詭道!桶狭間の戦い
永禄3年5月18日(桶狭間の戦い前日)の夕方、信長は清洲城の書院で、間者から1通の書状を受け取った。
間者はそれだけを渡すとそそくさと立ち去った。
信長の周りには数人の小姓が付き従っているだけだったが、信長はその場では書状を開かず、厠へ立つふりをして廊下へ出た。
廊下の灯火の下、信長は1人書状の内容を確認するや、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
それは、ほんの一瞬の表情だった。廊下を振り返った時には、もういつもの信長の表情へ戻っていた。
信長はそのまま廊下から庭先に出て、篝火に近づいた。
持っていた書状を翳し火をつけ、足元で燃え尽きるまで見続けた。
燃えカスが判読不能なことを確認し書院へ戻るなり、信長は小姓たちへいった。
「兵糧米の目途がついた」
「はッ!すると──、此度の戦は籠城を?」
「まだ決めてはおらぬ。士気を下げぬためにも、国境を越えて戦いたいところだ」
「はッ──」
小姓たちは今回の書状は兵糧米の購入の件だと理解した。
信長は思い出したように話しを変えた。「そういえば、此度の戦は中島砦が最前線となろう。敵を怯ませるためにわしの大将旗を、今晩中に送っておいてやれ!」
「はッ──、しかし仮に中島砦が敵の手に落ちることになれば殿の大将旗が敵に渡ることになりかねませんが──」
「大将旗が取られたところで痛くもないわ。最終的に勝てば良い!」
「はッ──、そうでございました!すぐに大将旗を中島砦へ送る手配をしてまいります」
「うむ!ついでに手紙も付けてやれ。わしが善照寺砦まで出たときは、試しに大将旗を上げて敵と戦ってみよ──とな!」
「はッ!殿、なかなか遊ばされますな」小姓は頬を緩めた。
「ふっふっふっ、戦にはそれくらいの心のゆとりが必要じゃ」
別の小姓が慌ただしくいった。「殿、ご家老様たちが首を長くしてお待ちです」
「うむ、今、大広間へ戻るところじゃ!」
その夜、清洲城の大広間では、今川の大軍が沓掛城まで押し寄せているとの情報が入り、家老たちの意見が飛び交っていた。
「明日にも今川方は仕掛けて来るやもしれん。今夜のうちに善照寺砦まで出て、明日には他の砦はすべて打ち捨てて味方を結集させては如何でござろう?」
「いや、ここ清洲まで引き寄せて籠城戦にすれば、いずれ奴らの兵糧が切れましょう。退却時に襲えば大軍といえども崩れるのは道理でござる」
「清洲で籠城するなら、前線の砦の味方は如何するぞ?」
「すぐに呼び戻されねば無駄死にさせることになる。ともかく救出にいかねばなりますまい──」別の家老が心配して片膝を立てた。自ら砦救出の先頭に立つ意思を表明した。
皆の意見を聞いていた信長は口を開いた。そして籠城策を完全に否定した。
「籠城は士気が下がるだけだ。そうなると思わぬ寝返りも出るやもしれん。それに──戦いは重地(敵国を深く侵入した地)か、死地(必死で戦う状況の地)ですべしと兵法にもある。今回も打って出るからそのように心得よ!」
「はッ──!」
「はッ!」
家臣ら一同大いに納得した。そして信長は出陣前の宴を開いて敦盛を謡った。
一通りの段取りが済むと家臣の1人が信長へ尋ねた。
「──して、殿はどこで迎え討つおつもりで?」
決戦場の確認だ。
「うむ!善照寺で迎え討つか、中島砦までいくか──」
柴田勝家が口を挟んだ。「善照寺から中島へ出るには道が細すぎて、中島に着いても後方(善照寺)との協力が不便です。むしろ敵方が長蛇になって善照寺へ出てくるところを立て続けに撃破すべきです」
「うむ、敵がそう出てくればな──だが敵が中島砦を落とした後、善照寺へ攻めてこなかったらどうする?」
柴田は答えなかった。(その時は仕方ない。今回は持久戦に持ち込めれば御の字というものだ)
信長はいった。「その場合、敵は鳴海城と連絡をつけて、ますます勢いが上がり知多一帯の分国(支配)は、すべて今川方へ渡すことになる──」
別の家臣がいった。
「今川の本軍が沓掛(城)から中島砦へ向かってきたら、こちらは熱田から別の間道を通って沓掛(城)へ攻め込んでは如何でございましょう?上手くいけば敵の退路を塞ぐことができ、奴らは大高(城)方面から退くかもしれません」
信長は首を横に振った。
「無理だろうな。拠点の沓掛(城)には今川もかなりの守備兵を残すはずだ──」
「確かに、それはそうでござるが──」家老もかなり無理筋な策であったことを認めざるを得なかった。
ここで信長は急に家臣全体へ向かっていった。
「だが──、今夜は遅い。皆もう休め。わしも寝る。攻め口については明朝伝える」
この思わぬ休息の指示に、家老たちは一様に戸惑ったがやむなく散会することになった。
今回の非常事態にあたって自領に最低限の兵員を残して、清洲城への援軍に駆けつけていた家老は肩を落として呟いた。
「この熟慮がいる時に、寝所へ戻られるとは──殿もいつもの調子ではないようだ」
それでも家老たちは指示通り清洲城内の自陣に帰り、部下たちへ「明朝まで休め」と休息を伝達した。
翌5月19日(桶狭間決戦の当日)の夜明け前、信長は前線の使いの者から『鷲津山砦と丸根山砦が今川軍の先鋒から攻撃を受けた』との急報を聞くや、飛び起きた。
すぐに小姓や女房たちを呼び、具足をつけて湯漬けを掻き込んだ。
小姓たちは信長の慌ただしい行動に驚いた。
信長はいった。「兵士たちを起こして、炊き出した飯を配ってやれ」
さらに続けて「飯を食べ終えたら、全員すぐに熱田神宮へ集まるように伝えよ!」
「それから──家老たちへ伝えよ!──もし熱田神宮に間に合わなければ善照寺砦へ、それから中島砦まで後詰めに出てくるように──と」
小姓たちは驚愕した。「殿!全軍が揃うのを待たれてから出陣されたほうがよろしいのでは──?」
「敵の不意を突き、その不備を討つ──それが兵法じゃ!先にまいるぞ!」
夏至に近い5月19日(太陽暦6月22日)夜明けの4時、信長はわずか数騎だけを従えて熱田神宮へと駆け出した。
しばらくすると伝達が回った清洲城直属の守備兵2000もバラバラと熱田へ向かって走り出した。
熱田神宮に数百人が集まった時には、すっかり夜が明けていた。信長は兵士たちへ向かって演説をぶった。
「今川方は大軍を頼みに舐めているに違いない。また大高、鷲津、丸根と動いて疲れておる!こちらが戦利品を漁らず、対面の敵を討ちとることに専心すれば勝負になるぞ!勝てば我ら兵士の名は末代までの栄誉となろう」
信長は兵士を鼓舞して熱田神宮を発ち、先頭に立って善照寺砦へ入った。
朝10時、援軍の到着により善照寺砦の兵士に活気が蘇った。まだ援軍を合わせても1500人程度だが大将の信長が自ら姿を見せたことで士気が大いに上がった。
近くの中島砦では、善照寺砦の活気に気がついた。信長が自らきているとの情報も伝わった。
中島砦ではすぐに信長の“大将旗”が掲げられた。そして中島砦の織田軍300が、南東の山腹へ着陣途中の今川軍の先鋒へ攻撃を仕掛けた。
信長にとっては予定の行動だったが、来援軍の兵士たちは目を疑った。
(なぜ無謀な突撃を······せっかく善照寺砦まで援軍がきているというのに······)
中島砦の兵士たちは精神的限界に達していた。中島砦の南東から東へ延びる山腹に今川の大軍が陣を敷き始めており、その威容な光景を見せつけられて圧倒されかかっていた。
善照寺砦から中島砦までは通路が悪いので、とても援軍を送ってもらえるとは思えなかった。
そこで前夜に届いた大将旗を立て、予定通りに信長の前で堂々たる戦いを見せて、援軍のさらなる前進を願った。
もちろん中島砦の守備のため残っている兵士はいた。
この中島砦からの無謀な突撃は、高台に陣取る今川方の先鋒に強烈に跳ね返された。
すかさず今川軍はその敗残兵を追って山腹から麓へと下り、追いつめ攻撃を加えた。
この戦いの最中、山腹の敵陣を眺めていた信長は心の中で舌打ちした。
(ここからでは敵陣の奥側が見えん······)
そして中島砦へと移ることを宣言した。さすがの信長直属の兵たちもこれには慌てた。
(いくらなんでも危険すぎる······)
部将の1人が信長を引き止めた。「中島砦へ向かう道は長い畦道で一気に後詰めがこれません。殿が中島砦に入ったところを、今川方の大軍に襲われては一大事です!今すこし敵の様子を見られてから、お移りになったほうが──」
信長は聞かなかった。
「敵は行軍の疲れを癒やすために、山腹に陣を張ったのだ。こちらも今のうちに中島砦まで進んでおかないでどうするぞ!皆の者、ゆくぞ!」
信長は善照寺砦の守備兵を残し、さらに集まってきた兵員総計2000を率い、細長い畦道を長蛇になって中島砦へ向かった。
一方、今川軍は中島砦の南東から東に延びる山へ次々と布陣を完了させ始めていた。今川本軍16000。
昼になった。中島砦は異常な活気に溢れかえっていた。今まで不安に慄いていた砦の守備兵にとって驚きの来援であり、大将の信長自ら最前線にきたのだ。
信長の指示で兵士たちは飯を食べ、戦いに備えた。
信長は来援の兵士たちに命じた。「誰ぞ、まだ山麓に留まるあの敵へ、ひと当てしてみよ!強さを測るだけですぐに戻ってまいれ!」
これを聞き、勇猛な直属の兵士500が、南東の最前線の敵へ攻めかかった。
その今川軍は先程の中島砦から突撃した織田軍300人を破った後、いまだに山麓をうろついていた兵士たち──兵数は同じく500ほど。
今度の戦いは、今川軍が圧倒されて山際へ押し返された。しかし織田軍も無理攻めを避け、さっと中島砦へと帰陣した。
その間──、信長はその戦闘を全く見ずに、今川軍が陣取る山腹を見続けていた。いったい何を探しているのか。
──と、はるか東の山腹にあるモノを見出し、信長の目が輝いた。
(簗田でかした!あやつめ約束を果たしおったわ!)
昨夕、届いた書状には──『今川方は沓掛より鳴海へ進軍を予定。織田方との交戦あれば我ら、義元公の後方より返り忠を果たし候。旗の振り乱れたる処、すなわち義元公の本陣の間近なり』──とあった。
謂わば、今川軍の後備えに組み込まれた沓掛城の部将“簗田政綱”は、本心では織田方に味方しており、戦闘が起きたら“旗を振って義元の本陣の位置を教える”というのだ。
はるか東の奥の山腹で、多くの旗が振り乱れるのを見て、信長は躊躇わず、馬上の人となった。
(簗田の“返り忠”に賭ける以外、戦機はない!)
そこへ先鋒の兵士たちが手柄首を持って、信長の元へ帰ってきた。
“縁起よし”と信長は称賛し、全軍を整えると、砦の守備兵をわずかに残して鳴海城への抑えとし、出撃可能な兵士たちへ大声で叫んだ。
「皆の者、よく聞け!敵は大高(城)入りと鷲津、丸根(砦)攻めで疲れておる!こちらは散らばらず、強く押し込めば、勝機があるぞ!遺品を分捕るな!ただ敵を倒して進むことのみ専念せよ!」
信長は“今川軍は疲れている”と示唆したが──実は、この山腹へ長々と布陣した今川軍16000は新手であり、さほど疲れてはいなかった。
大高城へ入城し、鷲津砦、丸根砦を攻撃したのは今川軍の別働隊であった。
しかし信長は兵士を励ますためなら、どんな説明でも構わなかった。末端の兵士に真実を教える──落ち込ませる──必要はないのだ。
雨が激しく降り出す中、信長は兵士たちを従えて先頭に立った。兵士たちも大慌てで次々と後を追う。今や出撃の兵士は総計3000に達していた。
中島砦へ大将旗を送って戦わせたのは、敵陣で振られる旗を探すための作戦だった。
信長が家老たちを置いて熱田神宮、善照寺砦、中島砦へと急ぎ渡ったのも、練りに練った作戦だった。
──簗田の謀叛を活かすには2つの要点があった。
【1】簗田政綱の裏切りを今川方へ通報されてはならないこと。
【2】義元本陣に織田軍の兵を集中的に突入させなければならないこと。
つまり、今川方へ寝返る可能性のある家老や、行動の遅い家老──信長以外の人間──に先陣を任せるわけにはいかなかったのだ。
この時になって、善照寺砦へ駆けつけた後詰めの家老たちの兵5000も、細長い道を中島砦へ向かって次々と渡り出していた。
雨が激しく視界を塞ぐのを利用して、信長は兵3000を従え、手前(西端)の山腹を避けて山麓の街道をはるか東へと急ぎ、かねて狙い定めていた──激しく旗が乱れていた──地点へ向かって南へ折れて、その山腹へと攻め上がった。
信長は叫んだ。「者ども!鬨の声をあげよ!我を越えて攻め上がれッ──」
自軍を鼓舞する意味もあったが、それよりも“返り忠”へ動く簗田政綱を励ますための意味合いがあった。
「おおおおお──!」
信長に従う兵士たち大声で叫びながら槍を振るい突進した。
敵陣はるか深くにまで入って戦うことになった織田軍の兵士たちは、もう必死だった。
(何で······わざわざこんなにも深入りしてしまったのか······もうこうなったら、信長様の周りにみんなで固まって必死に戦うしかない!)
今川軍のほうは一箇所で戦闘が起きたといって良かった。
そして、そこは紛れもなく義元が控える強兵ぞろいの本陣だった。
乱戦に持ち込みたい信長は馬を駆け、四方八方へ突破しては反転した。
しかし義元の旗本たちは散らばることなく、織田軍の突破を抑えにかかり、徐々に戦線は膠着していった。
その時だった──。義元本陣の奥(東)側から喧騒が湧き上がった。
「謀叛人が出た!」
「いやいや喧嘩だ!」
「同士討ちしてるぞ!」
ついに、信長の待つべきモノ──簗田政綱の兵500による謀叛──が起きたのだ。
義元の旗本たちは誰が味方なのか信用できなくなり、個別の戦いを強いられて崩れていった。
山の北側で戦っていた義元の本陣は、北からは信長の攻勢、東からは簗田の謀叛に遭い、峰を越えて山の南側(裏手)の低地へと降りていった。
信長はいよいよ味方を鼓舞した。「義元は近いぞ!かかれ!かかれ──っ!」
ついに織田方の服部小平太が義元を見つけた。名乗りをあげて斬りかかったが、足元が滑って転び、膝を義元に斬られた。
しかし、続けて毛利新助が現れた。他にも織田の兵が見え始めた。もはや運命は決定的だった──。
義元は討ちとられた。
その首が信長の馬前へ持参されたのを見て、信長は大いに称賛した。
信長は気を緩めることなく、山腹へ兵を集めて鬨の声を上させ、しばし軍を踏み留めた。
他の山腹にいた今川の大軍はいったい何をしていたのか?
高台を占める義元本陣がまさか敗れるとは思えず、中島砦へ新しく後詰めに入った織田軍5000に対して用心をしていたのだ。
義元の本陣が敗れたことが伝わると、今川の大軍は動揺した。しかも往路からは戻りづらくなった。
このままでは桶狭間山と中島砦による挟み撃ちになる──そう恐れた今川方の多くが大高(城)方面へ退却し、分散して駿河へと戻っていった。
こうなると鳴海城も大高城も沓掛城も、織田軍の支配下になるのは時間の問題だった。
信長は敵の総退却を確かめると、その日のうちに往路をそのまま中島砦まで退却し、そこから数人の供を連れて急ぎ清洲城へ戻った。
信長の馬上の前で、部下に義元の首を高く槍に掲げさせて、清洲の城下町を廻ると民衆は大騒ぎで信長を祝福した。
さて──、信長は論功行賞を行った。
言うまでもなく最大の功は簗田政綱であり、すぐに彼の地元である沓掛城を報奨として与えた。
毛利新助、服部小平太、前田利家など多くの者へも褒美をいき渡らせた。
信長は簗田政綱の“返り忠”の件をその後も言わなかった。
信長は裏切られることが非常に多く、秘密裡の作戦を取る時は、当人限定での打ち合わせをするようになっていた。
そのため織田家の部将たちは、簗田は熱田神宮で合流したのだろうとぱかり思っていた。
やがて──時が流れた。
『甲陽軍鑑』を編集した小幡景憲は今川方からの情報を元に、桶狭間では裏切りによって今川軍が敗北したとの記録を採用した。
『信長公記』を著した太田牛一は当時の桶狭間に参戦して感じたままのことを記した。すなわち──清洲城からの兵2000による今川軍への強襲。そして天佑による勝利と。
さらに平和な時代になり、“返り忠”──現当主を裏切って元当主の下へ戻ること──は評価されない物となっていた。
簗田家もまた“返り忠”を口外しなくなった。
『信長記』を著した小瀬甫庵は、各所から情報を集めたが、“返り忠”の話をついに簗田家から聞き出すことはできなかった。
歴史の謎が生まれることとなった──。
おそらく小瀬甫庵は『信長記』の桶狭間の戦いをまとめる時、強襲説と裏切り説を何度も勘案したことだろう。
苦心の末に、“義元の本陣は窪地にあって信長が裏手の山から奇襲して勝利した”──という両説の言い分を半分ずつ採用した──『奇襲説』を生み出した。
しかし対陣する場合には、山腹(もしくは高台)か、川を挟んで構えるのが普通である。
奇襲されるような窪地に本陣を置く大名はいないといって良い。
現代の研究では『奇襲説』は不自然であるとして、『強襲説』を有力視している。
しかし『強襲説』も今川軍の前軍を撃破して義元本陣へ乗り込むという無理がある。大軍に有利に働く兵力削減だ。
『裏切り説』も大軍に対して単独で裏切るのはタイミングが難しい。
そして今──、『強襲説』と『裏切り説』の2つの辻褄が合うように改変した⇒『密約説』が生まれた。
【参考文献】
『信長公記』(太田牛一著)
『信長記』(小瀬甫庵著)
『甲陽軍鑑』(小幡景憲編)
『桶狭間の戦い』(藤本正行著)