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山田さん

作者: 守山もりお

 今日オレは会社で激怒した。最近なんだか心身ともに疲れている。

 製品の形状をこのようにすれば生産ラインの改造が最小限になり設備投資を抑えられるので変更を検討してほしいという提案を関連の生産部門と調整したうえで設計の部長と担当に説明したのだが、彼らは説明もろくに聞かず、今さら変更できないと自分たちの意見を押し通そうとするばかりか、設計の部長は「それをうまく生産できるように考えるのがあんたらの仕事だろう」と偉そうに言うので少しカッとなり、「人の話はちゃんと聞けよ」と強い口調で言ってしまったのだが、元ラグビー部でガタイがいいうえに、坊主頭で真剣になったときほど顔が怖くなると言われるオレには威圧感があるのか、ちょっと言い過ぎただけで相手が過剰にケンカ腰になってしまうことが多く、今回も結局怒鳴りあいになってしまった。冷静さを失いカッとなってしまった自分にも腹が立つが、設計部長の態度を思い出すと今でも怒りがこみあげてくる。幸いなことに今日は金曜日だしもう16時だ。席に戻るなり、部長に簡単に報告し、フレックスでさっさと退社した。金曜日の午後は半日休暇にしたりフレックスをとったりしやすいのはこの職場で単身赴任者に与えられた特権なのだ。


 オレは工場の生産エンジニアだ。勤続32年、入社以来ずっと地元の滋賀工場で働いていたが、愛知県にある本社への転勤を命じられ、単身赴任寮での生活が8年めになる。まだ小学生だった下の息子がもうすぐ高校を卒業する。本社では工場の設備投資を取りまとめて幹部に説明したり、商品開発や設計の担当と一緒に新商品の生産化を検討する仕事をしている。

 寮は会社から徒歩圏内にあるローカル線の駅前にある。駅前といっても無人駅だしコンビニが一軒あるだけだ。クルマを使わないと、買い物にも行けない。周囲に建物がないうえに壁が薄いのでこの季節は異様に寒い。昨晩も北から吹き付ける季節風が屋根に当たり、一晩中ピューピューと悲しげな音を立てていた。隣人の足音や電話で喋る声は筒抜けだが、部屋ではいつも一人きり、狭い寮室の半分を占領するベッドで明日の仕事に備えて寝るだけだ。


 転勤が決まったとき、本社単身赴任経験のある同僚が

「本社は、夜遅くまでデスクワークをして、疲れて寮に帰って寝るだけの単調な生活だし、ずっと工場勤務だった人はだいたい頭がおかしくなるから、何か趣味をもたなあかんで」とアドバイスしてくれた。その場では、「寮で仏像でも彫るわ」と冗談半分で返答したが、オレは料理が好きだし、クルマがあるので映画館やスーパー銭湯、スポーツジムへも行ける。まあそれほど煮詰まってしまうこともないだろうと軽く受け止めていた。だが、本社での単身生活はほんとうにストレスが溜まる一方だった。

 半年もすると、毎週金曜日は、定時で仕事を切り上げ、電車でボートレース場へ向かい、ライトアップされた屋外で味噌串カツをアテにビールを飲みながらナイターレースに興じるようになった。勝敗にかかわらずレース場前の台湾ラーメン専門店に寄って、冬でも汗が吹き出るような辛口台湾ラーメンを食べるのがお決まりのコースになっている。50代のおっさんの健康にとって何ひとつ良いことはないのだろうが、黒く汚れてどろどろしたものが全身の毛穴から汗といっしょに発散されているようで、週末をスッキリした気分で迎えられるような気がした。

 こんなむしゃくしゃした金曜日にこそ、ボートレース場へ繰り出して、台湾ラーメンを食べてすっきりしたかったのだが、そんなときに限ってレースが開催されていない。とりあえず寮でひとり宴会をしようと、オレはクルマで5分ほどのところにあるスーパーで酒や惣菜をしこたま買い込むことにした。今週末は自宅に帰らない。明日は一日じゅう寮でゴロゴロしていても大丈夫だ。


 閉店60分前になり店員が半額シールを貼ったばかりの寿司や惣菜、それに酒や来週の食料である冷凍食品をカゴに入れ、レジに向かってお菓子売場のあたりを歩いていると、

「きっ、北川さん? 北川さんやなあ?」

背後から呼び止められた。驚いて声のする方を見ると、作業服を着た白髪頭のおっさんが立っている。単身赴任先であるこのあたりには、会社の付き合い以外の知り合いもいない。誰やねん、このおっさん? 

「あっ、やっぱり北川さんや。山田ですぅ」

語尾を妙にのばした特徴のある関西弁を聞いて思い出した。職場の先輩で15年前に突然会社をやめた山田さんだ。知っている人でひと安心した。それにしてもなんでこんなところにいるんだろう。


 15年前ーー

幹部の不祥事がもとで世間から非難を浴び、会社がひどい経営不振に陥った。早期希望退職で多くのベテラン社員が去っただけではなく、給料カットにより将来が見通せなくなったとオレと同世代のエンジニアも半数近くが退職した。そのほとんどは、同業他社に転職すると挨拶をして出ていったのであるが、なぜか山田さんは転職先や退職理由などを誰にも告げずに辞めていった。それから半年ぐらいして、愛知県にある業界最大手に転職した人が、社内で山田さんを見かけたらしいとウワサには聞いていたが、まさか山田さんとスーパーのパン売場で再会するとは予想外の展開だ。


 「いやあ、また会えるとは思てもみやへんかったわぁ。うれしいわあ」

以前の山田さんは、ギラギラとかガツガツといったオノマトペが似つかわしくない、喜怒哀楽を表に出さず、いつも困ったような顔をして、言葉を選びながら冷静に話す人だったが、今日は彼の細い目や表情からも喜びの感情が伝わってくる。確かオレより3年先輩だから57歳ぐらいだろうか。すっかり銀色になった髪だけではなく眉毛にも白いものが目立つ。瞼が下がって目はいっそう細くなり、実年齢よりも老けて見える。山田さんから声をかけられなかったらオレはまったく気付かなかっただろう。

 山田さんは、家族を滋賀に残して単身で業界最大手の会社へ転職したこと、転職後通算10年ぐらいは海外で駐在員をしていたこと、日本にいる間はここから車で10分ぐらいの丘の上にある寮に住んでいること、寮の食堂は休日も営業しているので外食をすることもなく、会社と寮の往復以外にほとんど外出しないこと、唯一の楽しみは週末にスナック菓子を食べながらテレビを見ることで、金曜の夜にこのスーパーへお菓子を買いに来ること、前にもオレを見かけたことがあったが、まさかこんなところで会うとも思わなかったので、よく似た人だと思って声をかけなかったことなどを話し始めた。オレはほとんど聞き役のまま、通路の隅で5分ほど立ち話をした。山田さんにはライバル社での待遇や職場環境や、同じ時期に転職した元同僚の消息など、いろいろと聞きたいことがあった。

 「せっかくやから、飲みにでも行きたいとこやけど、二人ともクルマやしあかんなぁ。でもまあメシぐらい食いに行こかぁ。寮に夕飯があんねんけど、まあ今日はかまへんわ」

二人で夕飯を食べることにしたが、このスーパーのあたりには工場とコンビニぐらいしかなく、レストランは5キロぐらい離れた国道沿いにしかない。

「この前の道をまぁっすぐに行って、あなたの会社のほうへ入っていく交差点があるやん。あそこにラーメン屋があったなぁ。そこにしよか」

果樹園の中をまっすぐ延びる県道が交わる、その交差点には、元ファミレスだったのか窓際にずらりとボックス席が並ぶ、このあたりでチェーン展開しているラーメン店がある。互いのクルマで向かって待ち合わせることにした。スーパーの会計を済ませて駐車場へ向かい、ワゴン車に乗り込んだ。7人家族で出かけられるように買った大きなクルマだが、週末自宅にいるとき以外はひとりで乗っている。ひとりだと寂しくなるので、いつも大きな声で歌いながら運転しているが、今日は昼間むかついたことや、山田さんと話したことなど、いろいろな場面が頭を駆け巡った。そういえば、設計の担当の生意気なヤツも山田という名前だったな・・・・・・などと考えながら、ふと気になった。


 山田さんの下の名前ってなんやったっけ?

同僚たちは山田さんと呼んでいたし、上司も山田くんと呼んでいた。記憶をさかのぼったが不思議なくらいにまったく思い出せない。


 県道の交差点の先を右折して駐車場に入った。店の入口に近い側はすでに空きスペースがない。凍結しているのかナトリウム灯に照らされた路面が宝石の粉末を撒いたように、それでいて鈍く光っている。水たまりで滑らないように足もとに注意をしながら、小走りで入口へ向かい、店内に入るとたちまちメガネが曇った。週末の寒い夜、ボックス席はメガネをはずしてもわかるぐらいに家族連れで埋まっている。入口で待っていた山田さんと合流したオレは、店内を一周する通路沿いの、隙間を埋めるように置かれた二人掛けの小さなテーブル席へ通された。

「ここって美味いんかなぁ。けっこう流行ってるやんか」

メニューを見ながら山田さんが言った。

「ほんなら、私は台湾ラーメンにするわ。なんか名古屋メシとかいうて、流行ってるらしいけど、いっぺんも食べたことないねん」

オレは店員を呼んで、台湾ラーメンを2つ注文した。辛さを3段階で選べるというので、オレは3辛と答えた。「山田さんは?」と聞くと、

「ほんなら、私は初心者向けの1辛にしとくわ。どれぐらい辛いかようわからへんし」

と、メニューを片付けながら言った。

 ラーメンを待つ間、山田さんはたて続けに、かつての職場の人事について聞いてきた。

「いま、誰が部長やってんの?」

「えっ、ほんならその前の部長は誰やったん?」

「それで前の部長は、いま何してはんの?」

「へえ、あいつはやっぱり世渡り上手やなぁ。人のフンドシで相撲を取るのがうまいちゅうんかなぁ。あなたもええように使われてるんとちゃうやろな」

「ふうん、あの人、頑固で扱いにくい人やのに、副本部長まで出世しはったんやぁ。やっぱり頭は切れるからなぁ・・・・・・。にしても、本部長にはなられへんとこがあの会社らしいなぁ。本部長のほうが若いねやろ。本部長もたいへんやなあ」

「おお、あいつがもう課長やってんの。新入社員のときに私が指導員やったのに。小姑みたいなんが何人もおるからやりにくいやろな」

「そうかぁ、あの人ももう定年かぁ」

退職して15年にもなるのに、このようなことが気になるのだろうか。オレだったら一年もすれば同僚の名前も忘れてしまうだろう。昔の山田さんは、上司に忖度したりせず、多数派の意見に流されることもなく、自分の意見を曲げない頑固な一面もあったので、オレは出世や他人からの評価なんかにはまったく興味がない人だと思っていた。彼が私の同僚たちをこんな風に見ていたということのほうが驚きだ。調子にのってオレのことも酷評しそうな勢いだ。聞くのがちょっと面倒くさく思えてきたところへ台湾ラーメンが運ばれてきた。

 山田さんの1辛は醤油ラーメンのような黒いスープだが、オレの3辛は赤い唐辛子が浮かびスープもやや赤みがかって見えた。そこに浮かぶニラの緑色とのコントラストに食欲をそそられる。麺をすすると、まずニンニクの香りとスープの旨味が感じられ、少し遅れてやってきた辛さにむせた。スープを飲むと一気に毛穴が開いたように頭から汗が出た。

 麺をすすって、一度むせて咳をした山田さんだったが、コップの水を一口飲むと再び麺をすすりながら喋り始めた。

「そうかぁ。いっぺん滋賀工場へも行ってみたいなぁ。たまに前を通るんやけどなぁ。もう入れてももらわれへんし、行ったところで、どのツラさげて来とんねんちゅう話やなぁ。でも懐かしいわ・・・・・・。にしても、このラーメン辛いなぁ・・・・・・」

辛いものが苦手なのか、山田さんの額からはすでに汗が流れ落ちている。テーブル備え付けの紙ナプキンで何度も汗を拭いながら山田さんの人事評価もだんだん辛口になっていった。

「いやしかし、あの人が工場長って、笑わしよんなぁ。ほかになんぼでも適任者がおるやろうに。北川さんもやりにくいやろ、なあ、あの人のことは好きになれんなあ」

「あいつが部長ってなあ。あんな口先ばっかりで、自分で何もせんと引っ搔き回すだけのやつが部長やったら、課長連中は無視して好き勝手するしかないわなあ。あんなヤツこそ、さっさと辞めさせたらええのに」

 だんだん辛さに耐えられなくなってきたのか、山田さんは紙ナプキンで鼻をかみながらも喋り続ける。涙か汗かもわからないぐらい顔がぐちょぐちょだ。

「あのときに会社辞めたのが正解やったんかて言われたら・・・・・・、微妙やなぁ。学生のときに今の会社に入りたかってんけど、うちの大学には求人がこやんかってん。けど今やったら業界最大手に入れるんやってわかって、年齢から考えたら最後のチャンスやったから思い切って転職したんやけどな、単身赴任と海外駐在ばっかりしてたら家族も金ヅルとしか思てくれんようになるし、ウチへ帰っても居場所がなくなるし、まあやっぱり、ずっとウチから通えるのがいちばんええな」

「そのまま今の会社に残ってても、結局海外駐在に出されたり、私みたいに単身赴任から何年も帰らせてもらわれへんねやから、どうせなら安定した会社のほうがいいですよ。ウチも先月家へ帰ったら部屋から犬の鳴き声がして、何やろうと思ったら、知らん間に犬を飼い始めたらしくって、それもオレ抜きの家族会議で決めたとか言うてて、そんなん知らんやんちゅう話ですわ。会社でそのことを話したら、それは『単身赴任あるある』やて言われて、そのうち自宅へ帰っても家族は誰も口を聞いてくれへんのに、その犬だけが尻尾を振って懐いてくれるかわいいヤツになって、家族が留守でも犬に会いたくて帰るようになるんやでて言われましたわ」

「それはほんまに『単身赴任あるある』やわ、そやけど帰るところがあるのとないのんとじゃ全然違うで。希望したら定年前には帰してもらえるんやろ。こっちはウチから通えるところに職場がないし、辞めてウチに帰っても煙たがられるだけや」

と言いながら咳き込み、紙ナプキンの束に手を伸ばし、再び鼻をかんだ。

山田さんが残り3枚ほどになったナプキンを全部つかみ、汗を拭きながら笑ったが、目が細くて感情がわかりにくいこともあり、顔だけ見ていたら泣いているようにしか見えない。通路をはさんだボックス席から小学生ぐらいの兄弟が不思議そうに見ている。関西弁のいかついおっさんが、もう一人の作業服のおとなしそうなおっさんに説教をして泣かしているようにしか見えない。ラーメン屋で見るにしては異様な光景なのかもしれない。 


 「今日はほんまに会えてよかったわ。懐かしい話ができてうれしかったわ。また今度はゆっくり飲みに行こうなぁ」

スープや台湾ミンチはほとんど残しているのに山田さんの顔はまだ半泣きである。

空っぽになった紙ナプキン立ての隣に置かれたアンケート用紙と回答用のボールペンを手に取ると、

「また暇なときにでも電話して。そうそう会われへんやろけど、土曜日に名古屋にでも飲みに行こうな」

と言って、裏面に携帯の電話番号を書いて渡してくれた。オレも同じようにに電話番号を書いて交換した。

「今日のとこは私におごらせて」

山田さんがまとめて支払いをすませ、重いドアを押し開けて外へ出た。店の北側に広がる果樹園を通ってきた寒風が顔にまともにあたる。ドアが重かったのは強い北風のせいだったのか。目が覚めるような寒風に汗がひいた。

おごってもらった礼を言い、互いにこれからも頑張りましょうと握手して、駐車場で山田さんと別れた。スーパーで声をかけられたとき、くたびれた老人のように見えた山田さんだったが、今日初めて見るような笑顔に、こちらまで嬉しくなった。


 助手席に置いてあった冷凍食品はまだカッチカチだ。買い込んだ惣菜は明日まで置いといても大丈夫だろうか。エンジンをかけると、キンコーンキンコーンと電子音が鳴り、外気温が氷点下であることを知らせた。ひとりになると、昼間怒っていたことを思い出し、すごく疲れた一日だった気がしたが、幸い今日も3辛台湾ラーメンのおかげで、汗といっしょにオレの黒くどろどろした負の感情が放出されたようだ。懐かしい人に会って、台湾ラーメンを食べて、結果オーライの一日だった。気持ちよく週末を過ごせそうだ。

あっ、そういえば・・・・・・


山田さんの下の名前はなんやったっけ。


信号待ちのときに、財布にしまってあったアンケート用紙のメモを取り出して見たが、

 山田 090ー****ー****

としか書いてなかった。


 結局、今も山田さんの下の名前を思い出せないままだ。

                           ーー完ーー



   


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