マザーボード
お腹空いた。
何か食べるものは無いかと、一人暮らし用の小型冷蔵庫を見る。
缶チューハイと、さっきコンビニで買ったサンマの缶詰・・・それとマヨネーズ。
それら全てを両手に抱え、三咲はノートパソコンの前に戻った。
今迄合コンだのバイトだので先延ばしにしてきた課題を、やっと今夜仕上げることができたのだ。
ミシミシと音がしそうに痛む背中を、座イスに押し付けて伸ばす。時計は深夜2時42分を示していた。
―――嫌だな、夏の夜中って。
耳鳴りがするくらい静かな部屋の中で、誰かと話がしたくて携帯電話を開いたのだが
流石にこの時間では友人にメールするのも気が引ける。
所為無く受信ボックスを開いて迷惑メールを次々に消す。アドレス変えようかな、迷惑メール増えたし。ぼんやりと考えていると、突然着信画面になった。
着信 理沙
ほとんど反射的に、着信メロディが鳴る前に三咲は電話に出た。
「びっくりした。何?」
「ねぇ、三咲もう聞いた?」
開口一番、深夜の非礼も詫びずに親友の理沙ははずんだ声で言った。
「何を?なんかあったの?」
「神宮前の大通りで、事故あったらしいよ!トラックと乗用車!!2名死亡だって!」
「神宮前?!」
このワンルームマンションはその神宮前大通りからほんの少し歩いた所、閑散とした住宅街にあった。
つまり三咲がレポートを仕上げている最中に、ここからほんのわずかのところで人が死んだのだ。しかも2人。
三咲のうなじに、寒気が走った。
「なんでそんな事言うの〜!私これから寝るのに」
「ごめんごめん。だって何かびっくりしちゃって」
「でも、そんな大きな音したのかなあ。全然気付かなかった」
「ずっと家に居たの?てゆうか、起きてたんだ」
「レポートやってた。もう終わったけど」
「へぇ、大変だぁ。ま、塩まいて寝れば大丈夫だよ多分」
「ははは。じゃあそうするわ」
「じゃあね〜」
「ばいばい」
・・・ぷつ、と電話が切れたとたん、また静寂が降りてきた。今度はさっきよりも幾分か重かった。
自分の咳払いが部屋の中で響き、ふと湧き上がるこの世に自分だけしか居ないような不安。
身体こそ疲れているが、精神の方は完全に覚めている。今の話を聞いたら、尚更眠れなくなってしまったようだ。
三咲は携帯電話をベッドの上に投げ捨てて、再びパソコンの前に座りチューハイを一気に半分まで飲んだ。
――もっといっぱい買ってくればよかった。チューハイ一本なんて、今夜を過ごすには余りに心細い。
実家からテレビを一つ持ってくればよかったと、三咲は心底思った。
極力何も考えないように、ほとんど呆けたような表情であちこちのサイトを巡る。
明るくなってしまえばこちらのものだ。せいぜいあと2時間もすればベランダから救いの光が差し込むだろう。
ふと、シンク下の戸棚に食パンがある事を思い出した三咲は、マヨネーズを手に勢いよく立ちあがった。・・・が、直ぐにまた腰をおろした。
「あれ・・」
一瞬目を離した隙に、画面が真っ暗になっている。
漆黒のディスプレイの中、キョトンとした表情の自分が覗き返す。
電源が落ちたのだろうか?
エンターキーをがしゃがしゃと連打しても反応は無い。
電源ボタンを押す。
長押ししてみる。
それでも反応は無い。額に汗が滲む。
「これだからメカって脆いのよね」
訳のわからない焦燥感を振り払うように、三咲は独り言を言った。
こんなもの、パソコンのバグに決まっている。他に理由なんてないはずだ。と、まるで自分に言い聞かせるように―――
パソコンのコードを引っこ抜き、直ぐに差し込む。
やはり駄目だ。
やがて諦めると、大きなため息をついてトイレに向かった。
もう1秒でもこのパソコンも見るのは嫌だった。
もう一度理沙に電話してから寝よう。それが良い。パソコンは明日サポートセンターに電話すればいい。おかしな事なんて何も無い。
用を足すと、少しだけ落ち着いた三咲はパンを食べようかどうか迷ったがもう食欲が無かった。うす暗い台所を通って、部屋のドアを開ける。
しっかり閉めたカーテンの上に付けられた壁掛け時計は、もう既に3時を回っていた。
エアコンのタイマーを設定し電気を消すと、ベッドにスライディングして携帯をがっしり掴んだ。着信履歴を見る前に、何だか三咲は違和感を感じた。
手元が妙に明るい。
光源と思しき方向を見ると、パソコンの画面が煌々と点いている。
なんだやっぱりバグか。
そう思い、マウスに手を伸ばして―――――
三咲はギクリとして固まった。
いつの間にかページが動画サイトに移動していた。
そこに投稿された一つの動画のサムネイルに目が釘付けになった。
見覚えのあるこの家のベランダ柵、三咲がここに引っ越した時から大事に育てているワイルドストロベリーの鉢、そこから少し遠くに見える神宮前大通りに落ちる夕日・・・
明らかに、ここから見た例の大通りの風景だった。
心臓が、痛いほど激しく脈打った。食い縛った歯と歯の間から、短い呻き声が洩れる。
それでも眸を逸らすことは出来なかった。
刹那、我に返ったように肩をビクンと震って、両腕を伸ばして
バタン!!
と、満身の力でノートパソコンを閉じた。
飛び退くようにベッドに戻り、頭から布団を被ってぶるぶる震えながら携帯電話を開いた。
着信履歴のいちばん最初に、理沙の名前がある。通話ボタンを何回も押して、スピーカーを耳に当てた。
―――出てよ、お願い!
祈るような気持で、単調な呼び出し音を聞く。その音は、次第に頭の中で反響していく。
やがて呼び出し音が途切れ、留守電になってしまった。
どうして?!ついさっき電話してきたばかりじゃない!!寝てる訳無いでしょう?!!
裏切られたような、泣き出したい気持ちが三咲の心を支配した。
身を固くして、敵の姿の見えない四面楚歌に絶望した。
・・・自分の死にそうな息遣いしか聞こえない筈の、がっしり掴んだ布団の中に、微かに重低音が届いた。
ブーン・・・という、何かのモーターのような音。
徐々に、徐々に、それははっきりと三咲の耳に届いた。
―パソコンの音だ
それがはっきりすると同時に、別の音も聞こえてきた。
遠い遠い、はるか彼方から若いカップルの話し声が聞こえる。内容は判らないが、とても楽しそうだ。それらは自分に近づいて来るようにボリュームを上げ、遂に耐えがたいほどの大音響が脳内に響き渡った。
三咲は狂ったように叫び、鳥のような奇声を上げて部屋を飛び出した。
音は玄関を出て、廊下に出ても追いかけて来る。
―――だめだ!遠くへ、もっと遠くへ行かなきゃ!!
何も履いていない三咲の足が、アスファルトに削られていく。
走って、走って、息が切れても泣きながら三咲は逃げ続けた。
ふと、目の前に朝日が見えた。
オレンジ色の、眩しいほどの太陽が左右に二つ。
安堵したように三咲はその場に座り込んだ。
これで大丈夫。これで全て―――――――――――
理沙がブレーキを踏むのがあと少しでも遅かったら、
もしも理沙より先に車が走っていたら、
三咲も声の主たちと同じ所へ連れ去られていたかも知れない。
理沙の運転するスズキのアルトは、三咲の鼻先僅か数センチで停止した。
驚愕する理沙の目に映ったのは、
焼け焦げてぼろぼろのミュールを片手にしっかりと掴んで呆然と道路に座り込む親友三咲だった。
その夜は二人でネットカフェに泊まり、翌日の昼に二人は近くの寺院を訪ねた。
・・・あの日の夕方、飲酒運転のトラックに命を奪われた二人は、幼馴染の若い男女だったそうだ。勝手な想像に過ぎないが、おそらくは付かず離れずの関係だったのだろう。
そう思うと、三咲は胸がちぎれる位悲しくなった。
あのミュールは多分・・。
「あれ?三咲何持って来たの?」
「これ。だって一応・・・怖いじゃん」
「お払いしてもらうの?」
「そうだよ」
力いっぱい閉めたせいで液晶画面が一部おかしくなっていたが、中のレポートはどうやら無事だった。メモリースティックに移してレポートを提出した後、すっかりPC恐怖症になってしまった三咲は、それから大学でしかレポートを書かなくなった。
早く進んで、良かったかもね。理沙はそう言っていた。
あの夜のことは、きっと生涯忘れられないだろう。
三咲は、人生で初めて心から黙祷を捧げた。