1.日本転移
2026年9月18日12:15-千代田区永田町-
『ここで速報です。衆院は本日正午に開かれた本会議で解散されました。政府は解散後に開く臨時閣議で、衆院選の日程を9月30日公示-10月11日投開票に決める見通……ピッ』
50インチの8Kテレビが漆黒に包まれ、部屋に居た男達の視線が、鷹揚に構えている老人へと注がれる。老人は袴を身に纏い見る者を威圧する巨躯を持つ。米国の外交筋では『サムライ・ファーザー』の名を冠する日本政界のドンと呼ばれている老人だ。名を酒巻一郎という。
「おめでとうございます、幹事長!ついに安田さんが辞任ですよ!こうなると次期首相はうちの大泉さんに決まりそうですね」
秘書の髙瀬が部屋に広がった沈黙を破った。黒縁眼鏡をかけた細い身体の彼は、鋭い眼光と巨躯が取り柄の老人とは対照的であるが、その高い実務能力を買われて、老人の引退後は選挙区を引き継ぐことになっている。
そして、その髙瀬が次期首相について嬉しそうに語っている理由はこれだ。今回の解散総選挙は表向きは安田首相の執政について国民の信を問う形になっているが、当の本人は首相を続けるつもりはない。先日、肺に癌が発見されたためだ。
解散総選挙翌日、安田首相は深刻な体調不良を理由に入院し、内閣総理大臣臨時代理には中道派の島田副首相が就任する。つまり、特別会において内閣総理大臣指名選挙には立候補しないので、次期首相を決めることになる。
事前に自由民権党内の総裁選を行うことになるが、特別会召集が30日以内と定められているので、総裁選は異例の速さで決着を見る運びとなっていた。
「髙瀬、安心するにはまだ早い。安田の右腕は元首相の野口。奴はタカ派のタカ派。うちの大泉とは正反対の野郎だ。取引なしに大泉を支持はしないだろう」
老人は80歳という年齢に似合わない、達者かつ抑揚のある喋りで、政治情勢を分析する。米国のシンクタンクが最も偉大な日本の政治家として、彼の名を挙げるのも頷けた。
「では、野口さんはどのような取引を考えているのでしょうか?」
髙瀬は野口の存在を考えていなかった自らの浅慮を恥じ、教えを乞うような口調で疑問を投げかける。
「奴のことだ。外務大臣……ふぅ、敵わんな」
老人は葉巻を取り出すと、無表情のままそれを口に加えた。髙瀬がライターを取り出しフットに火を回す。一部の秘書や議員が喫煙者に対して嫌味な視線を送るが老人は気にしない。老人は葉巻や煙草を吸うことが生きがいであった。
「ふう、やはり自家製は上手いな。で、話は戻るがね、恐らく外務大臣、防衛大臣、官房長官のポストを要求するだろう」
「つまり、に、日本の外交安全保障を野口さんに明け渡すことになりませんか!?」
日本版NSCを構成する4大臣会合の主要ポスト3つをタカ派の野口派が支配し、彼らが日本の外交安全保障を一手に握る。老人を筆頭とするハト派にとっては許し難い暴挙であった。
「そうだ!我々は主要ポストを対中・対露強硬派の野口率いる救国会に明け渡す必要がある」
救国会とはマスコミには中道右派と報道されているが、党内での認識は極右である。タカ派の彼らは対中・対露強硬策の一環として、防衛費をGDP2.5%水準まで増やすことを目的としている。
米国の共平党を率いる上院多数党院内総務のジョン・ロドリゲス及び民従党現職大統領ケビン・ウエストが党派の垣根を越え、日本に求める防衛費の増額要求に歩調を合わせるとともに、地域の強国として日本を宣伝広告するためであった。
だが、髙瀬が所属するハト派及び護憲野党からすれば当然承服できない提案である。
「是が非でもタカ派から主要ポストを守り抜かないと……」
「髙瀬、それは無理な話だ!我々の派閥が主導権を握るにはどの道、奴らタカ派の協力が必要になる。優柔不断な中道派の坂本を首相に添えるぐらいなら、優秀な大泉を首相に据えて、タカ派にポストを譲る方がマシだ」
老人は葉巻を灰皿に置くと、第二秘書の祝迫に次期首相候補の大泉を呼び出すよう伝えた。
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2026年9月18日12:55-千代田区永田町-
大泉は呼び出し30分後に、高級感漂うイタリア製スーツに身を包み現れた。帝都大を卒業後、帝国物産に入社、米国のアイビー・リーグでMBAを取得し、米系戦略コンサルにて研鑽、その後、都知事選に立候補し落選、復活をかけて挑んだ衆院補選にて当選し今に至る。
庶民派の野口と比べて、エリート臭のする大泉は大衆受けが悪い。だが、指導力や立案力はずば抜けており、自由民権党内ハト派のホープとされている。
「大泉君、よく来たね!」
「酒巻先生もお元気そうで何よりです」
両者とも微笑を浮かべ硬い握手を交わすと、大泉は老人の目の前にあるソファーに足を組んで腰掛けた。日本政界のドンを前に足を組んで座るのは、ハト派のホープ大泉とタカ派のライバル野口、中道派の安田首相ぐらいである。
「さて、早速だが件の内閣総理大臣指名についてだがね。単刀直入に言おう、指名受けてくれるかね?」
「先生のお頼みです。謹んでお受け致しますよ。ですが、ここに呼んだのは別件でしょう?」
大泉には以前から内々に指名の件が伝えられていた。よって、解散総選挙の忙しい時期に衆議院議員の大泉を呼び出すのには、大泉の読み通り別件がある。
「察しが早くて助かる。君を呼んだのは他でもない組閣についてだ。今回の総裁選は国会議員票のみで行われる。よって、衆参両院で幅を利かせているタカ派の国会議員に様々な便宜を図る必要があるわけだ。ここまでは分かるね?」
「先生、そこまでで結構です。実は内閣の布陣については素案が整っています。党内派閥と論功行賞に配慮したものになっているので、是非ともご確認ください」
大泉は鞄から一つの分厚い資料を取り出して、老人に差し出した。老人は満足そうに表紙を覗きこむ。
『大泉内閣組閣原案
-副総理・財務 大里 徹
-防衛 神戸 光秀
-外務 大市 方正
-官房 一橋 良雄
-経済産業 立花 花子
-総務 三好 由香里
-国土交通 足利 隆文
-国家公安 山下 仁文
-法務 濱田 美幸
-文部科学 川田 直樹
-厚生労働 吉田 悟
-農林水産 桐生 早苗
-北方領土・拉致 金田 信雄
-科学技術 藤原 誠司
-経済再生 上原 実
-地方創生 大石 健太
-環境 井戸 洋二
以上、17人』
タカ派が5名、ハト派が6名、中道派が3名、無所属が1名、民間人閣僚が2名。前政権で女性国会議員3名議員が辞職をしたこともあり、前政権で定められた規定の4名を維持するため、2名は民間人閣僚として閣僚名簿に入る。ただ、いずれも米系戦略コンサル出身であり、大泉の息がかかったやり手の人材であった。
「これならば問題ない。大里君は緊縮派の筆頭であるし、神戸と大市は野口の右腕だ。加えて、上原君や井戸君は当選8期のベテラン。どこからも不満は出ないだろう。副大臣候補もよく出来ている」
「お褒めに預かり光栄です。では、先生は先生の戦場に、私は私の戦場に……」
大泉と老人は立ち上がると再び硬い握手を交わし、双方部屋を後にした。秘書の髙瀬も老人に付き従う。
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2026年10月28日11:15-千代田区永田町-
この日は参議院の指名選挙が珍しく先に終了していた。参議院では大泉が2/3に僅かに届かない程度での指名を獲得していた。
「投票総数は465、本投票の過半数は233であります。無効票はございませんでした。投票の結果を事務総長から報告させます」
衆議院議長が淡々とした口調で事務総長に結果発表を促す。事務総長は立ち上がり一礼すると、投票結果が書かれた紙を手に持った。
「大泉隆君、359票。増田二郎君、63票……」
野党が分裂したこと、首相の体調不良が選挙前日に発覚したことが自由民権党への追い風となった。2/3を大きく超える議席占有率は政権に大きな力を付与することになる。
また、タカ派議員よりもハト派議員が多く当選したことは救国会の力を大きく削いだ。大泉が主導した安田首相の体調不良をマスコミにリークする戦略が功を奏した形だ。
「大泉総理、おめでとう!」
「何を仰います。これも全て先生のお陰で……うわぁ、結構揺れてますね……」
大きな揺れが国会議事堂を襲った。建物がギシギシと悲鳴を上げる。これは首都直下型地震に違いない。よりにもよって首相指名日に起きるだなんて。大泉の背中を冷や汗が流れ落ちた。
「大泉先生、緊急事態です!」
「首都直下型だろう?緊急地震速報はどうしたんだ!?」
手持ちのスマートフォンはマナーモードにしていた。つまり、緊急地震速報が正しく作動していれば、事前に通知を受け取れるはずであった。
「地震ではなく、もっと深刻な事態です!」
「何ぃ?」
地震以上に深刻な事態が発生しているのだと知り、思わず声を細めてしまう。隣に座る老人は行けと言わんばかりに顎を動かした。大泉は内調職員に連れられ、国会議事堂を後にする。途中、マスコミの取材を受けたが無視を決め込んで、専用車に乗り込んだ。
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2026年10月28日11:25-千代田区永田町-
「それで緊急事態とは?」
「……信じれないことなのですが、地震の数分前に海外との交信が途絶えました」
普段は冷静沈着な内調職員が震えていた。事態の深刻さが窺える。ただ、地震による被害が少ないのは不幸中の幸いだった。電話回線はパンクしているが、建物や信号機に被害はなかった。
さらに、国会に居た内閣総理大臣代理を始めとする職務執行内閣の面々も、回線のパンクや海外との更新異常に混乱することなく、首相官邸へと車を進めていた。
だからこそ、大泉は事態の混乱を過小評価してしまう。日本が別世界に飛ばされたという奇想天外な出来事を、この時点では全く信じてはいなかった。