③
読んでいただいてありがとうございます。
「さてと、ちょっとお金を稼いでくるね」
クロを置いて出て行った彼の母親は、出て行く際に家にあったお金を全て持って行ってしまった。
エデルは今までずっと旅をしながらお金を稼いできたので、特に困ることはない。
いつも通り知り合いのところで演奏したり、街の酒場で演奏したりしてお金を稼いでいた。
「きをつけてね」
「うん。遅くなるから、先に寝てていいからね」
宿にクロを置いて、エデルは街へと繰り出した。
ここまで一緒に来た旅の一座に知り合いの店主がやっているという酒場を紹介してもらったので、そこで演奏をしてお金を稼ぐつもりだった。
辺境伯の城まではもう少し日数がかかるし、お金はあっても困らない。
ありすぎると狙われるのでそこは加減が必要だが、ごく普通の吟遊詩人が稼ぐくらいのお金なら盗賊もわざわざ狙ったりしない。
「こんばんは。よろしくお願いします」
小綺麗な姿で酒場に顔を出すと、店主が軽く手を挙げた。
昼間の内に挨拶を済ませてあったので、顔は知られている。
性別はきっちり確認されたが、一緒にいた従業員が平ぺったい胸を見て泣いていた。
気持ちは分かる。
エデルだって、綺麗なお姉さんの胸に埋もれたい。
でもそれを俺に求めないでね。
「おいおい、姉ちゃん。こんな酒場に何の用だい?」
「俺、吟遊詩人なんすよ。リクエスト、受付けます。だいたいの曲なら弾けますよー」
いつも通り酒に酔った客に「姉ちゃん」呼ばわりされたので、その客の手を平ぺったい胸に軽く触らせて男であることを確認させてから、楽器を構えた。
「……ぺったん……」
「男なんで」
「何てこった……」
最初は毎回、こうして落ち込む客が出るが、演奏している内に彼らも陽気になって一緒に騒ぐ仲になるので、落ち込むのは一瞬だけだ。
「英雄の曲からちょっと悲しい曲まで、何でも弾けます。そうですね、まずは挨拶代りにこちらの曲を」
それはとある芝居の最初を飾る曲。
庶民にも人気のドタバタ劇の曲なので、気分が上がる曲だ。
「おーおー、いいーぞーねーちゃん。もっと弾けー」
姉ちゃん呼ばわりを止めてもらえないのもいつも通りだ。
酔っ払いたちは、男だと分かった後でもエデルを姉ちゃんと呼ぶ。
酒場にしみったれた曲は似合わないので、明るくて楽しい曲を何曲か連続で弾いた。
「我らが辺境伯様の曲は弾けるか?」
「そうだ。俺たちの英雄!」
「弾けますよ」
先代の辺境伯のために創られた曲をエデルは弾いた。
先代とその奥方が出会った時の曲。
二人の出会いを物語にした劇の中でも人気のある曲だ。
「その黒き髪はどこまでも深く、その青紫の瞳は夜明けを告げる。黄金の美姫は夜の神に恋をした……」
エデルはそんなフレーズから始まる二人の恋物語の曲を弾いた。
これが事実かどうかなんて、一般人の自分たちには分からないけれど、辺境の人間はこの劇で先代の恋物語を知るのだ。
エデルはその後もこの劇で使われている曲をいくつか弾いた。
「ふー、さすがに疲れたので今日はここまで。皆さん、この後はそれぞれの恋人と熱い夜をお過ごしください」
「いやー、ねーちゃんの曲、最高!」
「恋人……!俺には縁のない言葉だなー」
「お前はそうでも、俺にはある」
「むかつく!」
エデルが終わりを告げると、気を良くした客がエデルに酒を奢ってくれた。そういう時はありがたくいただいて、エデルもほろ酔いな感じで酒場を後にした。
「明日には辺境かー。楽しみ」
にへらと笑って歩いていたエデルの腕が急に引かれた。
「おわ!!」
「おい、姉ちゃん。男でもいいから相手しろよ」
赤い顔でニヤニヤしていたのは、酒場で最初にエデルを姉ちゃんと呼んだ男で、エデルの平ぺったい胸を触らせた人物でもあった。
「えー、無理。俺、胸のあるお姉さんのが好きだもん」
「そうかー?案外、気に入るかもしれんぞ」
男の力は強く、エデルの力では振り切れそうにない。
あー、やっばいかも。
最近、こういう目にあってなかったから油断してた。
若い頃に何度か貞操の危機におちいったことはあったが、毎回何とかしのぎきっていた。
最近はこういうちょっかいをかけられる年齢でもなくなってきていたので、少しばかり油断していた。
「手、放してくんない?」
「やだね」
嫌悪感全開で言ってはみたものの、酔っ払って男でもいいや状態の人間には通じない。
どうしよう。大声でも出そうか。
プライドもくそもなくそんなことを考えていたら、男が息をのんだ。
よくみると、男の首筋でキラリと銀色の刃が輝いていた。
「一度しか言わない。今すぐその手を放してどこかに行け」
「ひ、は、はひぃ」
男が放り投げるようにエデルの手を放したので、エデルは体勢を崩した。
「うわ!!」
転ぶ!そう思ってぎゅっと目を瞑ったが衝撃は訪れず、エデルは温かな人の腕に抱きとめられていた。
エデルを抱きしめる身体は柔らかく、先ほどまでのごつい男とは全く違う生物だ。
「……大丈夫か?怪我はないか?」
頭の上から降ってくる声も全く違って、耳に心地良い。
「まったく、お前には危機感というものがないのか?先ほどのようにいくら服の上からとはいえ、酒場であのように胸を触らせたら、男でもかまわないという人間はいくらでも出てくるぞ?」
「えーっと、すみません。俺、いい年したおっさんなのでそんな誘いはないと思ってました」
もっと若い美男子とかなら分かるんだけどなー。
小さくそういうと、エデルを抱きしめた人物は、ため息を吐いた。
「……酒場での演奏は見事だった。それにとても楽しそうに弾いていたから、見ているだけだった私もお前に惹かれたぞ?お前相手なら一夜の夢も悪くない。そう思った人間が少なくともここに一人はいるのだ。他にいないとも限らない」
強めにぎゅっと抱きしめられたエデルは、その感触を堪能しながら、この人となら一夜を共にしてもいいかも、という不思議な感覚におちいっていた。
いつもなら、絶対にこんなことは思わない。
エデルには、そういう欲があまりない。
けれど経験がないわけではない。
だいたいいつも相手のペースに流されていただけだ。
今まで男女問わず、自分から一夜を共にしたいなんて思った人間はいない。
けれど、抱きしめられたまま顔を見てもいないこの人ならいい。
そういう関係になっても、後悔はしない。
「えっと、俺……」
顔を見ようと思ったら、両目を手で塞がれた。
「うぇ?」
「今はだめだ。けれど、お前がこのまま辺境まで来るというのならば、私は必ずお前を見つけ出す。その時は……」
エデルに相手の顔は見えない。相手が見つけてくれなければ、何も出来ない。
けれどきっと、エデルはこの人に捕まる。
そんな予感がした。
「……うん、いいよ……あなたがどこの誰でも、俺は……」
「約束だ」
何も見えていないエデルの唇に、柔らかい何かが軽く触れた。
「……あれ?」
手の感触が消えたので目を開けると、そこには自分一人しかいなかった。
きょろきょろと周りを見渡しても、人っ子一人いない。
「……夢……?」
抱きしめられた感触がまだ残っている。
けれど、今ここにいるのはエデル一人だけだ。
首を傾げながら、エデルは息子の待つ宿へと帰って行った。
「何で今まで教えてくれなかったんですか?」
アリアの話を聞いてしっかりとその時のことを思い出したエデルが、アリアに軽く抗議した。
「お前はすっかり私のことを忘れているようだったのでね。悔しかったのだよ。私だけが覚えていて執着していたのが」
「……だって、俺、アリアさんの顔、見てなかったし。それにアリアさんの夫になるなら、過去は全部忘れてアリアさんだけを見ないと、って思って……」
エデルだってあの後しばらくの間は、そのことを思い出しては夢だったのでは、と何度も思っていた。
だが城でアリアと会い、あっという間に辺境伯の夫という地位に就いてしまったので、あれはやはり夢だったのだと記憶の中に埋もれさせたのだ。
忘れなければいけないと言い聞かせて、記憶の奥底に封印した。
実際、アリアの夫になってからはとても忙しくて大変で、そのことをすっかり忘れてしまったということもある。
「どちらも私だ」
「しっかり思い出した今なら分かります」
抱きしめられた時にほのかに香った匂いも、柔らかな身体も、全てがアリアだ。
結局エデルは、アリアにしか反応しないのだ。
エデルは、そのことに十分に満足していたのだった。