に連れて逝ってほしい、何て思わない。
だって、今のエデルはアリアと一緒に生きていきたいのだから。
「今回はお前が私の元に飛び込んできたのだが、何度だって見つけるさ。私からお前を連れ去る者は許さない。たとえお前自身の意志で私から離れようとしても許さない。その時は城に閉じ込めるからな」
「えぇ。いくらでも閉じ込めてください」
エデルは最愛の妻に、しっかりと口づけをしたのだった。
~おまけ~
家族団らん用の部屋に入ったクロノスは、すぐに忠実な侍女のベラによって目を手で覆われた。
「ベラ?」
「坊ちゃまには、まだ早いです」
小さな声でそう言われて、ぞのままずるずると部屋の外に出された。
ベラがなるべく音を立てないように扉を閉めると、ようやく手が外された。
「お母様とお父さんが何かしてたの?」
「はい。仲良くなさっていました」
「あー、うん。そっかぁ」
出来れば自分たちの部屋で仲良くしてほしいが、あの二人は少々場所を考慮してくれないところがある。
「でも仲良くしてるってことは、僕の妹が生まれるのも近いのかなー」
「妹君ですか?弟君ではなくて?」
クロノスの言葉にベラがそう聞き返すと、クロノスは少しだけ考え込んだ。
「……うん、妹、かな。何故かそう思うんだよね。お父さんによく似たその子は、きっと僕の大切な子になるんだ。だから、早く会いたいんだよね」
「妹君……そうですか、坊ちゃまの大切な妹君、ですか……」
辺境伯は、先代夫婦も当代夫婦も熱烈な恋愛をしている。
ベラはなぜクロノスがそう思うのかという疑問は捨てた。
次代の辺境伯がそう言うのなら、きっとそうなのだ。
「それにエデル様によく似てるんですねー」
それって間違いなく絶世の美女ですよね。
辺境のお姫様を巡る恋の争いとか起こりそうですよね。
勝者はきっとお兄様になるのでしょうけど、それまで絶対に色々と巻き込まれますよね。
「僕、妹を大切に育てるよ」
育てるのも坊ちゃまですか、そうですか。
お父様に似てのほほんとした姫様が生まれてきそうな気がします。
「それで、お母様みたいに逃がさないんだ」
申し訳ございません、まだ会ったこともないお嬢様。
わたくし共では、坊ちゃまを止められる気がしないので、最終奥義のお父様に泣きつくを実行してください。
そうすれば、お母様が、妹を泣かしたな?全てはこの母を倒してからだ、とか言って坊ちゃまの前に立ちはだかってくれると思います。その間に……覚悟を決めてください。
クロノス様はやっぱりあの方々の息子なんですねー、とベラはそっと思ったのだった。
一目惚れ……?お祖母様の教えが……。実はアリアさん、ちょっとだけ葛藤してました。