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前編

 「きゃあああああっ!」


 いくつかの食器が割れる音が雷鳴のように響き渡る。

 正確には、"たぶん"食器が割れた。

 でもその証拠に、ぼくの頭上からは凶悪な土の粉が降ってくるから推測は正しいと思う。


「あっち! あっち行ったわ! ロエル! 何をもたもたしているの?」


 甲高い女の人の声は食器が割れた音よりも大きくて、ぼくの全身はびりびりと震えるようだった。だけど狼狽えてなんていられない。この声はたった一つの合図なのだ。

 逃げろ。

 全身全霊で、持てる力の限りを今ここに解き放つんだ。


「エリザ! 悪い! 今行くからな!」


 女の人の声に引っ張られるようにして若い男の声が続く。と、思ったら。


ガシャンッ!


「もう! 何をしているのロエル。床が壊れてしまうじゃない!」

「悪いエリザ。でも……こいつ……! すばしっこくて……!」


 棍棒がぼくの右隣を勢いよく叩きつけ、木面がほんの僅かに凹んでしまう。その衝撃を伝ってぼくの足元も一瞬ぐらついたけど、ぴょこんっと飛び跳ねてどうにか足の回転を続けて駆け抜ける。

 あぶなかった。

 あともう少しであの床のようにぼくもぺしゃんこだ。

 もしもの可能性に肝が冷えたぼくの目の前に、また棍棒が容赦なく落ちてくる。


「きゃぁっ! こっちに! こっちに来たわ……! いやっ」


 ぼくが方向を変えただけで女の人は木靴を鳴らしてじたばたと暴れ出した。

 彼女の長いスカートの中に飛び込んだぼくは、そのまま彼女の足踏みに気を付けながら暗い布の中をぐるぐると回った。

 どうしよう。女の人が暴れるから行き先が分からなくなってしまった。

 もう右も左もわからなくてぼくもこの人みたいにパニックに陥りそうになる。

 その間にも、男の人の逞しい怒号と女の人の悲鳴が部屋中に充満して余計に目が回ってしまう。

 ああ。もう駄目だ。

 ぼくはこのままこの暗いテントの中で死んでしまうんだ。

 そう諦めかけた時、ひらりと持ち上がった布の向こうに白い明かりがちらついた。

 もしかしてあれは。

 勝手に足が方向を定めて、ぼくは一筋の光のもとへと駆け出す。

 ぼくがスカートの中から出てきた途端、またしても女の人が叫ぶ。男の人はその声につられたのか、今までで一番の力を込めて棍棒を振り下ろした。


ガンッ!


「くそっ……!」


 棍棒が壁を叩いた音とともに男の人の醜い声が空気を抜けて耳に届いた。

 壁に空いていた小さな穴から間一髪で修羅場を抜け出したぼくは、長い尻尾が殴られたような錯覚に陥ってびくびくと鼻を震わせる。

 棍棒の振動が尻尾の先を掠っただけだ。

 それなのに、ぼくは生きていることが奇跡に思えてしまう。

 でもこの奇跡はぼくにとっての日常で、今日もいつもと同じく九死に一生を得たというだけ。

 だけどいつもと違うのは、この家では満足に食料を得られなかったということ。

 敏感な女の人が物音に気づいて、ぼくが何かを食べる前にあの地獄がはじまった。

 空腹とスリルが身体中を渦巻くけど、やっぱり勝つのは空腹感。

 ぼくはがっかりとしたまま細い路地の端っこを歩き出す。

 埃と汚水のにおいが混じったこの道を歩く人間なんてほとんどいないはず。

 それでもぼくは警戒心を緩めることはない。ちゃんと壁に身体をくっつけて、なるべく息を殺して無になりきるんだ。


 どこかに食べ物は落ちていないかな。

 密かな期待を胸に秘め、石畳に鼻をくっつけて真っ直ぐに進む。

 だけどぼくの嗅覚が仕事をするより先に動いたのは聴覚だった。

 人間の話し声が聞こえてきて、ぼくはピタリと足を止める。


「……ああ。もう武器は調達した。……計画通りだな」

「そうだな。……あとは……指示を待つだけだ」

「…………待ち遠しいな。ようやく俺たちの苦しみが日の目を見る」

「ああ。もう腑抜けた顔なんて拝みたくねぇ」


 前から歩いてきたのは薄汚れた襤褸衣を着た男二人だった。

 二人とも帽子を被っていて表情までは見えない。だけど髭が生えていることだけは分かった。やけにしゃがれたその声。じゃりじゃりと心臓を撫でられていくようで、ぼくはなんだか不安になる。

 ぼくの不安をよそに、彼らは小さなぼくの存在などには目もくれずにそのまま路地を抜けていった。

 彼らが大通りの人の流れに消えていくのを見送って、ぼくはまた正面に向かって歩き出す。最近街に漂う不穏な気配。無関係なぼくの毛先にまでその空気は届いていた。

 人間たちのことなんてぼくは分からない。

 彼らはぼくらを見ると何を考えることもなく反射的に金切声を上げ、次の瞬間には狂気の顔で物騒なものを振り回す。

 そんな野蛮で危険な生物なのだから、また楽しくないことでも考えているのだろう。

 でも、この空気が指し示すことが何だろうとぼくが知ったことではない。

 ぼくはただ共存を強いられているからここにいるだけ。この街に偶然生まれてしまったからここで生きているだけなのだ。だけど悪いことばっかりじゃない。人間の街にいれば、食べたこともないような美味しいものにありつけるのも事実だから。

 その喜びに比べたら、常にぼくらに向けられる殺意だって慣れてしまえばなんともないさ。


 目の前に現れた樽の塔を駆けのぼり、てっぺんで毛を整えた。

 高い空に流れていく白い雲を見上げていると、自分がこの世界でどんなに小さいのか思い知らされる。あの空に手が届くことなんて絶対にないのだと。

 雑踏の向こうで車が行き交う音が狭い路地に籠もる。

 ぼくとすずめの決定的な違いは恐らくそれだ。

 人間に愛される彼らは自力であの青に手が届くけど、ぼくは人間と同じでそれができない。

 だからきっと、嫌われるのだ。


 もう一度毛を整える。

 だけど何度毛を整えたって、空腹が満たされるわけでもなし。

 少し元気がなくなって顔を下げると、目の前から大きな影がぼくの身体を覆った。


「やぁ、こんにちは」


 顔を上げれば、柔らかな声がぼくに挨拶をする。

 ぼくの目をじっと見て言ってくれたから、たぶん、ぼくに言ってくれたのだと思うけど。


ちゅうちゅう


 自信はないけど、ぼくも返事をしてみた。でもこんなことは初めてで、ぼくは反射的に身体を丸めて警戒する。


「ははは。怖がらせちゃったかな。ムッシュー……いや、マドモワゼル……?」


ちゅう


 ぼくは雄。

 そう答えたかったけど、彼にはちゃんと届いているのかな。


「はじめまして」


 彼は丁寧に胸元に手を添えて軽く頭を下げてきた。優雅な仕草をぼくも真似してみる。


「はは。君、賢いね。こんなところでどうしたの? 空でも見ていたの? それともお腹が空いているのかな?」


 スラリとした長い指を樽の上に差し出すから、彼の掌がぼくの目の前に広がった。

 艶やかな肌。その先にいる彼のことをもう一度見ると、彼は唇を緩めて微笑んでいた。

 長い金色の睫の毛量に押されるようにして垂れた瞳は蜂蜜のような色をしていて、お腹が空いているぼくは思わず見惚れてしまった。

 すると彼はそんなぼくの煩悩に気づいたのか、くすくすと笑って肩を揺らす。

 睫より少し濃い色をした髪の毛は丁寧に整えられていて、さっきすれ違った男の人たちとは真逆の印象を受ける。


「何か美味しいものでも食べようか」


 心地の良い声に誘われ、気づけばぼくは彼の掌の上に乗っていた。

 彼はそのままぼくを顔の近くまで持っていくと、改めて「こんにちは」と笑いかける。

 空が僅かに近づいて、ぼくは彼の髪の向こうに見える青を見上げた。

 不思議な人。

 この人はぼくのことを殺そうとはしないのだろうか。

 汚いと言われ続けたぼくの身体をそっと指先で撫でた彼からは殺意なんてこれっぽっちも感じない。それどころか、穏やかな陽だまりに包まれているようだった。


「じゃあ行こう」


 彼が歩き出すと、ふわりと花の香りが通り過ぎていく。

 こんなところに花は咲いていなかったはず。

 ぼくは思わず彼の掌の上できょろきょろと辺りを見回した。

  


 彼が連れてきてくれたのは、ぼくも一度来たことのあるレストランだった。

 とはいえ、ぼくが来たのはここのごみ置き場で、残飯を探してごみに埋もれていただけなのだけど。

 他の人にぼくの存在が気付かれないように、彼は上等そうな上着のポケットにぼくを隠してくれた。繊細に織り込まれた衣に包まれたぼくは、感じたことのないさらさらとした感触になかなか慣れなかった。

 彼はエスプレッソを飲みながら、一緒に頼んだケーキをぼくにこっそり分け与えてくれた。初めて食べたその滑らかな食感と甘いチョコレートの味に、ぼくは脳天を突かれたようにくらくらとする。

 アルコールを飲んだわけでもないのに、この味に酔ってしまいそうだ。

 彼はポケットの中で満足そうに伸びてしまったぼくをちらりと見て、目元を緩めて笑っていた。


 食事をした後も、彼はぼくのことを気にかけてくれる。

 ポケットの居心地がよくてぼくがなかなか出ようとしなかったから、彼は散歩をしようと言って街をぶらぶらと歩き出した。

 彼が歩くのは当然表の大通り。ぼくがこれまで避け続けていた道だ。

 でも今は、彼のポケットの中で堂々とこの場所を歩くことが出来る。

 ぼくはポケットの中からそっと景色を覗き込み、二度と見ることはないであろうその光景を胸に閉じ込めた。

 しばらく歩くと、彼は休憩しようと言って川沿いに広がる公園のベンチに腰を掛ける。彼の手に誘われて外に出てみると、昼下がりの公園はたくさんの人で賑わっていた。

 もう学校も終わっているのだろう。鞄を持った子どもたちが噴水の周りを賑やかに彩って笑っている。

 ちらりと横目で見た時、彼はそんな光景を愛おしそうに見つめて穏やかに微笑んでいた。

 人間のことが分からないぼくでもなんとなく分かる。

 こんなぼくに優しくしてくれる彼のことだ。

 こういう人のことを、きっと親切な人と言うのだろうと。


ちゅう


 ぼくが感謝の言葉をかけると、その声に気づいた彼の瞳がこちらを向く。

 彼が何かを言おうとした時、無邪気な声がそこに覆いかぶさった。


「うわぁっ! ネズミだっ。お兄さん、このネズミ、飼っているの?」


 キラキラと目を輝かせた少年がぼくらの前に立ち、柔らかい頬を緩ませている。


「まだ友だちになったばかりだ」


 彼は少年に向かって優しくそう答え、ぼくに向かってウィンクをした。


「そうなんだ! このネズミ、すっごく可愛いね!」


 少年は彼の隣に座り込むと、掌に乗ったぼくのことをじーっと興味津々に見つめてくる。吸い込まれそうなほどに見つめてくるものだから、ぼくは少しだけ少年から離れた。


「あっ。ごめん。こわかったかな……?」


 すると少年は慌てて眉を下げて申し訳なさそうに肩をすくめた。

 あれ。

 もしかしてこの子も、ぼくのこと汚いって思わないのかな。


ちゅうちゅうちゅう


「ははははっ。喋ってくれたよ! やっぱりこわかったよね。ごめんね」


 少年はぼくの声に嬉しそうに反応をすると、ぺこりと頭を下げた。


「ねぇお兄さん。この子、名前はあるの?」

「いいや。まだ教えてくれないんだ」

「へぇ! 一体なんて名前なんだろうねっ」


ちゅうちゅう


 名前なんてないよ。

 快活な瞳にそう返す。でも少年はにこにこ笑い返すだけだった。

 黒に近い色をした髪の少年は学校帰りなのだろうか。

 ぺたんこのリュックを背負ったまま、少しよれたシャツの上に質素なモカ色のジレを着てグレーのキャスケットをかぶっていた。その十一か二歳くらいの少年は、今度はぼくを拾ってくれた彼の方を見上げる。


「ネズミとお兄さんは、今日は何をしていたの?」

「ちょっとしたランチを食べに行ったばかりだよ」

「ふぅん。ネズミ、お腹空いてたんだね」

「ああそうだよ。満足してくれてるといいんだけど」

「お兄さんなら美味しいもの知ってそうだから、きっと満足しているはずだよ」

「ははは。ありがとう」

「ねぇねぇ。お兄さんはこのネズミを飼うの?」

「……いいや。そうしたいのは山々だけど、現実的にはちょっと難しいかな」

「どうして?」

「大家さんが厳しくてね」

「ははっ。お兄さん、お金持ちそうなのに。それでも大家さんって厳しいものなんだっ!」


 少年は彼の返事にカラカラと笑うと、次の瞬間に「あ!」と目を見開いた。


「お兄さんが飼えないなら、僕がこの子を預かってもいい? 僕、ペットを飼ってみたかったんだ。でもうちはそんなにお金がないから、ペットを飼う余裕なんてないってママに言われて。でもネズミなら身体も小さいし、ごはんだって僕と同じものを食べられるんだよねっ?」


 少年の提案に目をぱちぱちとさせているのはぼくだけではなかったようだ。

 見上げると、彼もまた同じく驚いていたから。


「ねぇお兄さん。駄目かな? 僕、しっかりとお世話するからっ」

「こちらとしては嬉しい提案だけど……。でも、君のママがちゃんと承諾しないと、それは受けられないなぁ」

「えー? 駄目?」

「ママもこの子の家族になるんだ。肩身の狭い思いはさせられないよ」


 彼がぼくの頭を軽く撫でる。ぼくは気持ちよくてついうとうとしてしまった。


「うーん……確かにそうだけど…………あっ! ちょうどいいところに!」


 腕を組んで悩んだ矢先、少年は何かを見つけて勢いよく立ち上がる。


「ママ!」


 大きく手を振っている相手は少年のお母さんなのだろうか。

 噴水の向こうをきょろきょろと顔を動かしながら歩いていた栗色の髪の女性がハッとこちらを見つけた。


「リシャート! もう、勝手に動き回らないで。見失うところだったじゃない」

「ごめんママ。でも、このお兄さんと話したくて!」

「お兄さん?」


 緩やかな波を描いたウェーブの髪は、どちらかと言うと路地で見かけた男たちに似てぱさぱさとしている印象だった。彼女はその髪を右側に一つにまとめて結んでいるから、まるでいつもぼくを襲ってくる箒のようだ。


「はじめまして。すみません、私が彼を足止めしてしまいました」


 ぼくをポケットに入れた彼は立ち上がるなり丁寧に頭を下げる。


「いいえっ! こちらこそっ、息子がご迷惑を……!」

「いえいえ。迷惑なんてとんでもありません。楽しい話が出来ましたから」


 慌てて腰から身体を折り曲げて頭を下げる女の人に向かって、彼は首を横に振って穏やかに微笑んだ。

 女の人はそんな彼の表情を見て、ほっとしたように息を吐きだす。

 そばかすの頬を緩めて落ち着いたような彼女の反応に、彼もまた目元を緩めた。

 ポケットからだとよくは見えない。

 でも女の人と少年の口元がよく似ていたから、やっぱり二人は親子なのだと分かる。


「ねぇママっ! 僕、ネズミを飼いたい!」

「え……? ネズミ……?」


 一旦この場が落ち着いたと判断したのだろう。

 少年は早速お母さんに向かってさっき話していたことを切り出す。当然お母さんは驚くから、ぽかんとしたまま頬に手を当てていた。


「うんっ! このお兄さんに譲ってもらうんだ!」


 そう言って少年は彼のポケットをじーっと見る。つまりは、ぼくのことを見ている。ぼくはそーっとポケットから顔を出して少年のお母さんの方を見た。

 お母さんは顔を覗かせたぼくのことを見て小さく口を開く。まだ驚いているみたい。


「すみません。この小さな紳士が彼のお世話をしてくれると名乗り出てくれたもので。私も嬉しくなってしまいまして。でも、強要するわけではありませんから。貴女の都合もあるでしょうし」

「いえいえいえっ! 息子がまた突拍子もないお願いをしてしまい……!」


 お母さんは彼に対して恐縮するように肩をすぼめる。だからぼくに似て華奢な身体の彼女が棒切れのように薄くなってしまったように見えた。


「リシャート。そんなこと言って、ちゃんとお世話できるの? 命を預かるっているのは、すごく大変なことなのよ?」

「分かってるよ! でも僕、家にいる時間が寂しいんだ。だから家でも話せる友だちが欲しいんだ……!」

「……リシャート」


 お母さんは少年の懇願にジワリと声を震わせた。ぼくをポケットから出した彼は、そんな二人の様子を見て穏やかな表情を若干緊張させる。


「……分かったわ。ちゃんとお世話するのよ?」

「もちろんだよママ! ありがとう……!」


 少年はお母さんにハグをしてそのまま嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねた。


「お兄さん! ママの許可もらえたよ!」

「うん。そうみたいだね」


 彼はお母さんから離れた少年の輝く表情に向かって優しく目元を緩めた。さっき現れていた緊張はもうない。


「これから、この子のことよろしくね」

「うんっ!」


 掌に乗ったぼくのことを少年の方へと差し出す。ぼくと目が合った彼は、またウィンクをしてぼくに微笑みかけた。

 少年が差し出した掌にぼくが移ると、彼は少年のお母さんの方を見やる。


「お騒がせしてすみません。何か困ったことがあったら、すぐに言ってください。この子は私のネズミでもあります。協力させてくださいね」

「……っ! すっ、すみませんっ。お気遣いいただきありがとうございます……っ」


 彼に微笑まれたお母さんはがばっと頭を下げ、ほのかに赤く染まった頬をすぐに隠した。


「お兄さん。いつでもこの子に会いに来ていいよ」

「本当かい? リシャートは優しいな」

「えへへ。そんなことないよ。だってこの子はお兄さんの友だちでしょ?」

「うん」


 少年はぼくを両手で包み込んでふにゃりと笑う。

 友だち。

 ぼく、この二人と友だちになれたのかな。

 もしそうなら、生まれて初めての友だちだ。


「そうだっ。お兄さんの名前は? お兄さん、じゃ名前にならないよね? 僕らももう友だちだよ。なら名前を知らないと!」


 少年はお母さんの隣に並んでから背の高い彼に向かって無邪気に声をかけ続ける。


「……アントワーヌ。よろしくね、リシャート」

「うんっ! またねっ! アントワーヌ!」


 上品に手を振るアントワーヌに、リシャートは元気よく手を振り返した。

 アントワーヌのネイビーの上着が徐々に遠くなっていく。

 ぼくはリシャートの掌に乗ったまま、一線を画した彼の風貌が公園を横切る人たちの服に塗れていくまでじっと見つめ続けた。



 リシャートはアントワーヌのようにぼくにとても親切だった。

 家に帰ったリシャートは、とっておきをあげると言ってチーズの欠片をくれた。ぼくがかぶりつくと、リシャートはやっぱりネズミはチーズが好きなのかなぁとか言いながら膝を抱えてぼくのことを見下ろしていた。


「そんなにチーズが好きなら、君のことはマージュって呼ぶね」


 ぼくが夢中でチーズを頬張っている間に、彼はぼくに名前まで付けていた。

 リシャートと彼のお母さんの家はとても小さかった。

 埃にまみれた古ぼけたアパルトマンの一室ではあるけど、子ども一人と大人一人で住むのが精一杯なくらい狭い。だけど家具が少ないから、彼らはそこまで窮屈な思いはしていないようだった。

 リシャートはぼくのために小さな木箱のベッドを作ってくれて、ぼくは贅沢なことに温かい寝床を得た。

 襤褸布が布団の代わりだったけど、それでもぼくにとっては極上の毛布だった。


 彼らとしばらく生活をして気づいたことがある。

 ぼくも街をずっと彷徨っていたから分かること。

 リシャートたちは、ぼくらと同じだ。

 もちろんちゃんと家を持っているし、お母さんは仕事をしていて、リシャートは学校に通っている。だけど食べるものは少ないし、服だってどんなに古くなろうと継ぎ接ぎをして捨てることはない。

 お母さんも朝から晩まで働き詰めで家にいる時間は少ないし、息つく暇もない。

 ぼくが空腹に殺されないように必死に生きていたのとどこが違うのだろう。

 ぼくとしては毎日のように死の淵を見ていた日々とはおさらばして、新しい友だちのもとで生活を出来ることは嬉しかった。

 だけどよく知らなかった人間の生活も、思っていたのより楽ではないのだと思うと少し悲しくもなった。


 でも、ぼくがリシャートの家に来たことで、彼らの生活も少しは変わったらしい。

 リシャートは家で独りぼっちじゃなくなったから、ぼくと話をするときはすごく楽しそう。勉強だって、ぼくが見張ってるからとか言って、前よりやる気が出るんだって。

 リシャートのお母さん、イヴェットもそうだ。

 イヴェットはリシャートの父親と別れた後、一人で彼のことを育ててきたそうだ。

 その間、自分のことなど二の次三の次で、リシャートの生活のことだけを考えて暮らしてきた。お洒落をすることも化粧をすることも後回しにして、身を粉にして働き続けてきたのだそう。

 だけどリシャート曰く、アントワーヌがぼくに会いに来るようになってから彼女の表情が明るくなったらしい。別に笑わない人だったわけじゃない。そうじゃなくて、なんというか、華やかになった、っていうことみたいだ。

 アントワーヌはぼくの様子を見に、近くを通りがかった時に何度か家に訪ねてきた。ぼくは彼に撫でられるのが好きだったから、彼が来てくれるのは嬉しかった。

 リシャートもアントワーヌとはすっかり仲良しになって、一緒にご飯を作ったり、掃除をしたり、本を読んだりして時間を過ごした。

 イヴェットが帰宅すると、アントワーヌは彼女のことを笑顔で迎えてその日のリシャートの様子を話す。

 リシャートはそんな二人の会話を聞くのがお気に入りの時間になったようで、ご飯を食べる手を止めて嬉しそうに笑う。

 だからその間に、ぼくはリシャートのごはんを少しだけ貰っちゃうんだ。


 ある晩のこと。

 その日、リシャートは勉強をした後で机に突っ伏したまま眠ってしまった。

 ぼくも寝ようかなって木箱に入ったら、寝たはずのリシャートがむくりと身体を起こした。どうしたんだろうと思って彼の後をついて行く。すると、トイレに行きたかったみたいだ。リシャートは暗がりの廊下を抜けて用を足し、また部屋に戻ろうとした。だけどその途中で、ぼんやりとした電気のついたキッチンが目に入ったのか彼は足を止める。ぼくはリシャートの肩まで登り、彼が見ている方を見やった。


「アントワーヌ。いいの。わたしは、あなたが誰かなんて気にしないわ」

「イヴェット……でも……」

「あなたはアントワーヌよ。とても優しくて、勇敢な人。あなたはわたしの苦しみを分かち合ってくれた。わたしにも、あなたを救うことはできないの……? いいえ。救うんてそんな偉そうなこと……。でも、わたしに、わたしにだって出来ることがあると思うの。一人で苦しまないで、アントワーヌ」

「イヴェット…………」


 夜の空気に息を潜めた声が聞こえてくる。リシャートはぼんやりとした眼で電球に浮かぶ二人の影に注目していた。


「愛しているわ、アントワーヌ」


 二つの影が一つになる。

 アントワーヌは微かに鼻をすするイヴェットのことを優しく包み込み、彼女は彼の胸元に頬を寄せて背中に手を回した。


「……マージュ、見える?」


ちゅう


「へへ……やったね。……ふふっ」


ちゅう?


「さぁ、もう寝ようマージュ」


 リシャートはぼくを掌に乗せると、嬉しさを滲ませた表情ではにかんだ。


ちゅう


 よくは分からない。

 だけど。

 リシャートがすごく幸せそうな顔をしているから、ぼくもなんだか嬉しいな。



 アントワーヌが家を訪れる頻度が前よりも多くなって、忙殺されていたイヴェットの顔色もぐんと良くなった。

 家のことはアントワーヌがやっていてくれるし、そのおかげかリシャートの時間にも余裕が出来て友だちと外に遊びに行くようにもなった。

 イヴェットとアントワーヌの関係は、ネズミのぼくが見ていても良いものなんだって分かるようになってきた。

 あの日リシャートが笑っていた意味もよく分かる。

 たぶん、リシャートは家族が欲しかった。もちろんイヴェットのことを愛しているし、大好きなのは伝わってくる。だけどそれだけじゃなくて、彼は恐らくお父さん、もしくはお兄さんが欲しかったんだ。

 ネズミのぼくはリシャートの弟。

 アントワーヌはお父さんにもお兄さんにもなれる唯一の存在。

 ぼくも、友だちだけじゃなくて家族の一員になれたんだ。


 リシャートは勉強の合間にたまに眉間に皺を寄せている。

 それはぼくを呼んでいる合図でもあるから、ぼくは木箱から出て彼の前にちょこんと座った。


「ねぇマージュ。アントワーヌって、何の仕事をしていると思う?」


 仕事?

 そういえば、何をしているんだろう。

 昼から家の手伝いに来てくれる日もあるし、泊まっていくことだってある。

 そんな日も、朝から仕事に出かけるわけでもない。

 イヴェットはいつも同じ時間に出かけているのに。


「お金持ちだから、土地でも持っているのかな」


 うーん、とリシャートはペンを鼻の下に乗せて上唇を尖らせる。


「マージュ、気にならない?」


ちゅうちゅう


 確かに興味はある。

 彼は上等な服を着ているにもかかわらずドブみたいなぼくのことを拾ってくれた。

 アントワーヌと同じような格好をしている人は、決してぼくらの存在など許してくれないのに。

 ぼくはリシャートの指先にちょこんと手を乗せる。

 ぼくももっとアントワーヌのことが知りたい。

 だって、ぼくにとっての恩人だから。


「もしかして、軍人さんかもしれないよね」


 軍人?

 ぼくは知らない言葉に首を傾げた。


「はははっ。難しかったかな。……とにかく、どうにか聞くことはできないかなぁ。いつもはぐらかされちゃうんだよね」


 リシャートはまた天井を見上げて足をぶらぶらとさせ始めた。

 彼のことを知るにはどうすればいいのだろう。

 ぼくは彼と話をすることが出来ない。

 でも。


ちゅうっ!


「ん? どうしたのマージュ。何か思いついた?」


 ぼくだからこそ出来ることが、ひとつだけあった。



 次にアントワーヌが家に訪ねてきた時、ぼくは一晩泊まった彼の上着のポケットに潜り込んだ。いつも彼が着ているこの上着。前に入った時には気づかなかったけど、石鹸のいい香りが漂っている。帰り際に見送りに来たリシャートにちらりと顔を覗かせて、ちょっと行ってくるねと目線で伝えた。

 もし、ぼくがいなくなったと心配させてしまったら嫌だから。

 リシャートはちゃんとぼくに気づいてくれて、こくりと頷いて眉をきりっとさせる。

 ぼくがスパイをするってこと、すぐに察してくれたみたいだ。


 アントワーヌは家を出ると、ぼくがポケットにいることにも気づかないまま街を歩きだす。一度彼の家に帰るのかなと思ったけど、実際はそうではなかった。

 彼はそのまま迷うことなくある場所を目指しているようだった。

 リシャートたちの家から歩いていくには少し遠いのか、彼は途中で車を拾う。

 彼が手を挙げると、タイミングよく黒々とした流線型の車が停まるから少しだけ驚いてしまった。不自然だったけど、人間界ではよくあることなんだろう。

 乗り込んだ車の様子をよく見ることはできなかった。後部座席に座った彼の隣には先約がいて、入るなり彼と話し出したからだ。

 もしぼくの存在がバレたらまずい。それくらいはネズミでも分かる。いや、ネズミだからこそわかる。


「首尾は上々か? アントワーヌ」


 アントワーヌの隣に座る黒いスーツを着た恰幅のいい男性が低い声を鳴らした。


「何故、私に聞くんです?」

「冷たいことを言うな。お前以外に聞ける奴などおらん」

「おだてたって駄目ですよ。議会に出入りするようになってから何年経つと? 少しは心を開くべきかと」

「……お説教はよさんか」

「ふふ。そう聞こえました?」


 アントワーヌは柔らかに笑い声を出した。でもいつもぼくらの家で聞く笑い声よりもなんだか張りがなくて、ぼくの耳には空虚な音にも聞こえた。


「とにかく……。連中の考えは俺にはちと理解できん。協定を結んでおいて、易々と裏切ることが本当に得策なのか? お前も分かっているんだろう? 何故やつらはお前の言うことを聞かぬのだ?」

「あなたの言うことなら、耳を貸してもらえるかもしれませんよ」

「……買いかぶるな」

「まさか。私が本音を語れるのは、あなただけですから」

「…………お前にそう言われるとなんだか怖いな」

「はは。失礼ですね」


 窓際に肘をついて外を見ているアントワーヌの表情が窓に微かに映り込む。

 ポケットの中からうっすらと見えた彼の表情がどこか憂いているように見えたのはぼくの見間違いかもしれない。

 それからの二人はぼくが聞いたことのない言語で会話をし始めたから、ぼくは大人しく車の振動に揺られながら目的地への到着を待った。

 …………でも、大人しすぎたのはいけなかったのだと思う。

 次にぼくが目を覚ました時には、アントワーヌは車を降りていて、どこかの建物の中にすでに入っていた。

 自分がいまどこにいるのか分からず、ぼくは慎重にポケットから頭を覗かせる。

 見えたのは、豪勢な金色の模様が施された白い壁。少し見上げると、シャンデリアの傘がこちらを見下ろしていた。


「アントワーヌ。それ以上は助言の域を越えている。我々は君に助言以上のことは望まない。ただその綺麗な面で会議に華を添えてくれればそれでいいんだよ。いつものように黙って向こうの気を逸らせ」


 天国に来たのだろうか。

 見たこともない造りの内装にぼくが見入っていると、神様とは思えない声が聞こえてきた。車の中で聞いた声ともまた違う。

 アントワーヌはふかふかのクッションが使われた椅子に浅く腰を掛けていて、その声の主と向かい合っているようだ。

 ぼくは相手に気づかれないように急いでポケットの中に身を隠す。


「承知しております。ただ、意見を求められたので述べたまでですよ。お飾りの戯言など、聞くも聞かぬも自由。あなた次第ではないですか」


 アントワーヌの声は穏やかだ。でもやっぱり、どこか上の空。


「…………分かっているのならいい。我らは利用できるものはなんでも利用する。せっかくの機会をくれるのだ。長として、彼らの仕事も汲み取ってあげないとね。ひと月後の同盟会議。君はそこで存分に楽しめばいいさ」

「はは……。お楽しみでも用意していただけるのですか」

「なに。君なら勝手に楽しめるだろう」

「その評価には感謝すべきですね」

「なら感謝の証拠に不穏因子を潰す名案でも練ってくれ。君の得意分野だろう」

「…………ええ。そうですね」


 アントワーヌは静かな声で返事をすると、スッと立ち上がって軽く礼をする。


「それでは私はこれで」

「ああ。頼りにしているぞ、アントワーヌ」


 不快な声に見送られ、アントワーヌは厳かな部屋の扉を閉めた。


「矛盾しているな」


 ぼそっと呟いたアントワーヌは、そのままカツカツとブーツ底の音を立てて廊下を歩く。こんなに足音が響くなんて、ここは変な場所だ。ネズミが忍び込んだらすぐにばれてしまいそうだ。

 ぼくらには縁のない豪勢な建物で、アントワーヌは行き交う人々と頻繁に挨拶を交わし続けた。彼が歩く度に誰かが話しかけてくるせいだ。

 どれもアントワーヌとは違って堅い調子の声色ばかりで、彼の声だけが浮いているように思えた。

 リシャートが知りたがっていた彼の仕事。

 もしこれがそうだというのならば、ぼくにはなんて説明をすればいいのか分からない。

 アントワーヌ。君は一体、ここで何をしているの?

 会話をすることが出来たらよかったのに。

 そう思っているうちに、彼はまた車に乗り込む。

 彼が何も言わないまま、車は当然のようにある場所に向かって走り出した。

 今度は寝ないように気を付けながら、ぼくは窓に映る彼の顔を見上げる。

 どうしてそんなに険しい顔をしているのだろう。

 リシャートやイヴェットには見せたことがないであろうその表情。

 ずっと見ていると、ぼくは少しだけ色褪せていたあの日々を思い出す。

 生きるか死ぬか。

 刃物や棍棒、箒に追い回されたあの恐怖。

 ぼくは今、それと同じ不安をアントワーヌに感じてしまうんだ。


 車が次に止まったのは、さっきの豪勢な建物からはそんなに離れていない場所だった。周りに立ち並ぶのは大きな家ばかり。アントワーヌはその中で、見るからにシックで重厚な雰囲気が漂うアパルトマンの扉を開ける。

 前にネズミ仲間に聞いたことがあるけど、この辺りは特段豪勢な食べ物があると聞いた。

 ぼくらが住んでいるアパルトマンとは比べ物にならないくらい清潔なその場所は、中に入るだけで香水の香りが漂ってきた。

 リシャートが思っていた通り、やはりアントワーヌはお金持ちなのか。

 彼は階段で最上階まで上がり自室の鍵を開ける。このフロアには彼しか住んでいないみたいだ。

 部屋の中に入ったアントワーヌは、ぼくが入っている上着を脱いで近くの椅子に掛けた。ぼくは落っこちないように慌てて体勢を整え、部屋の中をちらりと覗く。

 内装も外の雰囲気とは大きく変わらない。

 家具の色調は壁の白に合うように茶系で統一されていて、外の光を取り込んで優雅に輝いている。ぼくもこんな家には忍び込んだことはない。大体お手伝いさんとかがいて、必ず見つかってしまうからだ。

 でも今ここにいるのは彼一人。

 広い部屋の中、もしかしたらぼくが歩き回っていても気づかれないかも。

 ぼくは意を決してポケットから飛び出す。

 すぐに椅子の下に隠れ込んだけど、アントワーヌの足は違う方向へと進んで視界から消えていった。恐る恐る後を追いかけてみれば、彼はシャワーを浴びにいったみたいだ。これは絶好の機会だ。

 ぼくは少し強気になってせかせかと部屋中を駆け回った。

 何かリシャートに渡すヒントみたいなものはないだろうか。

 ぼくは人間の仕事のことは難しすぎてよく分からない。

 でも賢いリシャートならヒントさえあれば分かってしまうはずだ。

 美しく整理整頓された机の上や棚の上を走り抜け、ぼくは必死になってリシャートへのお土産を探した。まるでご飯を探し回っていた時のようで、久しぶりに血が騒ぐせいか気分が高揚してきたぼくは、アントワーヌの寝室へと向かった。

 リシャートは大切なものをベッドの傍に置いている。だから人間って、きっとそうなんだと思ったから。

 一人分にしては大きいベッドをシーツを伝って駆けあがり、隣に置いてある机の上に立つ。一段だけある引き出し。どうにかこれを開けたい。

 机の上から助走をつけて取っ手に足をかけ、勢いのままにジャンプしてみる。

 すると、どうにか少しだけ引き出しが動いた。ぼくはもう一度ベッドから机の上に走って開いた溝に身体を食い込ませる。

 ぐいぐいぐいと押し続けると、ぼくの身体はどさりと引き出しの中に落ちた。喜んでいる余裕なんてないけど、やっぱり達成感は隠せない。

 ぼくはまだ興奮したまま引き出しの中を探った。中にはノートとかペンが入っていて、他には艶々に光るいくつかのバッジが転がっているだけ。

 これがどんなものなのかぼくには見当もつかないけど、きっとリシャートには分かるはず。

 ぼくは根拠のない自信とともにバッジをくわえて急いで引き出しから床へと降りる。と、いうより、バッジの重みでころころと床に落ちて転がってしまったのだけど。

 そのままバッジを抱えてたどたどしく歩く。

 早くしないとアントワーヌがシャワーから出てきてしまう。

 ぼくはどうにか上着のポケットに戻り、手に入れたバッジにもたれかかった。

 ひんやりとしている金属製のそれは、花の模様の上に鶏のようなシルエットが線となって描かれている。

 ぼくがほっとしているのも束の間。

 シャワーを終えたアントワーヌは、そのままぼくが入った上着を無造作に手に取り家を出ていく。

 もうぼくにはこれくらい分かっていたことだよ。

 アントワーヌは、絶対にぼくらの家に帰って来るって。



 アントワーヌがぼくらの家に帰ってきたのは暗くなってからだった。

 彼が遠い家から歩いてこの場所まで来たからだ。途中、イヴェットたちにお菓子のお土産を買って。

 ぼくが持ち帰ったお土産とは違って、すごく価値のある物だと思う。

 既に帰ってきていたイヴェットはアントワーヌが扉を開けるなり嬉しそうに彼を抱きしめる。ぼくはその隙にポケットから出て、バッジとともにリシャートのもとへと走った。

 ちらりと振り返ると、アントワーヌはイヴェットのことを深い慈しみの眼差しで見つめ、そのまま二人はキスをして微笑み合った。

 ぼくがバッジを持ち出したこともバレてなさそうだ。

 安心したぼくは、部屋で勉強をしているリシャートに向かって声を上げる。


ちゅうちゅうちゅう!


 リシャートはぼくの小さな声にすぐに気づいてこちらを見る。


「おかえりマージュ! 無事だったか?」


 両手でぼくを包み込んだリシャートは、ぼくが抱えているバッジに気づいて首を傾げた。


「マージュ、それ、どうしたんだ?」


ちゅう! ちゅうちゅう


「あっ。もしかして! アントワーヌの……?」


ちゅう!


「すごいぞマージュ! 君はとんだ英雄だ!」


 リシャートはぼくの頭をわしゃわしゃと撫でて喜んだ。

 だからぼくは嬉しくて、ぐるん、と彼の掌の上で転がった。


「……これは……なんのバッジだろう……」


 バッジを机の上に置いたリシャートは、ぼくをその隣に置いて腕を組む。うんうん考えるその姿は、まさに真剣そのものだった。


「…………まてよ? これ、どこかで……」


 ぶつぶつと独り言を呟くリシャート。がさごそと学校鞄をあさって一冊の本を取り出した。


「やっぱり! これ、国章の一つだ……!」


 国章?

 リシャートは難しい言葉をたくさん知っている。

 置いてけぼりのぼくを憐れんだのか、リシャートはにこっと笑って丁寧に説明してくれた。


「国章はね、この国を代表するものなんだ。特別な人しか持つことは許されない。そうだなぁ……政治家とか、軍の偉い人とか……旧貴族の人しか持てないと思うよ。しかもこの模様はすごく珍しくて、ほんとうにごく僅かな人間しか持てないんだよ!」


 特別な人。

 ということは、アントワーヌも……?

 リシャートも同じことを思ったらしい。

 バッジを掲げて、目をキラキラとさせている。


「すごいや……! まさか、こんなものを持っている人が近くにいるなんて……!」


 興奮を抑えきれなくなったのか、リシャートはそのままキッチンへと駆け出す。

 ぼくは慌てて彼の肩に乗っかって振り落とされないようにぎゅうっとつかまった。


「アントワーヌ! やっぱり、あなたは凄い人だったんだね!」

「……リシャート? 突然どうしたんだ?」


 リシャートの興奮とは対照的に、イヴェットのことを手伝っていたアントワーヌは目を丸くして真っ直ぐにリシャートのことを見つめる。


「これ……! このバッジはあなたのですよね……?」


 それはこっそり盗んできたものなのに。

 リシャートはそんなことはどうでもいいのか表情を明るくさせたままバッジをずいっとアントワーヌに見せた。

 ぼくは少し気まずくて彼の首の後ろに身を隠す。


「…………どこでそれを」


 アントワーヌはぽつりとそう言いかけてから、ぼくの長い尻尾に気づいて声を止めた。 


「……リシャート。確かにこれは特別なものだ。でも私は……」

「大丈夫だよ! 僕らに隠し事なんていらない! だって、僕らはもう家族じゃないか! 僕、アントワーヌのことなんでも知りたい! だけど秘密事はちゃんと守るから!」

「リシャート、やめなさい」


 見かねたイヴェットが二人の間に入り込む。しかしリシャートの好奇心はもう止まらない。


「ママ! 僕のことは信用できないって言うの? 僕は、アントワーヌの秘密を守れないって……? そんなに僕は、家族として頼りないの……?」


 しゅん、と肩を落とすリシャートに、イヴェットの瞳がぐらりと揺れる。


「ママは知ってるんでしょ? アントワーヌの仕事。僕だけ蚊帳の外なんて……寂しいよ。僕、二人の邪魔……?」

「そんなことはないわ! リシャート! ばかなことはいわないで! わたしは……! 誰よりもあなたのことが大切なの……!」


 イヴェットはリシャートのことを力強く抱きしめる。その衝撃でぼくは落っこちそうになったから、急いでリシャートの頭の上に行く。するとアントワーヌと目が合って、ぼくは罪悪感で彼から目を逸らした。


「リシャートのことは誰よりも信頼してる。あなた以上に心強い存在はいないわ。でも、でもねリシャート。それとこれとは話がちょっと違うの。とても複雑なのよ……」

「ママ……」

「ごめんなさいリシャート。あなたを守るためでもあるの」

「そんなの嘘だ……! 僕のことを愛しているなら、隠し事なんてやめてよ。僕はママを守りたい。知らないことがあると、僕はママを守れないじゃないか!」


 リシャートは顔を歪ませながらイヴェットのことを引き剥がす。

 その顔にはぽろぽろと涙がこぼれ落ち、イヴェットも同じように頬を濡らしていた。


「……イヴェット、すまない。私のせいで」

「やめて……! アントワーヌ、あなたのせいじゃない! 絶対に……!」


 イヴェットは両耳を塞ぐように両手で顔を挟もうとする。


「リシャート。君のママを責めないでくれ。すべては私がここにいることが間違いなんだ」

「アントワーヌ……!」

「イヴェット。ありがとう。しかしやはり、私はここにいてはいけない」

「いや……! どこにも行かないでアントワーヌ……! わたしは、あなたの全てを受け入れる覚悟があるわ……!」


 イヴェットはアントワーヌの胸元に両手の拳をとんっとぶつけた。彼が今にもこの場からいなくなりそうだからだろうか。


「アントワーヌ! 僕にだってその覚悟がある! お願いだ! 僕を家族だと認めてよ……!」


 リシャートも悲痛な声で訴えかける。アントワーヌは顔いっぱいに苦悩を滲ませ、切なく瞳を歪ませた。


「しかし……」

「……アントワーヌ。お願い……。リシャートにも、真実を……」

「イヴェット……」


 アントワーヌはイヴェットの脆い肩を抱き寄せた。隙間風はしょっちゅうなこの部屋も、今は風が吹いていない。だから寒くはないのに、彼女は豪雪の中にいるみたいに震えていたからだろう。


「…………分かった……君たちには敵わないな……」

「アントワーヌ……!」


 リシャートの声が安堵に満ちた。

 ぼくは勝手に持ち帰ったバッジで皆が壊れてしまいそうになったことがただ恐ろしくて、かたかたと震えながらリシャートの肩へと戻る。やっぱりまだ、彼らの目を見る勇気はない。


「リシャート。紅茶を淹れたから、そこに座って話を聞いて欲しい」

「うん。アントワーヌ」


 言われた通り椅子に座るリシャート。

 アントワーヌの声は穏やかで大好きだ。

 だけど今は、絢爛な背景の前で聞いた大勢の声のように、どこか強張っているように思えた。


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