後編
アントワーヌの話は、ぼくにはとても難しかった。
フィクサー。ブレーントラスト。キングメーカー。
話を聞いた後で部屋に戻ったリシャートが、ぼくにも分かるようにといろいろな言葉で説明はしてくれた。
だけどぼくに分かったのはシンプルな事柄だけ。
アントワーヌは、ただの人間じゃない。
というよりも、人間と言っていいのかも分からない。
彼が命を宿したのはもうずっとずっと前。
彼がこの世に現れてから、ぼくらネズミの寿命は気が遠くなるほど幾度も繰り返されたことだろう。
彼は簡単に言ってしまえばこの国の概念みたいなものだ。
この土地に住み着いた多くの人々の想いや願いを宿して生まれた命。
人の形をしているのは、この世界を牛耳っているのが人類だったから。ただそれだけの理由。
アントワーヌは永い時を生きて、その間にたくさんの悲劇や喜びを目にしてきた。
国が滅亡し新たに生まれるそのサイクルを、ずっと見守ってきたのだ。
正確に言えば人間とは言えない彼のことを、かつての統治者たちは神と崇めて敬った。しかし実際にアントワーヌが世の中の出来事に直接手を出すことはないという。
昔こそはともに戦争に行き、ともに統治をしてきた。でも今は、その終わりのない権力争いに疲れてしまったと、積極的にかかわることを拒んでいる。
けれど彼の存在は政治家や軍の人間には知れ渡っていることで、暗黙の了解として求められてしまう。
決して表に出ることもなく、権力も持たない裏方として、彼らの相談相手となることが主な仕事だ。
ただ、普通の人間には持てない感覚を彼は持っている。それ故に理想と現実の間で複雑化する利害関係を円滑にすすめる役割を果たすこともあるという。
裏では、事実上誰よりも優位な立場にいて、下手に動けばすべての権力を左右することも出来てしまうのだそう。
リシャートがアントワーヌに向かって尊敬の眼差しを向けたところで、アントワーヌはこの話を止めてしまった。
とにかく彼の正体を聞けたことに満足をしたリシャートは、夢見心地でぼくに色んな可能性を話しかけてくる。
アントワーヌは普通の人間じゃないから、もしかしたら魔法とか使えるのかな?
アントワーヌは何人の偉人に会ったことがあるんだろう?
アントワーヌのことを知っている人って、どれくらいいるのかな?
アントワーヌに不可能なことなんてあるのかな?
アントワーヌは議会で一番偉い席に座っているのかな?
アントワーヌには未来が見えるのかな?
「ねぇマージュ。アントワーヌがいればさ、きっと世界は平和になるんだろうなぁ」
どうしてか、リシャートは自信たっぷりにそう呟く。
「だって、アントワーヌほど愛に溢れた人はいないよ。争いを嫌う彼は、きっと戦争なんて大嫌いだもん」
ちゅう……
「彼がいれば、なんでもできちゃうような気がするね」
そうかもしれない。
だけどリシャート、君は大切なことを見落としてはいないかな。
ぼくは昼間に見た彼の表情を思い返す。
きっとリシャートが思うほど、彼の立場は簡単じゃないんだろう。
でもリシャートがそれに気づかないのも無理はない。
だって彼は、あの時のアントワーヌのことを見ていないのだから。
*
アントワーヌが正体を明かしてから数日が経った。
イヴェットとリシャートは話を聞く前と変わらず彼と接し続けた。そもそもイヴェットは知っていたのだから当たり前なんだけど。
でも、リシャートはアントワーヌの話を聞いてからますます彼にべったりになった。
計り知れない存在が傍にいることは、心細さで染みついてしまったリシャートの傷痕にとっては良薬だったのだろう。
アントワーヌも変わらず優しい目をしていたけど、ぼくはやっぱり窓に反射した表情が忘れられなかった。
だからぼくは、リシャートが寝静まった後でこっそりイヴェットの寝室へと忍び込んだ。
アントワーヌもイヴェットの狭いベッドで布団で身体を温めながら一緒に寝ていた。ぼくは近くのクローゼットの上から身を寄せ合う彼らを見下ろす。
「アントワーヌ、どうかしたの……?」
イヴェットの髪を撫でていた手が止まり、彼女がアントワーヌの顔を見上げる。
「……いいや。大丈夫」
「そう……? 顔色が良くないわ……?」
イヴェットはアントワーヌの顔を覗き込んで心配そうに眉尻を下げた。
「…………本当に、良かったのかと思ってね。……君たちを巻き込んで」
「……リシャートのこと?」
「ああ」
アントワーヌの声が低い。イヴェットは彼に身体を近づけてそっと彼の頬を撫でる。
「大丈夫よ。あの子は、きっと秘密を守るわ」
「もちろんそう思う。だが、現実はそう簡単じゃない」
「……どういうこと?」
頬に添えた手をアントワーヌに包まれ、イヴェットは揺れる灯りを瞳に映した。
「私はこれまで、誰かに真の愛を感じたことはない。だけどイヴェット、君がそれを教えてくれた。君が私を想ってくれるように、私もイヴェットのことを愛している。リシャートのこともそうだ。だから、二人のことを失いたくないばかりに、私は君たちに悲劇の共有を望んでしまった。本当は誰かと分かち合うべきなんかじゃない。私個人の事情で、誰かの人生に入り込んでしまってはいけないのだと。……今でもたまに思ってしまう」
アントワーヌの声はぼくが聞いていても胸が苦しくなった。だから傍にいるイヴェットにとっては、たまらなく辛かったのだと思う。
「アントワーヌ。自分を責めないで。あなたは何も悪くないのよ。わたしはあなたに出会えてこの上なく幸せ。リシャートというたった一人の希望だけでも十分に満ち足りていたのに、神は更なる幸福をもたらしてくれたの。あなたみたいな人が一人で苦しむのはおかしいわ。そんなの、あっていいはずがないじゃない」
イヴェットの表情は真に迫っていた。彼の手を強く握りしめ、一言一言に愛が滲んでいる。
「わたしたちに迷惑をかけているなんて決して思わないで。リシャートもあなたのことが大好きよ。確かに、まだ幼いから不安定なこともあるわ。これまでたくさん傷つけてしまったと思う。だけど今のあの子はすごく幸せそうなの。あなたが、あの子に勇気を与えてくれたのよ。きっとわたしには出来なかったこと。アントワーヌ、あなたの愛は、人を傷つけたりなんかしない。心を救ってくれるのよ」
「イヴェット……。私には何もできない。何も手を出すことなど出来ないんだ。……大層な存在じゃない。私は、ただの置物なんだよ」
「それでいいじゃない、アントワーヌ。何もしなくても。あなたは"普通"を知らなすぎるわ?」
「あの子をがっかりさせてはしまわないかな?」
「ふふ。そんなことはないわ。あなたは素敵な人だもの。あ、でもあの子が無茶しそうになったら、止めてあげてね?」
「ああ。もちろん。リシャートに好かれるなんて、ものすごく光栄なことだな。ああ、でも、もう一人、気になる人がいるんだ。イヴェットっていう、美しい女性なんだけど……実は嫌われていたらどうしようか……?」
「そんなの聞かなくてもわかるでしょう? ふふふ。からかわないで」
二人はくすくすと笑い合って、何度もキスを繰り返した。
「ああ。そうだイヴェット」
「なあに?」
「……最近、街にならず者が来ている。……君も十分に気を付けてくれよ……?」
「ええ。分かっているわ」
イヴェットはアントワーヌをじっと見つめる。その瞳には確固たる信頼が表れ、彼はそれを見て彼女のことを抱きしめた。
ぼくはそこまで見て、リシャートの部屋へと戻った。
幸せそうな二人。
だけどどうしても彼の心から怯えが消えないような気がするのはぼくの考えすぎなのだろうか。
でもそんなに複雑に考える必要なんてないのかもしれない。
だってアントワーヌが怯えているのは、最後に言っていた人たちのことでもおかしくはない。
ならず者。
ぼくらネズミにとっては仲間みたいな言葉。
だけど、アントワーヌみたいに平和を愛する人たちにとっては、あんまり嬉しくない言葉だろうから。
*
「マージュ、そのパン、美味しい?」
リシャートの上着の胸ポケットに入って、ぼくは分けてもらったパンの欠片を頬張る。
美味しい。美味しいよリシャート。もっと欲しいって言ったら、きっと贅沢だよね?
ぼくがリシャートを見上げると、彼はにっこりと笑って頭を撫でてくれた。アントワーヌよりも少し雑ではあるんだけど、それでもやっぱり心地いい。
二度と歩くことはないと思っていた大通り。
リシャートと一緒にいればそんな夢の体験が何度でも再現できる。
ぼくは彼と出会えて幸せだ。
イヴェットがアントワーヌに言っていた言葉を思い出しながら、ぼくは正面を向いて堂々と景色を眺めた。
友だちと遊んだ帰りのリシャートは、その子に分けてもらったパンを片手に夕暮れの街を歩いている。リシャートの友だちはぼくのことを見ても怖がったりしなくて、笑顔で歓迎してくれた。同じ背丈で立ち並んだ建物の向こうを照らす夕陽が近くに見えるのは、人間たちとの距離が近づいたからだろうか。
ぼくが眩しさに目を閉じると、リシャートの足がぱたりと止まった。
ちゅう……?
どうしたの?
見上げると、リシャートはお店とアパルトマンの間にある細い路地の方をじーっと見ていた。そこには光が入らないからとても暗くて、ぼくは彼が何を見つけたのかが分からない。
「マージュ。このこと、秘密だよ?」
秘密?
リシャートはシーッと指先を口元に当て、タッと暗い路地へと足を向けた。
急ぎ足。忍び足。
慎重に路地に入り込んだ彼は、近くに積んであった隣のお店の木箱の陰に隠れ、路地の先にいる人影をそっと覗き込んだ。
ぼくもポケットから顔を出して、彼と同じものを見てみた。
するとどうだろう。
暗がりでよくは見えないけど、そこには確かに人間がいた。
一人。いや、二人? ううん。三人だ。
キャスケットをかぶった三人組は、葉巻をくわえて煙を吐きながら黒いひげを歪める。
「まさかダズが北の手先を連れてくるとはな」
「ああ。油断も隙もあったもんじゃねぇ。まったく。おかげでこっちの計画が水の泡だよ」
「親方もピリピリしてる。もう一刻の猶予もねぇよ」
ひそひそとした話し声がやけに真っ直ぐに耳に届いてくるのは、この道が音を逃がさないからなのかな。ぼくはあんまりいい気分がしなくて、真剣な表情をしているリシャートのことを見やる。
彼は大きな瞳を真っ直ぐに彼らに向けたまま瞬きすら忘れてしまっていた。
リシャート。
リシャート帰ろうよ。
ぼくが声を出そうとすると、彼はポケットの上からぼくの声を抑えた。
「明日の凱旋で街が賑わう。余計に苛つくだろうからなぁ」
「それは俺も同意だ。皆馬鹿みたいに浮かれやがって。あいつらそんなにドブ水を飲み続けたいのかよ」
「間抜けどもは用ナシだ。そのまま議会の連中に骨の髄まで捧げ続ければいいさ。でも俺はそんなのご免だね。親方みたいな人こそが未来を変えることが出来る。俺は新たな世界を最前列で拝みたいんだよ」
「そうだな。飼い殺しの未来に希望なんてねぇ」
きっともうずっと着続けているのだろう。ボロボロの仕立てを着た三人は、汽車みたいに煙を口から出しながら楽しくなさそうに笑う。そのまま僕らが入ってきたのとは反対側に歩いていって、彼らは煙を残して消えてしまった。
「マージュ。あいつらのこと知ってる?」
知らないよ。
「…………あいつらみたいなやつが、平和を壊すんだ」
リシャート?
ぎりぎりと歯を食いしばるリシャートの眼差しは、ぼくがかつて忍び込んだ家の主に向けられていたそれととてもよく似ていた。
リシャートは彼らの足音が完全に消えたのを確認してから大通りへと戻る。
キャスケットを深くかぶって足元を睨み続ける彼は、家に着くまで言葉を発することはなかった。
翌日はイヴェットの仕事が珍しくお休みで、彼女とリシャートは仲良く買い物に出かけていった。
朝から家に来ていたアントワーヌに特製のケーキを作ってもらうために材料を買いに行ったのだ。二人っきりで出掛けるのは久しぶりだと、イヴェットがとても嬉しそうにしていたのが印象的だった。
留守番をしているぼくは、スープを作っているアントワーヌの後ろ姿を机の上から眺めていた。外が少し肌寒くなってきたから、二人のために作ってるんだって。
アントワーヌが人間じゃないって言われても、ぼくにはやっぱり理解できなかった。
だってその大きな背中も、艶やかな肌も、すべて人間のものじゃないか。
ぼくがあまりにも凝視していたからかな。アントワーヌが視線に気づいてこちらを振り返った。
身を屈めていたぼくが立ち上がると、アントワーヌは小皿に調理中のスープを少しだけ移してぼくの前に置く。
「味見してくれないかい?」
よろこんで!
ぼくはアツアツのスープにそっと舌を伸ばす。チロチロと舐めて温度を確かめる。まだ熱いけど、食べれなくもない。少し舌に触れただけでこのスープの魅惑の味が分かっちゃったから、ぼくは夢中になって舐め続けた。
「ははは。美味しい? 気に入ってくれたなら良かった」
アントワーヌは必死になったぼくを見てくすくすと笑う。
ちょっとみっともなかったかな。
ぼくが顔を上げると、アントワーヌは火を止めて目の前の椅子に座る。
向かい合った彼は机に身を乗り出してぼくのほうに顔を近づけた。
「マージュ。出会った時のこと、覚えてるかな?」
もちろん覚えてる。
あの日からぼくの毎日は大きく変化したのだから。
アントワーヌに出会ったことで、こんなに素晴らしい家族の一員になれた。
リシャートは、もうぼくの大親友だよ!
ちゅうちゅうちゅうちゅう……!
「ふふ。そうだな。私も君に出会えた日のことは忘れられないよ」
アントワーヌは柔く微笑んだ後でぼくから顔を離して椅子にもたれかかった。
「あの日、路地で君を見つけて、私は君に親近感を抱いたんだ」
親近感? こんなに身綺麗なアントワーヌがぼくに親近感を抱くなんて。なんか変なの。
「イヴェットは私に救われたと言ってくれる。私も彼女たちと出会えた奇跡が今でも信じられない。こんな幸福、身に余ってしまうほどだ。でもマージュ。私は、誰よりも先に君に救われた。君は、私なんかよりも素晴らしい才能を持っているよ」
アントワーヌは人差し指を伸ばしてぼくの頬をくすぐった。
「ありがとうマージュ。君に出会えて幸せだ」
ちゅう!
ぼくもだよ!
アントワーヌの指先を抱きしめると、彼は少し驚いた後で優しい笑い声をこぼした。
するとその笑い声に重なるようにして、窓の外から金管楽器の音が聞こえてくる。
華やかな音楽と人々の歓声に呼ばれ、ぼくはアントワーヌの掌に乗って窓際へと寄った。
「…………凱旋か」
外を見下ろすと、人々は道の真ん中を開けるようにして左右に固まり、その空間を大きな車が通っていく。先導しているのは真っ白な馬で、かっちりとした軍服を着た兵士が凛々しく跨っていた。
天井のない車の上には、先頭の兵士よりはラフな軍服を着ている大勢の男たちが帽子を手にして両脇から見上げる人たちに笑顔を振りまいていた。
人々は拍手で彼らを迎え、その雄姿を称えている。
車の上で国旗が大胆に振られると、歓声が一層大きくなった。
昨日、路地の男たちが言っていたのと同じ言葉をアントワーヌが呟いた。
これが凱旋。
それが何かまではぼくには見当もつかないけど、みんな楽しそうだからきっと良いことなんだろう。
そう思ってアントワーヌの横顔を見上げる。
だけど彼はあまり楽しそうな顔をしていなかった。
口元は微笑んでいるけど、伏せた瞳には光が見えない。
アントワーヌには未来が見えるのかな?
リシャートが前に言っていた問い。
なんとなく、その答えだけは分かった気がする。
こんなにも幸せそうなのに、そんな暗い顔をするなんて。何かに怯えている証拠だ。
だけど未来を知っていたら、きっと怯えることなんてないはず。
だから彼は、未来を見ることはできないんだろうって、ぼくは思うよ。
ちゅう
アントワーヌの指をもう一度抱きしめた。
だからねアントワーヌ。
未来を見る能力はない君が見つけた今の幸せは、本物なんだよ。
彼は窓の外から目を離し、ぼくを見て頬を緩めた。
ぼくの全身を包み込むように撫でてくれるから、ぼくはうとうとと目を閉じたんだ。
*
がさごそ
がさごそ
木箱の中で眠っていたぼくは傍から聞こえてくる物音に耳をピンと立てる。
閉めたカーテンの隙間から見える真夜中に不審な気配を感じ取った。
ぼくもこんな時間に同じようにひっそりと動き回ったことがある。
たいてい、人間たちに気づかれたくないからそうするんだ。
もしや泥棒でも入ったのか。
ごそごそとした音に後ろめたい感情が垣間見え、ぼくは木箱から外に出た。
でも部屋の中を見渡してぼくはすぐに拍子抜けしてしまう。
目の前で丸くなって顔が落ちてしまいそうなほどに床に屈んでいるのはリシャートだ。
散らかっている毛布や本には無造作に漁られた形跡がある。リシャートはその中で、ペンを握りしめて小さなノートにインクを走らせていた。
かぶりつくようにして夢中になっているから、ぼくは彼の近くに寄ってみる。
ぼくが近づいたことにすら気づかない。リシャートの瞳は渇いていて全く眠気を感じなかった。むしろ活き活きとしているように見える。
泥棒じゃなくて、リシャートが闇夜に紛れてこっそりと目を覚ましていたのだ。
でも勉強ならいつも昼間にしているし、わざわざこんな風に隠れるようにしなくてもいいのに。
しっかりと閉じられた部屋の扉を見やり、ぼくは首を傾げた。
イヴェットは今、ぐっすりと眠っていることだろう。
まるでそんな彼女に見つかることを拒んでいるみたいだ。
彼女はリシャートが一生懸命勉強していることを誇らしく思っているはず。
それを見せたくないなんて、なんだか変だよ。
ぼくがリシャートの方に身体を向け直すと、大きな瞳がギラリとこちらを見て光った。
ぢゅっ!
得体の知れない怪物に睨まれてしまったのかと思って、ぼくは反射的に呼吸すら止めてしまう。
けれどよくよく見ると、それはリシャートの瞳だった。
ぼくが起きたことにようやく気がついたらしい。
「マージュ。ごめんね起こしちゃった?」
リシャートはぼくを掌に乗せて、うつぶせになっていた身体を起こす。
さっきのギラギラとした光じゃなくて、今の彼の瞳はいつものように幼げに緩んでいた。
ぼくはほっとして、彼が書いていたノートを見下ろす。
「ふふふ。気になる? でもまだ秘密だよ。マージュは一番の親友だけど、君はおしゃべりだからなぁ」
ちゅう?
「はははっ。そんな顔したってだめだよ」
リシャートはぼくをノートの隣に置いてまたうつぶせになる。
彼が書いているのは、日付といくつかの人と場所の名前。
そのどれもぼくは聞いたことがなかった。
街の地図やイラストも描いてある。
その中に、ようやくぼくにも分かるイラストを見つけた。
これはつい最近見た記憶がある。
白い馬に跨って背筋を伸ばしていた凛々しい姿。
リシャートは絵を描くのが上手だ。
ねぇ、この人は兵士でしょう?
「マージュも軍に興味があるの?」
ぼくが兵士のイラストをじっと見ていると、リシャートがそう言って首を傾げる。
「僕はね、皆を守ってくれる軍人さんのこと尊敬してるんだ」
リシャートはぼくの頭を撫でてくすくすと笑った。
「軍人さんは凄いよね。この前の凱旋見たかな? すごくかっこよかった」
彼の瞳が輝いていくのを見て、ぼくは出会った時に見た彼の同じ瞳を思い出した。
「アントワーヌも彼らの仲間なんだよ。彼らは平和を取り戻すために戦ってくれる。僕は戦争は嫌いだ。だけどねマージュ。悪い奴らがいる限り、平和を守るのは難しいんだ。だから僕は、皆の平和のために戦う軍人さんは偉いと思ってるの。僕も将来、そんな立派な人になれるかな?」
リシャートはノートのページをぺらぺらとめくる。
君はたくさん勉強をしているから、きっとそうなれるよ!
ぼくは元気よく返事をした。
「アントワーヌの傍にいたら、僕も彼に近づけるのかな。僕ね、ママのことを守れる強い人になりたいってずっと思ってた。僕のパパはママを捨てて出て行っちゃったから。僕はそんな人にはなりたくない。苦しんでいる人を見捨てるような人間には絶対にならない。でもアントワーヌは違う。彼はママのことを守ってくれる。僕のことも。だから僕、アントワーヌのような人になりたい。僕はまだ小さいけど、それを言い訳にするつもりもないよ」
ノートを閉じたリシャートは、近くに置いてあった毛布を手繰り寄せそのまま床に頭をつけた。
ぼくにも毛布を掛けてくれて、リシャートは指先でぼくのひげを撫でる。
「彼が傍にいるのだから、僕も頑張らないと」
ちゅう?
「おやすみマージュ」
リシャートはそのまま仰向けになり瞼を閉じた。
それほど時間が経たないうちに隣からは寝息が囁く。
おやすみ、リシャート。
彼の柔らかい頬の近くで身を丸め、ぼくも夢の世界を求めた。
リシャートがこっそりノートを書いていた夜から三日後。
その日、あたたかな日差しにすっかり昼寝をしていたぼくを起こしたのはイヴェットの険しい声だった。
「リシャート! どうしてあんな危険なことをするの……!」
涙の混じった彼女の声に、ぼくは慌ててキッチンへと向かう。
見えてきたのはイヴェットの前で悔しそうにこぶしを握って立っているリシャートと、悲しみを滲ませた瞳を歪ませるイヴェット。
足元からリシャートを見上げると、彼は右頬に怪我をしていた。内出血をしているのかな。紫の澱みが痛々しい。
「だって……! あいつら、オルケスさんの店を襲ったんだ! 彼は何も悪くないのに、ただ兵士たちの凱旋祝いをしただけで、彼は店を燃やされたんだぞ!」
「それは……オルケスさんは本当に災難だったと思うわ。だけど……だけどだからといって、あなたが復讐をしなくてもいいのよ!?」
「復讐じゃない! やつらはせっかく兵士たちが持ち帰った平和が気に食わないんだ! このまま放っておいたら、街の皆に危険が及ぶ……! そんなの黙って見ていられないよ!」
「リシャート……! あなた、何を言って……っ」
イヴェットは精悍に空気を睨みつけるリシャートを見て涙をこぼす。
震えた両手で口元を抑え、困り果てたように眉を下げた。
「ママ! 僕は苦しむ人たちを見捨てたくはない! これはママを守るためでもあるんだ! もし、もしママに何かあったら……!」
「リシャート! それはママも同じよ。だからあなたには危険なことはして欲しくないの。軍や議会のすることに首を突っ込んではいけないわ。あなたには計り知れない世界が待っている。オルケスさんの店を襲った人たちだって、どんな組織か分かったものじゃない。そんなことに関わろうとしないで……!」
「はぐらかさないで! ママ! 子どもにだって分かる! 今、街で何が起きているのか……。彼らはまた、きっと僕らの生活を壊す。そんなの耐えられない! 見て見ぬふりなんてできないよ!」
「リシャート、やめて……っ!」
イヴェットはリシャートの肩を掴み、崩れるようにして抱きしめる。
「あなたを失いたくないの。お願い。お願いだから何もしないで……。それがママの願いよ。ねぇ、お願い……話を聞いて……」
「いやだ!」
リシャートがイヴェットのことを突き放したと同時に、玄関の扉が開く。
「どうした……? リシャート……?」
入ってきたのはアントワーヌだった。
泣き崩れるイヴェットを前に立ちすくむリシャートを見た彼は、空気を含んだ声で尋ねる。目を見開き、目に映る光景に呆気に取られているようだった。
「アントワーヌ! あなたなら分かってくれるよね? 僕、街の皆を守りたいんだ。そうすれば、ママに危険が迫ることだってない。ねぇ、見て見ぬふりが出来ないのって、そんなに悪いことなの?」
リシャートは縋るようにアントワーヌを見上げる。
アントワーヌは両手で顔を覆って泣きじゃくるイヴェットと、床にいるぼくのこと、そして凛々しい眼差しをしたリシャートのことを順に見た。
「……リシャート」
「オルケスさんの店が襲われたのは知ってる? そいつらのこと、僕はずっと見張ってたんだ。あいつらが企んでること、僕は見過ごすことはできない。このままじゃ、僕らの街が崩れてしまうんだ……!」
リシャートはアントワーヌの上着を掴み、ガシガシと揺さぶった。
彼の精一杯の熱意にぐらぐらと身体を揺らすアントワーヌからは一切の力を感じない。放心したまま小さな戦士のことを見つめている。
「僕、アントワーヌに出会って思ったんだ! 僕にだって、出来ることはあるって! あなたがいれば、僕は怖いものなんてない」
「リシャート」
アントワーヌはリシャートの手を握り、彼と視線を合わせるためにしゃがみこむ。
「怪我をしたのか?」
「……うん」
アントワーヌが右頬に触れると、まだ痛むのかリシャートはそっと顔を逸らした。
「怪我をして、ママは悲しんだ?」
「…………うん」
「リシャート。ママを悲しませているようじゃ、街を守ることなんてできないよ」
「……………………」
「ママのためを想っているのはよく分かる。だけどリシャート、がむしゃらにやったって、敵わないことだってある。すべて正面から立ち向かわなくてもいいんだ。オルケスさんの店を襲った連中に構わなくてもいい。君たちはそんなことでは壊されない。分かるかリシャート。君たちの持っている強力な力を」
「……何?」
「愛だよ。君たちは互いを愛している。人を想う力があれば、どんな逆境だって越えられる。君にとっては当たり前のことかもしれない。だけど、それはとても特別な力を持っているんだよ。破壊に足を踏み入れるな。君はもう大事なものを手にしているのだから。それをやすやすと手放すようなことはしてはいけない」
「…………でも」
「リシャート」
アントワーヌはリシャートの髪を撫で、目を合わせるように視線で促した。
リシャートが彼の瞳を捉えると、アントワーヌは威厳に満ちた眼差しを送る。
「君を不安にさせてしまってすまない。これは私たちの落ち度だ。リシャート、どうかママの傍にいてくれ。それは君にしか出来ない。ママの宝物は、リシャート、たった一人の君だけなんだ」
「……アントワーヌは悪くない」
リシャートは首を横に振ってから俯いた。
「…………勝手なことをしてごめんなさい」
「それを言う相手は私ではないだろう?」
「……うん」
アントワーヌに優しく肩を叩かれたリシャートは、二人の会話を静かに見守っていたイヴェットのもとへと歩いていく。
彼女の呼吸はまだ乱れていて、涙も止まってはいなかった。
「ママ。ごめんなさい」
「リシャート……! ああ、もう……」
イヴェットの瞳からまた大きな涙がこぼれ落ちる。
座り込んだままリシャートのことを抱きしめると、彼も彼女のことを抱きしめ返す。
その様子を見たアントワーヌは、膝に手をついて立ち上がった。
「アントワーヌ」
イヴェットから解放されたリシャートがささやかな声で彼の名を呼んだ。
「ママのことを、守ってくれる……?」
切に満ちた眼差しを受け、アントワーヌはゆっくりと首を縦に振った。
「ああ。リシャート、イヴェット。君たちのことは、私が必ず守る」
「絶対だよ?」
「もちろん。約束しよう」
「うん。絶対に、守っていてね」
念を押すリシャート。アントワーヌはもう一度頷き、それを見たリシャートは安心したように口角を緩めた。
「…………よかった」
ぽつりと呟いたその声は、たぶん、ぼくにしか聞こえていなかった。
*
学校から帰ってきたリシャートは、鞄を置くなりばたばたと家を出ていこうとした。
机の上には彼の秘密のノートがちょこんと置いてある。
ついさっきまで彼が中身を読んでいたからだ。
少しだけ勉強をして、今日も友だちと遊びに行くのかな。
ぼくはまたパンが貰えるかもしれないと思って彼の肩に飛び乗った。
真横にあるのは怪我した頬を覆う白い絆創膏。
「マージュ。君も出かけたいの?」
リシャートはぼくを見て早口でそう言った。
でかけたいよ。
君と大通りを歩くのも、パンを食べるのも大好きなんだ。
でもリシャートは少し困ったように口角を下げてブーツの紐を結ぶ。
ちゅう
もしかして、パンを独り占めしたいのかな。
リシャートはぼくと同じで食いしん坊だ。
だけど大親友のぼくを置いていくなんてやっぱりずるいから、ぼくはここから降りないよ。
肩に抱きついたぼくを見て、リシャートは微かに息を吐く。
「しょうがないな。君も連れて行くよ」
その言葉が嬉しくて、ぼくは肩の上でくるりと回った。
「はははっ。絶対にはぐれないでね、マージュ」
紐を固く結んだリシャートはにっこりと笑って玄関の扉を開けた。
彼の足取りに揺られて景色が上下する。
すっかり見慣れた大通り。
この先を左に曲がって、それからしばらく歩いて、また左に曲がればいつもの待ち合わせ場所だ。そこで友だちがボールを蹴って待ってるんだ。
ぼくは曲がるはずの角を今か今かと待つ。
この先の二つのお店を通り過ぎたら、お待ちかねの花屋が見えてくる。角はその隣だ。
色とりどりの繊細な花束。いつ見ても綺麗で、ぼくはうっとりと空気を吸い込んだ。
リシャートはポケットに手を入れたまま、そのまま花屋の前を横切っていく。
あれ。
リシャート。リシャート。
曲がり角はここだよ。
ぼくでも覚えている道を君が間違えるなんてどうしたんだい?
教えてあげようと思ってリシャートの頬に触れると、彼はぼくを胸ポケットに入れる。
ちゅ……?
ポケットの中から見える彼の瞳は、ただ真っ直ぐに前を見据えていた。
道を間違えたわけじゃないのか。
じゃあ今日はどこに行くのだろう。
ごくりと息を飲みこむ。
知らない場所に行くなんて、なんだか緊張するじゃないか。
リシャートはそれからどれくらい歩いただろう。
いくつものブロックを歩いた彼の傍を車が通り過ぎていく。
見慣れぬ景色に、ぼくもつい前のめりになる。
周りを歩く人の足が地面を蹴りつける音に飲み込まれてしまいそうだ。
ぼくらの前に見えてきたのは古びた車。青色で、雨の痕がまだ残っている。
街を走る大衆車で、何の違和もない。
だけどリシャートはその車を見てハタと足を止めた。
車で隠されている路地を見やり、彼は薄い自分の身体を車と建物の壁の隙間に無理矢理押し込む。
狭い空間をどうにか通り抜けたリシャートは、一度深呼吸をした後で光の届かない路地に足を踏み入れる。
彼の胸元にいるぼくは、小さな鼓動が早まるのを感じた。
迷路のように入り組んだ細い路地を進むリシャート。なんだかあまり良い雰囲気じゃない。葉巻の匂いが染みついた空気にぼくは鼻を抑える。
リシャートはぼくの大親友。
けど、いくら仲が良くても今から彼が行こうとしている場所をぼくが言い当てることは難しそうだ。
「…………ここだ」
息を殺した声でリシャートが呟く。
彼が見上げるのは壊れかけた建物だった。
ぼろぼろなことを除けば大通りでもよく見るオフィスでも入っていそうな何の変哲もない出で立ちだ。天井の方は焦げ付いていて黒くなっている。
雨埃が幾重にも積み重なっているように、壁の色は濁っていた。
隣接する建物からも人の気配は感じない。
リシャートは真正面に見据えた建物をきょろきょろと観察した後で入り口の扉に手を伸ばす。
だけど鍵がかかっているみたいで、その先は固く閉じられていた。
ちゅう
なんだかおっかなくて、ぼくはリシャートを説得しようと試みる。
帰ろう。帰ろうリシャート。
今日もいつもの場所で友だちが待っているはずだよ。
リシャートはぼくの声には耳もくれず、建物の横側を覗き込む。
隣の建物との間には人が一人通れそうなくらいの隙間はあった。
彼は躊躇うことなくその場所を選び、見上げた先にあるパイプ管を見やる。
パイプ管が沿う壁を視線で辿っていけば、僅かに開いた窓が目に入った。
まさか。
そう思った瞬間に、リシャートはぴょんっとジャンプをしてパイプ管に手を掛けた。
やっぱり。
ぼくは反動でポケットの中に落ち、慌ててまた顔を出す。
リシャートは次々にパイプ管を掴み、どんどん壁を登っていく。
どうしてそこまでしてここに入りたいのだろう。
ぼくもよくこうやって家に忍び込んだから分かるんだ。
どうしようもないくらいの想いに駆られて、生きるために意を決す。
もしかしてリシャートもそうなのかな。
ぼくの場合は大体お腹が空いているせいだった。
じゃあリシャートは?
彼を駆り立てているのは、どんな感情なんだろう。
ぼくがきょとんとしている間にも、リシャートは順調に高さを上げていった。
あっという間に目指していた窓に手が届き、彼はそーっと窓を開けて中の様子を窺う。
ぼくも一緒に観察してみる。
部屋の中は電気もついてなくて薄暗い。誰かの寝室なのか、ベッドがいくつか置いてはあるけど、それ以外は何もない殺風景な場所だった。
リシャートは誰もいないことを確認して中へと入っていく。
久しぶりに感じるスリルにぼくは妙に緊張してきた。
彼は足音を立てないようにして部屋を通り過ぎ扉を開ける。
廊下にも誰もいない。
リシャートは廊下に出て、柵に手をついて階下を見下ろした。
ここは三階くらいかな。でもちょっと覗き込んだだけで一番下のフロアがよく見えるから、吹き抜けになっているみたい。
下のフロアには電気が点いていて、真っ白な明かりが部屋の中を照らしていた。
何人もの声が聞こえてくる。
この建物は無人ではなかったようだ。
「…………おい。もたもたすんな。時間がねぇんだからよ」
「分かってるって。でもちょっとくらい飲んでてもいいだろ? あの店から貰ってきたんだ。こんな良いワインいつぶりだよ」
「あの酒屋で成功したからって油断すんな」
「いいじゃねぇかダズ。まぁお前は前に大失態をしてるから神経質になるのも分かるけどよ」
「蒸し返すなよ」
「はははっ。そいつぁ無理な話だ。なんせ皆殺されるところだったんだからな」
「まぁまぁいいから落ち着いてこのワインでも飲め。爆薬の威力は酒屋で証明できただろ。明日はその何倍もの力が見れるぜ」
「前祝いか? 気が早すぎて呆れるな」
男たちは豪快に笑い声を上げる。
何人いるんだろう。
ぼくは階下から聞こえてくるしゃがれた声に身震いをする。
手すりを掴むリシャートの手がぎりぎりと音を立てていた。
「明日は大仕事だ」
「時代が変わる。南西収容所の爆発は歴史に名を刻むぞ」
男たちの歓声に続いてワインの瓶がぶつかり合う音が響く。
ゲラゲラと笑い合う彼らの陽気な声とは反対に、リシャートの表情は険しくなった。
「爆薬…………」
リシャートはそれだけ言い残して息を潜めながら辺りを見回した。
男たちはワインを飲んでご機嫌みたいで、歌なんか歌いだしている。
雑多な喧騒に隠れるように、リシャートはもう一度階下を凝視する。
さっきよりも身を乗り出してみれば、彼らが集っている机の傍にはいくつもの黒い箱が見えた。
「きっとあそこだ」
リシャートは確信めいた声を出して立ち上がった。
彼の精悍な瞳が悲しくて、ぼくは彼の肩まで上がる。
ねぇ何をするの?
たぶん、やめた方がいい気がして、ぼくは微かに声を上げた。
「マージュ。こいつらはね、オルケスさんの店を襲った連中だよ。それだけじゃない。僕はずっと彼らをつけていたけど、連中は明日、南にある大きな収容所を爆破するんだ。北との停戦協定が気に食わないからって、議会に抗議するために捕虜たちを皆殺しにする気だよ。そうしたらまた戦争が起こる。連中は、戦いに勝てなかった国のことを恥じている。国が貧しくなることを恐れているんだよ」
リシャートの声は震えていなかった。
むしろ鋼鉄のように強かった。
ぼくはそこに彼の揺るぎない覚悟と勇猛を見つけて、思わず尻尾が下がっていく。
「僕はそんなの見過ごせない。今度こそ、僕らの街だって戦争に巻き込まれる。世界はずっと欲に飢えているんだ。そんなもののせいで僕らの人生を壊されてたまるか」
リシャート。リシャート、でも、イヴェットと約束したじゃないか。
危険なことはしないって。
ぼくにだって分かるよ。
これは、君には荷が重すぎるって。
ちゅうちゅうちゅうちゅう!
ぼくが必死に訴えかけると、リシャートは憂いに満ちた瞳を緩ませる。
「大丈夫だよマージュ。ママのことはアントワーヌが守る」
ちゅう?
「そう約束したじゃないか」
ちゅうちゅう!
違う。
違うよリシャート!
アントワーヌは君のことも守るって言ったんだよ!
ぼくはちゃんと聞いてたんだ!
「街の皆は苦しんでいる。ママも……アントワーヌも……。全部戦争のせいだ。僕は見捨てない。平和への希望を」
リシャートは祈るように瞼を閉じてぼくにキスをした。
「ついてきてくれてありがとうマージュ。すごく心強いよ」
彼は掌にぼくを乗せて床におろす。
「でも危ないから、マージュは逃げて」
駄目だよ! 一人になんてできないよ!
ぼくは彼の足元でちょろちょろと走り回った。
どうにかして彼をここから出したかった。
でもぼくの綿埃ほどのちからじゃ、いくら華奢な彼だって引っ張ることなんてできない。
リシャートはぼくを見下ろして幼い頬を綻ばせた。
「ありがとうマージュ。君のおかげで、僕は少し強くなれた気がするよ」
リシャートの足が階段の方へと向かう。
待って!
待ってリシャート!
彼の足音に連中はまだ気づいていない。
でも武器もない彼が爆薬の隣にいる男たちにどう対抗するいうのか。
ぼくはたまらず彼の後を追いかける。
ちゅう!
ぼくの声が天井から響いたような錯覚がした。
その瞬間。
「おい! 誰だあいつ!!」
ワインの瓶が割れる音と同時に男の声が轟く。
彼は俊敏に視界から逸れたリシャートの残像を指差す。反対の指先からは赤い雫が垂れる。驚きのあまり手から滑り落ちた瓶の欠片で指を切っていたのだ。
侵入者に気づいた彼らはガタガタと立ち上がって騒ぎ出す。
リシャートは小柄な身体を活かして物陰に隠れながら、慎重に爆薬が積まれた箱の方面へと向かって行った。
男たちは姿を現さない侵入者に動転したのか、喚きながら各々凶器を手に持った。
だめだ。
このままじゃ。
ぼくは一目散に彼らのいるフロアへと駆け下り、彼らを翻弄するように床を駆けずり回った。
「うわぁっ! ネズミ! ネズミだ!」
「なんだよネズミ一匹でそんなに騒ぐなよ!」
「だって! 俺ネズミ大っ嫌いなんだよ! 昔指をちぎられた!」
一人のネズミ嫌いの男が悲鳴を上げたものだから、彼につられるようにして皆の中に焦りの色が浮かぶ。
これは都合がいい。
ぼくは嫌われ者であることに感謝しながら彼らの目を回すように足を通り抜けた。
「ぎゃああっ!」
たまに、噛んだりしてね。
男たちがぼくに注意を向けている間、未だはっきりと姿を現さないリシャートは勢いをつけて目的の場所へと走っていった。
すごい。
リシャートの勇敢な姿がちらりと見えて、ぼくも負けてられないと大ジャンプをして男の指に嚙みついた。
「うぎゃああああっ!」
血が飛び散って男の声が反響する。
ぼくは得意げな顔をして床に降りたつ。
やった! やったよ!
そう思い、爆薬がある方面を見やった。
すると途端にぼくの心臓は凍り付いた。
空気の割れる発砲音が真っ直ぐに向かった先はリシャートの肩だった。
男の一人が放った銃弾は、咄嗟に避けた彼の肩を掠り壁に埋まる。
「おいガキ。ここは遊び場じゃねぇぞ」
銃をリシャートに向けた男は葉巻を投げ捨て踏みつぶす。
リシャートはギッと彼を睨みつけると、近くにあった刃物を手に取る。
ぼくに構っていた男たちも姿を現したリシャートに一斉に視線を向けた。
「どこから来た。ここに何の用事だ」
男は銃をリシャートに突きつけながら舌なめずりをした。
リシャートは近くに来た彼の足に刃物を突き付ける。
ぼくの周りにいた男たちから小さな悲鳴が上がった。
でも刺された彼は、一切怯むこともなく、ただ血が流れる自らの足を見下ろす。
「お前たちがしようとしていることを知ってる!」
「ほう。それでどうするんだ。わざわざ殺されに来たのか?」
「いいや違うさ」
リシャートは肩の痛みを表情に滲ませながらも口角を上げる。
「僕は、出来ることをやりに来た」
撃たれたのとは反対の方の手でズボンのポケットを探り、リシャートは何かを取り出す。
「今なら僕、なんだって出来る気がするから」
彼が手に持った物を見た男たちの顔が青ざめる。
「おい! ガキ! ふざけるんじゃねぇ!」
彼らは堰を切ったようにリシャートに襲いかかっていく。
リシャートは立ち上がり、弾丸のように自分にぶつかってくる彼らの合間を縫って逃げ回る。
捕まったら殺される。
また発砲音が頭上を飛んでいき、ぼくは急いでリシャートのもとへと走った。
彼の手元を見てみても、それが何だかぼくには分からない。
そんなものは見たことがない。
しっかりとした紙で巻かれたアイボリーの丸い球。
男たちは躍起になってリシャートのことを追い回す。
逃げ場もない。
階段を行く道は大男が塞いでいるし、扉だって鍵がかかっている。
リシャート。
リシャート……!
ぼくはもう身体がバラバラになってしまいそうなほど全力で走った。
ぼくらは大親友だ。ぼくらは家族だ。
絶対に見捨てたりはしないから!
いくらすばしっこいリシャートでも、大人の男五人に囲まれたらどうしようもない。
息を切らして逃げる方向を間違えた彼の腕を、一人の細長い男が掴む。
「放せ……っ!」
そんな言葉を彼らが聞いてくれるはずがない。
男たちは髪をくしゃくしゃにしたリシャートの顔を容赦なく殴りつける。
ちゅう!
その力に吹っ飛ばされるようにして床に倒れ込んだリシャート。
それでもまだ、アイボリーの球を放そうとはしない。
また別の男が起き上がろうとする彼のことを蹴りつける。
ゲホゲホと、空気を詰まらせたリシャートは苦しそうな咳を吐いた。
あっという間に彼の顔には痣の色が浮かんでくる。
階段を守っていた大男がずいずいと前に出てきた。リシャートの髪を片手で鷲掴みにし、無理矢理身体を起こして爆薬の入った箱に投げつけた。
リシャートの口からは声を堪えた呻きが出ていった。
ぼくはどうしていいか分からなくなって、とにかく男たちに囲まれている彼のもとへ目指す。
「いってぇ!」
ぼくに噛まれた男が鬱陶しそうな声をあげて悶えた。
僅かに彼らの気を逸らしたぼくは、リシャートと目が合ったような気がした。
ふふ、って笑って、彼は球を持っていない方の手でマッチを取り出したんだ。
「やめろ……!」
銃を持った男が躊躇うこともなく引き金に指をかけた。
ちゅう……っ!
だめだっ!
銃口がリシャートの額を向いた瞬間、固く閉じられた扉が轟音とともに破られる。
「リシャート!」
聞き覚えのある声。
勇ましくてあたたかいその声に一同が気を取られた時。
銃弾が、迷うことなく獲物のもとへと飛んでいく。
助けてアントワーヌ!
ぼくは叫んだ。
だけどその声は泡のような光に包まれて誰にも届かなかった。
空気の波が部屋中を渦巻き、ぼくは重力を失った。
ぷかぷかと宙に浮いた自分の身体。自分のものなのに言うことを聞かなくて、ぼくはただ黄金の粒の風船に包まれてアントワーヌを見下ろしているんだ。
リシャートや男たちも同じような風船に包まれて、気を失ってしまったようにだらんと腕を垂らして宙に浮かんでいる。
リシャートの目は見開いたまま。でもその瞳には何も映っていないように見えた。
彼の額に穴は開いていない。リシャートを狙った弾丸は虚しく床に落ちていたからだ。
大事に握りしめていたアイボリーの球は、力なくぼとりと床に落ちる。
ちゅう!
何が起きたの?
ぼくはアントワーヌに向かって声を掛けようとする。
音にはなっていなかった。
世界から切り離されたように、アントワーヌだけがその空間で一人息をしている。
息は荒くて、時折空気を飲み込んだ。
「…………マージュ」
声は聞こえていないはず。
それでもアントワーヌはぼくを見上げて瞳を震わせた。
彼の蜂蜜のような甘い瞳は、ぼくらを包囲する黄金の粒と同じ色をして光っている。
その光の下に見えるぼくのお気に入りのポケットには、リシャートの秘密のノートがちらりと見えた。
「すまない。……でも、約束したんだ」
アントワーヌはぼくにそう語りかけてきた。
放心したような声。
震えているの? アントワーヌ。
眩く光る彼の瞳の色が落ち着いていく。
彼はゆっくりと瞬きをした。
艶やかな彼の肌を透明な雫が伝う。
もう一度彼が瞼を開けた時、ぼくは耳鳴りに覆われて気を失った。
*
「ロエル! そっちに行ったわ!」
甲高い声と地獄のような土埃。
ぼくは目を回しながら壁に空いた穴を見つけて一目散に駆ける。
ガンッ!
間一髪で命拾いをした。
あまり隙間風を気にしない家に忍び込んで良かった。
ぼくは自分の判断力を称賛しながら振動でびりびりと衝撃を受けた尻尾を抱きしめる。
さて。
気を取り直して路地の隅を歩き始める。
ああ。だけど困ったな。
耳のいいあの夫人のせいで、ぼくのお腹はからからだよ。
とぼとぼと歩くぼくの隣を、二人の男がすれ違っていく。
声を潜めていかにも怪しい。
だけどぼくには関係ない。
むしろ、同じような暗がりの住民として仲間意識すら覚える。
「…………待ち遠しいな。ようやく俺たちの苦しみが日の目を見る」
「ああ。もう腑抜けた顔なんて拝みたくねぇ」
ぼくと同じように薄汚れている彼らは、小さなぼくのことなど目もくれずに大通りへと出て行った。
ぼくと違うのは、堂々と通りを歩けることくらいだろう。
確かに、それはちょっぴり憧れるけど。
仲間だと思っていた彼らに裏切られたような気がして勝手に元気を失くしたぼくは、目の前に聳え立つ樽の塔を駆け上がる。
あの青に、もっと近づければいいのにな。屋根の上に行けば簡単なんだけど、それじゃ味気ないだろう?
ぐうううぅうう
お腹が悲痛な声を上げる。
今日はまだ何も食べられてないや。
空腹を誤魔化そうとしてぼくは毛繕いをした。
こんなことで空腹が満たされるのなら楽だったのにな。
せかせかと毛を舐めるぼく。
夢中になっていたけれど、大きな影が頭上の青を遮ったから、ぼくは何事かと顔を上げる。
美味しそうな蜂蜜の瞳がぼくを見つめていた。
人間だ。
ぼくはびっくりして思わず固まってしまう。
だけど彼は、特にぼくのことを攻撃してこようとしない。
叫び声も上げないし、罵倒もしてこない。
ただ黙って、ぼくのことをじーっと見つめているんだ。
ちゅう?
首を傾げると、彼は穏やかな瞳を緩めた。
すごく優しくて、陽だまりのような眼差しなのに、どこか悲しげなのはどうしてだろう。
あれ。
どうしてぼくは、彼のことを陽だまりのようだって知っているんだろう。
ちゅうちゅう
ぼくら、前にどこかで会った?
たくさんの家に忍び込んできたから、もしかしたらそのどこかで見たのかもしれない。彼もぼくのことを覚えているとか?
でも、そんなことあるはずがない。
だってこの街にネズミは数えきれないほど暮らしているんだもの。
専門家だって見分けるのは難しいはずだ。
だけど彼の寂しそうな瞳を、今までに見たような気がするんだ。
「さようなら、ムッシュー」
彼は囁くようにしてぼくに挨拶をする。
ぼくが雄って分かるんだ。
そうしたらこの人は、もしかしたら専門家なのかもしれないね。
ちゅう
ぼくが返事をすると、彼は切ない瞳で美しく微笑んだ。
彼はそのまま顔を逸らして石畳の上を歩いていく。
ネイビーの上質な上着は、二人組が消えていったのと同じように大通りへと抜けていった。
彼の姿が雑踏に消えていく。
不思議な人。
ぼくはどうしてか目が離せなくて、彼が完全に見えなくなるまで見送ったんだ。
ぐうううぅうう
ああ。でも。やっぱりお腹が空く。
樽から降りたぼくは、次に忍び込む家を探すために大通りとは反対の方向へと歩み始める。
この先には確か川沿いの公園がある。
そこに行って、少しの気を紛らわそう。もしかしたら食べかけのごみが落ちているかもしれないし。
気を取り直して意気揚々と走り出す。
すると。
「うわぁっ! ネズミだっ!」
無邪気な声がぼくの前に立ちはだかった。
見上げると、十一歳か二歳くらいの暗めの髪の少年が、ぺたんこのリュックを背負ったまま目を輝かせている。
彼から殺気を感じなかったから、ぼくはふと足を止めたんだ。
「可愛いねっ」
そう言ってぼくを見るためにしゃがみこんだキャスケットを被った少年。
大きな瞳に見つめられ、ぼくはなんだか照れてしまう。
素敵な言葉には慣れていないんだ。
「ねぇ、お腹空いてない?」
ちゅう?
「まだ家に、残したチーズがあるはずなんだ。もしお腹が空いてるなら、君も食べない?」
ちゅうっ!
なんて素晴らしい提案だ!
ぼくは興奮のあまり飛び上がる。
「はははっ。喜んでる! 可愛いなぁ」
少年はぼくに掌を差し出す。だからぼくは、その小さな手の上にちょこんと乗っかった。
「ねぇママ! このネズミ、飼ってもいいかな? 放っておけないよ」
少年はそう言ってぼくのことを傍にいた彼のお母さんに見せる。
「あらまぁ。ふふ。しょうがないわね。ちゃんとお世話するのよ?」
「もちろんだよ! ママ」
ぴょこんっと小さくジャンプをした少年は嬉しそうに笑った。
「さぁ。じゃあもう帰るわよ、リシャート」
「うんっ!」
少年は元気よく頷き、指先でぼくの頭をそっと撫でる。
「お家へ帰ろう? えっと……名前は、何にしようかなぁ?」
うーん、と空を見上げて考え込む彼からは、ワクワクとした感情が伝わってくる。
その間にも、ぼくのことを撫でる手は止めなかった。
少し雑だけど心地の良い温もりに、ぼくはなんだか安心してしまう。
どうしてだろう。
ぼくはこの手を、知っている気がするから。