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宵闇コペルニクス

作者: 北原こさめ









 その昔、女の赤ん坊を産んだ嫁は裏口からしか家に戻れなかったという。

 この街は、全てが逆さまだ。










 どこかでチャイムの鳴る音がする。窓の外の淡い雨の音。穏やかなそれをかき消すように、辺りは休日の新京極(しんきょうごく)かと思うほどに騒がしい。


 ああ、うるさい。俺の眠りを邪魔するな。せっかく良い夢見てるのに。


杉浦(すぎうら)、起きんでええの? 藤間(ふじま)、先帰らはったで」


 低すぎず、高すぎない凪いだ声が、俺を眠りの淵から引き上げる。突然目を開けた俺に、声の主は「うわっ」と声を上げて退いた。


芳乃(よしの)は?」

「せやから、先帰ったんやって」

「はあ? 相変わらず冷たい男やな」


 そう、顔を歪めて吐き捨てた俺に瀬名(せな)がぎゅっと唇を噛むのが見えた。

 瀬名(せな)信綱(のぶつな)。高校に入学してから二年と少し、ずっと俺の隣の席になり続けている哀れな男である。


「ご、ごめん……」

「なんで瀬名が謝るん。すまん、起こしてくれてありがとうな」


 傷ついた乙女のごときしおらしさで胸に手を寄せる瀬名にそう言って、机の横にかけていたリュックを引っ掴む。そのまま教室を飛び出した俺に瀬名が何か言いかけていたような気がするが、まぁ明日でもいいだろう。


 今の俺はコンマ1秒でも早く、あの冷血漢に追いつかねばならない。


「杉浦くん、また藤間くん追ってるん?」

「藤間やったら靴箱んとこおったで」

「コマちゃん、雨降ってきたで!」

「杉浦! 廊下走んなてなんべん言わせんねん!」


 姉さんたちから折れそうだと言われる足で廊下を駆ける俺に、同級生や先生たちが口々に声をかける。それに返事をしながらも足は止めない。階段を飛び下りて、靴箱で上履きとスニーカーを履き替えたところで、校門の近くに見慣れた背中を見つけた。


 面白みのない黒のリュックに、面白みのない黒い傘。周りより頭一つ分高い身長。ぴんと伸びた背筋が余計にその長身を際立たせている。


 同じ年の同じ月に生まれて、同じ街で育ったとは到底思えへんな。そんなことを思いながら、傘もささずにその背中を追った。


「芳乃! 待てや!」

「……おお。古満(こま)か」

「コマかちゃうわ!」


 俺の声に、振り返って。焦るでも笑うでもなく、おお、と低い声を上げる幼馴染みに心底腹が立った。


「古満、傘は? 午後から雨や言うてたやろ」

「朝降ってへんのに傘持ってくほど腑抜けた男ちゃうねん、俺は」

「なんやそれ」


 呆れたようにそう言いながらも、芳乃は隣を歩く俺へと傘を傾けてくれる。


 いくら俺が華奢な女顔のチビとはいえ、高三の男二人に相合傘はきつい。物理的にも精神的にも。しかし、下校ラッシュの通学路で肩を寄せ合う俺たちを訝しむ人間は居なさそうだった。


「狭いわ。もうちょいそっち寄れや」

「古満さん、これ俺の傘なんやけど」

「この傘、おまえの身体には小さない?」

「そら折り畳みの置き傘やもん」

「午後から降るんとちゃうんかったんかい」

「雨降るんは覚えとった。傘を忘れただけや」

「なんやねん」


 肩をぶつけながら雨の中を歩く。途中、コンビニの前でクラスメイトの草間(くさま)たちに会った。「おまえら今日もドウハンかいな」ニヤつくクラスメイトを適当にあしらう。芳乃は何も言わなかった。


 わかっている。入学した頃はもう少しマシにからかわれていたのが、最近、言葉尻に嫌悪感が滲むようになっていた。


「同伴て。なんぼかかるかも知らんくせに」


 何か喋らずにはいられなくて、鼻で笑って吐き捨てる。そんな俺に芳乃はちらりと視線を向けて、そうしてゆっくりと口を開いた。


「おまえ、昨日、夜遅かったんか」

「うん。おかんが座敷出てたし」

「えらい熟睡してたから起こしにくうてな」

「起こせや。瀬名が可哀想やろが」

「なんで瀬名?」

「あいつが起こしてくれんねん。いつも」

「……いつも、なあ」


 どこか含みのある音を滲ませて、芳乃は呟く。

 続く言葉を待てど、幼馴染みは前を見据えたまま口を開く様子もない。雨で滲んだ景色と整った顔立ちがまるで絵画のようだった。


 じっと男の横顔を見つめたまま、花見小路(はなみこうじ)の柱を抜ける。コンクリートから石畳に変わった道路。空気の匂いすら変わった気がした。


 元No.1芸妓から生まれた俺と、元No.2から生まれた芳乃。俺たちは同じ年の同じ月に生まれ、同じ祇園(ぎおん)という街で育った。


 京都府は京都市、その東山区に存在する花街の一つである。


 今は昔――……いや、京都という古い街では今でもそうかもしれない。女の赤ん坊を生んだ嫁は、裏口からしか家に戻れなかったという。正面玄関の暖簾をドヤ顔でくぐれるのは、跡取りの嫡男を生んだ嫁だけだったというのだ。


 まあこれも、生きた化石と名高い地方(じかた)のお姉さまから聞いた話なので、もしかしたら三百年ほど前の話かもしれないが。


 俺と芳乃の母親は、祇園で売れっ子の芸妓だった。花――捌いた宴会数のことだ――、の売り上げの一位と二位を行ったり来たりしていた二人は、ある協定を結んだ。同時期に妊娠し、同時期に子供を産もうというのである。


 抜け駆けは許さしまへんえ。そう誓い合った二人は、六月の半ばに俺と芳乃を生んだ。


 俺も芳乃も戸籍上の父親は居ない。それが花街のルール、しきたりってやつだ。芸妓の結婚は、イコール引退を意味する。


 そうやって街を出て行く女も多い中で、俺と芳乃の母親は結婚よりも芸の道を選んだ。それでも子供を諦めきれなかったのは、それほどまでに好いた男が居たのか、女としての本能がそうさせたのか。俺にはわからない。


 俺は予定日よりひと月ほど早く、芳乃より五日先に生まれた。雨が降りしきる、特別蒸した日だったという。


 外の世界がそうであるように、この街でも命の価値は平等ではない。女が支配する祇園という街で男の赤ん坊を生んだ女は、裏口からしか家に戻ってくることができない……というのは昔の話である。今や時代は21世紀、花街業界も衰退の一途を辿るこのご時世だ。

 母は大手を振って家に帰って来たし、俺は街のお姉さま方から大層可愛がられて育った。


 そもそも、父親の居ない子供が大半の街だ。女たちは協力して子供を育てる。

 女将に芸妓に舞妓に仕込みにお手伝いさん。女に囲まれて育つ男は、まれに……というか、結構な頻度で、衆道――現代的に言や、ゲイってやつだ――に育つという言い伝えが街にはある。


 それでなくとも男が地位を築きにくい世界だ。穀潰しと裏で囁かれ、女嫌いになる男も少なくはない。それを避けるため、男が生まれた場合、人によっては養子に出されたり寺に預けられたりするのである。


 そう思えば、生まれてからの十七年間と少しをきっちりと街中で過ごした俺と芳乃は、稀有な存在なのかもしれない。


「古満、おまえんとこ寄るわ」


 ぼんやりしながら歩いていた俺の意識を、芳乃の低い声が引き戻す。

 いつの間にスマホを取り出していたのだろう。芳乃は傘をさしたまま、器用に片手でスマホの画面をスワイプしている。


豆千夜(まめちよ)さんと豆小夜(まめさよ)さん、宵の宴会入ったんやって」

「マジか。小夜さん姉さんの罵声が聞こえてきそうやな」

「親父ももう出てるみたいやし、このまま一緒に回るわ。すまんけど荷物置かせてな」

「おお。明日の朝そのまま行ったらええやん」

「課題出たやろ。着付け終わったら取りに寄るわ」

「真面目やねえ、芳乃くんは」

「おまえがええかげんなだけや」


 俺と芳乃に戸籍上の父親はいない。しかし、芳乃は俺と違って父親の顔を知っているし、なんだったら家に帰れば父親が居る。祇園ってのはそういう街だ。


 芸妓の結婚はイコール引退である。だから、街の女たちは籍を入れずに男と暮らし、子をもうけるのだ。ルールの目をかいくぐるというか、屁理屈をこねまわすというか。


 芳乃の父親は男衆(おとこし)である。


 芸舞妓に『引きずり』と呼ばれる宴会用の着物を着せることを生業とする、祇園唯一といってもいい男の仕事だ。


 この街の昼と夜をつなぐ、男たち。


 俺は出来ればこの街から出て行きたいと思っているタイプの街の子だったが、藤間(ふじま)芳乃(よしの)は違ったわけだ。


 今でも覚えている。中学一年の夏。


 まだ俺と同じくらいの背丈しかなかった当時の芳乃は言ったのだ。「古満、おれ、男衆になる」と。今と変わらない強い瞳で。


 その日のうちに、芳乃は父親に弟子入りしてしまった。


 あの時から、なぜか芳乃が遠い存在になってしまったような気がして。胸にぽっかりと空いた隙間を、俺は未だ、埋められずにいる。


「ただいまぁ」

「芳乃です!」


 明かりの灯っていない、つなぎ団子の赤提灯。所属している芸妓や舞妓の看板が並ぶ玄関を抜けて、引き戸を開ける。ガララ、と、手に振動を十二分に与えながら開いた扉の向こうへと芳乃は癖のように声を張り上げた。


 上の階から「お兄ちゃん来た!」と、姉さんたちの慌てる声が聞こえる。


「姉さん、大丈夫! まだ芳乃だけやねん! 着付けは克哉(かつや)さん来てからや!」

「もぉ! 紛らわしいんやめて! ひやっとしたやん!」

「すんまへん。親父ももうすぐ来る思います」

「嬉しない知らせやわー!」


 ばたばたと二階で姉さんたちが走り回っている。突然入った宴会だ。化粧どころか着物の準備もまだだったのだろう。


 ここ、大富屋(おおとみや)は、お茶屋(ちゃや)置屋(おきや)を兼ね揃えたそれなりに大きな家である。


 お茶屋は芸舞妓を呼んで宴会をする場所であり、お茶屋はそんな芸舞妓が住まう寮のような場所だ。昔は、母のような内娘(うちむすめ)――祇園で生まれ、祇園で育って舞妓になる女のことだ――、ばかりだったようだが、今の時代、そうもいかない。


 どこも高齢化は進む一方で、今の祇園に内娘は一人も居ない。

 つまり、中学を卒業したばかりの女の子をよそから貰ってきて舞妓として育て上げるしかないのだ。それが置屋の仕事であり、今の大富屋には四人の舞妓が所属している。


「あら、お帰り小童ども。青春してきたか」

「ただいま、小夜(さよ)さん姉さん。乳隠して」

「隠れてるやろ」


 玄関で濡れた制服を脱いでいたら、中堅舞妓の豆小夜さんが台所から顔を出した。

 こちらは既にしっかりと白粉(おしろい)を塗り、紅をさしている。真っ赤な肌襦袢姿でうろついていたら女将――俺の祖母だ、に叱られるだろうに、ほとんど半裸に近い女は気にもしていないようだった。年齢だって、俺たちと二つくらいしか違わないのに。


「こんばんは豆小夜姉さん。おたの申します」

「芳乃くん、今日も男前やな」

「姉さん、俺は。一つ屋根の下の俺は」

「古満ちゃんはべっぴん過ぎて腹立つねん」


 そんなことよりアンタのオトコ、さっきから何してはるん?

 姉さんの言葉に振り返る。玄関に腰掛けた芳乃が何やら真剣に折り畳み傘を畳んでいた。一筋一筋、寸分たりとも折り目を違えてなるものかという真剣さでビニール地の布を折っている。て言うか誰が誰のオトコだって?


「姉さん、こいつ昔からそうやねん。折り紙とか好きなん」

「はあー、やっぱ祇園で老婆に囲まれて育ったらそうなるもんか」

「そうでもないんちゃう? お手玉とかヘッタクソやったで、こいつ」

「玉扱うんはアンタの方がうまそうやもんな」

「姉さん何言うてはるんどす?」


 そうこうしているうちに、玄関の扉が大きな音を立てて開く。雷でも落ちたのかと身をすくめたところで「克哉です!」と響いた怒声にも近い声に、二階が騒がしくなった。


「さあて、仕事やな」


 宵闇が迫る。つなぎ団子の赤提灯に灯がともる頃、この街は目を覚ます。


「行こか」


 そう、静かに呟いた小夜姉さんに芳乃が深く頷くのを、俺は黙って見ていた。





◇◇◇◇◇◇





「俺らってやっぱり変なんかな」


 ぼんやりと、薄汚れた窓を見上げながらそう呟く。雨の降りしきる空は鈍色で、気分まで滅入って来そうだった。


 屋上へと繋がる階段の踊り場。濃い雨のにおいが立ち込めるそこで、俺と芳乃は昼飯を食っていた。教室で顔を突き合わせているだけで、草間や川辺といった一部のクラスメイトからの野次が酷くて落ち着いて飯も食えやしなくなってきたからである。


「やっぱりってなんやねん」

「やっぱりはやっぱりや」


 買ってきたパンを腹に収め、あぐらをかいた芳乃の硬い太ももを枕に横たわる。

 そんな俺に幼馴染みは顔をしかめこそすれど、止めはしない。律儀に同じポーズのまま、真剣な顔をして、食べ終えたおにぎりの空き袋に折り目をつけている。一本一本、丁寧に。


「おまえって、女抱かせてもそんな職人みたいな顔するんやろな。おもんな」

「なんやおまえ。俺に抱かれたいんか」

「寝言はベッドの中で言えや」

「なんでちょっと意味深やねん」

「やかましいわ」


 そう吐き捨てて、俺はそっと目をつむる。

 このまま眠ればまたあの夢が見られるだろうか。淡い雨の降る六月の、甘い甘い、俺の夢。


「また寝れてへんのんか」


 なんでもないように紡がれた言葉。芳乃の低い声は相変わらず抑揚がなくて、冷たささえ感じさせるのに。言葉の端々に滲んだ優しい音に胸の奥を掻き毟りたくなる。


「昨日もおかんが遅うまで働いてたし、」

「先寝ろや。しょうもない嘘つくな」

「……ええ夢見んねん。最近」

「どんなん。巨乳?」

「そらもう見渡す限り押せや押せやの巨乳の群れよ」

「悪夢やんけ」


 おまえ最近、酷い顔してんで。

 その声に俺を責める色はない。それでも何故か咎められたような気分になって、ごろりと寝返りを打つ。


 見上げた先で、芳乃がじっと俺を見下ろしていた。その向こうに見える窓の外と同じくらい、晴れない顔で。


「なぁ、芳乃」

「なんや」

「おまえ、なんで男衆なんかなりたい思ったん」

「なんでって、なにが」

「もし仮に、女に生まれてたとして……それでもおまえ、父親に弟子入りしてたか」

「したやろな。女に生まれてても」

「街を出たいとは思わへんの」

「……おまえは出たいんか。祇園」

「わからへん」


 昔は出て行きたいと思っていた気がする。でも、最近わからない。


 母が好きだ。懸命に働いて、お客を楽しませて。酔っ払って帰ってきては、怒る俺にも構わず頭を撫でくり回してくる無邪気な女が。

 厳しい祖母も、街の女将たちも、時には涙を噛み殺しながら芸に打ち込む女たちも、みんな好きだ。強くて、美しくて。


 街が嫌いなわけではなかった。だけど、どうしても俺の居場所はここじゃないと感じてしまう。同じ空気を吸って、同じものを食べているのに。俺だけが昼と夜の狭間に取り残されている気がして、うまく息が出来ない。


「出たいんやったら、出たらええやん」


 なんでも無いような声で言う幼馴染みに、思わず笑う。息を漏らすような笑い方がまるで大人みたいで、自分でも少し驚いた。


「この冷血漢め」

「なんでやねん。今生の別れでもあるまいし」

「いっぺんここ出た男が帰ってくるかいな」

「それやったらそれでもええやん。おまえの人生や」

「冷たいなあ、芳乃くんは」

「それともなんや。俺に止めて欲しいんか?」


 なあ、古満。そう、皮の厚い大きな手に頬を掴まれる。

 伏せた瞼の美しさは母親譲りか。精悍さを増した男が真剣に自分を見つめてくるのに、ゆるく口を開きかけたその時だった。


「ぅ、わあ!」


 高くも低くもない、凪いだ声。聞き慣れた素っ頓狂な悲鳴に視線を向ける。

 屋上へと続く階段の、踊り場までの道で。廊下の壁に背をつけた瀬名が、盛大に目を泳がせながら足をバタつかせていた。


 進んだものか、引き返したものか。クラスメイトの迷いが手に取るようにわかる。


「瀬名? なんやねんその動き」

「み、なっ……俺! なんも見てへんし!」

「なんも見てへんでその動きやったらおまえ色々まずいやろ。尿検査待ったなしやぞ。ヤクはやめとけ」


 寝心地最悪の芳乃の膝枕から身体を起こす。そこで更に奇声を上げた瀬名を見て、芳乃は「瀬名おまえ奥ゆかしいてええなぁ。癒されるわ」などと呟いている。


「あっ、の! 女子が、合唱コンのことで、アンケート取りたい言うてて!」

「ああ。もうそんな時期か」

「それで、杉浦と藤間以外は全員教室おんねん。悪いけど来てくれへんかって、女子が」

「それで呼びに来てくれたんや?」


 いつもありがとうなあ。そう、瀬名の肩に腕をかける。びく、と瀬名の肩が揺れた。

 見つめた先で、瀬名がどこか気まずそうに目を伏せている。喘ぐように薄い唇が開いて、消え入りそうな声で男は言葉を紡いだ。


「やっぱ、杉浦、……藤間と、仲ええんやな」

「うん、まあ。幼馴染みやしな?」


 俺の言葉に瀬名は何故かぎゅっと唇を噛みしめる。

「俺、なんか悪いこと言うた?」視線だけで芳乃にそう尋ねるも、「おまえはもう喋んな」と低い声で制されてしまう。なんやねん。


 教室の中は瀬名の言った通り、クラスメイトが出揃っていた。昼休みだというのに授業中みたいだ。ご苦労なことである。


「藤間くん、コマちゃんごめんな! 今日のうちに曲のアンケート結果だけ出してしまわなあかんのやけど、すっかり忘れてて!」

「おお、ええよええよ。気にせんで」

「気にするわ。オウセの邪魔すんねんもん」


 教室に響いた下卑た笑い声。嘲笑の音が強く残るそれに、部屋がしんと静まり返る。

 目をやった先、窓際の席で草間や川辺のグループがニヤニヤしながら俺たちを見つめていた。


「女子がどこ探してもおらん言うてたけど、どこおったん、おまえら」

「べつに。階段のとこ普通におったけど」

「頼むから学校では変なことせんでくれよ」

「ほんま。家帰ったらナンボでも好きなようにしてくれはったらええけどなあ」

「……なんやねん。ハッキリ言えや」


 ジリジリ、頭に熱が昇っていく。「古満、やめとけ」そう、足を踏み出しかけた俺の腕を掴む芳乃の声に、草間たちは「ほら。旦那はんがここではやめとけ言うてはるで、コマちゃん」と更に笑い声を上げた。


「ほんま。きっしょいわ。花街の男ってホモ多いんやろ」

「……あ、」


 偏見だらけの草間の言葉に息を飲んだのは俺じゃない。もちろん芳乃でもない。


 隣で泣き出しそうな顔をして唇を噛みしめる瀬名の姿に、カッと目の前が赤く染まるような感覚に襲われた。鼻の奥で、なにかとんでもない熱量の感情が膨らんで、頭の奥へと突き抜ける。


「古満! やめろ!」


 珍しく声を荒げた芳乃の制止すら聞こえなかった。


 きゃあ、と教室に響いた女子の悲鳴。気付けば俺は、草間の胸ぐらを掴んで窓へと押し付けていた。雨で滲んだ景色を背に、草間は呆然と俺を見上げている。


「な、なんやねん!」

「俺の台詞や。何が気に入らへんの、おまえ」

「なにがて、」

「祇園の女でももうちょいマシにイケズしはるわ。女々しいことばっかしよって、おまえの方が気色悪いねん。男同士やなんやて性別気にするんやったらな、まずはおまえがその女々しさ直せや!」

「だ……っれが、女々しいねん!」


 草間が、俺の胸ぐらを掴み返す。さらに上がった甲高い悲鳴が教室を包んだ。


「だれか先生呼んできて!」そんな声に教室から数人の女子が飛び出していくのが見えた。一瞬の隙を突かれて、ガン、と壁へと押し付けられる。強かに打ち付けた後頭部の痛みで、更に怒りが膨れ上がった。


「おまえや! なんぼでも言うたるわ、しょうもない嫌がらせばっかしよって!」

「おまえらがキモいからやろが! 目障りやねん、視界の端で、ベタベタベタベタ!」

「男だの女だの、うっさいわ! くだらん価値観引っさげんのは勝手やけどな、他人にまでそれ押し付けてくんなや!」

「普通やろ! おまえらがおかしいねん!」

「普通てなんや! 一歩足踏み入れたら全部が逆転する世界もあんねんぞ! おまえかて祇園で生まれてたらただの穀潰しや!」

「なに、言うて……、」

「人前でベタベタした覚えもないわ! おまえらが俺らのことばっか見とるからやろが!」


 俺の言葉に、草間が息を詰める。え、と思う間も無く、腹に太い腕が回った。そのまま芳乃によって身体を引き離されながら、俺は呆然と、己を見上げてくる草間を見下ろした。


 なんや、その顔。なんでそんな怯えた顔すんの。キレろや。なんやねん。


「ごめんな、草間。俺らにも非はあるんかもしれへん」


 俺と草間の荒い息遣いの間に響いた、静かな声。クラスメイトが固唾を飲んで見守るそこで、芳乃はゆっくりと草間たちに近づく。


 そうして、怯えたように身をすくめていた二人へと低く囁くように言った。


「せやけどな、俺らもう高三やで。色々自分でも認められへんのかもしれんけど、好きな子いじめて喜ぶん、そろそろ卒業しいや」


 そう、小さく笑うように言い残して。芳乃は俺の手を引いて、教室を後にした。





◇◇◇◇◇





「豆小夜さん、古満に白粉(おしろい)して貰えませんか」


 昼休みも半ばに学校を抜け出し、子供みたいに手を繋いだまま家へと帰ってきた俺と芳乃を見て、祖母は何も言わなかった。それほど俺は酷い顔をしていたのかもしれない。


 二階に上がって、姉さんたちの化粧部屋をノックする。そこに座って、雨曝しの物干しを見つめていた小夜姉さんに芳乃は低い声で言ったのだ。


 俺に、この街の女の、夜の化粧をしろと。


「なんや。学校サボって舞妓の真似事かいな」

「すんません。俺、着物持って来ますんで。お願いします」

「うちのやつ好きに使うたらええよ」

「おおきに。でも……、じゃあ、帯揚げだけ」

「なんや。決まってるんやったら早うそう言いよしな」


 小夜姉さんと芳乃が何を言っているのかわからない。二人の顔を交互に見つめる俺を放置して、芳乃は部屋から出て行ってしまった。それどころか、大富屋から出て行ったようなのである。


「さあて。芳乃くん戻って来るまでに仕度しよか」

「姉さん……?」

「古満ちゃんアンタ、ほんまに豆斗満(まめとま)さん姉さんに似てはるなあ」


 豆斗満。母の芸妓としての名前だ。


 服を脱いで、真っ赤な肌襦袢を着て。顔に鬢付け油と白粉を塗ったくられながら、ふっと息を吐く。


「姉さん。もし、俺が女やって、舞妓になってたら、売れたやろか」

「どうやろ。内娘やし、べっぴんやし、そこそこ売れたんちゃう?」

「その方が幸せやったやろか」

「どうやろなあ。しんどいんちゃうか。家の名前も女将さんの名前も、斗満(とま)さん姉さんの名前もぜーんぶ背負って座敷に上がるんや。重うて身動き取れへんかもしれへんわ、うちやったら」

「姉さんそんな可愛らしいタマちゃうやろ」

「黙りよし」


 ぺし、と白い粉を叩いていたパフで頬を叩かれた。

「目ェ、おつぶり」言われるままに目を瞑る。紅を含ませた筆が目尻を、眉を、なぞっていく。


「生まれは変えられへんよ、古満ちゃん」

「わかってる」

「あんたはもう、大富屋の息子として生まれてしもたんよ。でも、あんたはええ時代に生まれたわ。養子に出されることも無ければ、寺に捨てられることもない。それに……、」

「それに?」


 目、開けてええよ。そう、軽く頬を叩かれて目を開ける。

 鏡の中から、母にそっくりな男がこちらを見つめていた。とてつもなく似ているけど、全然違う。当たり前だ。俺は男なのだから。


 杉浦古満という、十八歳の男なのだ。


 窓の外で自転車の止まる音がした。若者が乗るようなロードバイクじゃない。この街の男たちが乗り回す、やたら荷台の大きなママチャリである。

 ああ、さすが。ちょうどや芳乃。


「芳乃です!」


 玄関の戸が開くと同時に響いた低い声に、姉さんと二人、小さく笑った。


「来たで。あんたご自慢の、幼馴染み」





◇◇◇◇◇





「子供ん頃、おかんのことが嫌いでなぁ」


 姿見の前に俺を立たせ、持ってきた風呂敷から着物や帯を取り出しながら、芳乃はそう語り出した。


「朝から稽古場行って、俺のことは見もせえへんくせに妹舞妓の世話焼いて、夜は宴会行ってしもてろくに飯も一緒に食えへんし。帰ってくんのなんか日付け跨いでからやろ」

「しかもべろんべろんに酔うて帰って来る」

「ほんま。酒臭いおかんが頭撫でくり回してくんのが恥ずかしいて、嫌やった」

「どこも似たようなもんなんやな」


 思えば、芳乃と互いの母親の話をするのは初めてだった。

 俺の肩に襦袢を着せ掛け、腰を落としながら肌襦袢と合わせて紐で結んでいく芳乃は、すっかり男衆の顔をしている。


 この街の昼と夜をつなぐ、男の顔。


「でも俺、着物たたむのだけは好きやってん」


 そう言って芳乃は着物を取り出す。濃紫の、色紋付。豪勢な刺繍の施されたそれは、普段の宴会で着るようなものではない。


 首を傾げる俺に、芳乃は「おかんが舞妓の時に着てたやつ。置屋から借りてきた」と言う。

 写真見たとき、これ、街で一番よう似合うんはおまえやろなて思っててん、と。


「酔うて床で寝てるおかんから帯と着物引っぺがして、一晩干して。次の日、稽古場行くおかん見送ってから、たたむねん。ゆっくり、ひと折りずつ」

「折り紙好きやもんなぁ、おまえ」

「折り紙はそんなでもないな。着物たたむんが特別好きやったんや。そんで、そうやって何年もたたんでるうちに、おとんに言われたんよな。いっぺん着せる方もやってみいひんかて」

「うん」

「そんで、初めてわかったんや。俺、着せる方が好きやなあって」


 畳の上を引きずる、花街独特の着付け。この街の女の、夜の姿。

 つけ襟に沿って襟を合わせて、息が詰まるほどに紐を結んで。真っ赤な帯揚げを腰から胸にかけて巻く。


 舞妓のだらりの帯は5メートル以上ある。それを着付けるべく、芳乃はたとう紙の上で金色の織り帯を丁寧に折っていく。一見無骨に見える指先で、丁寧に、丁寧に。


「こうやってきっちり一つずつ折って行ったら着崩れしにくく仕上がる。帯だけやない。襦袢も、着物も、帯揚げも。一つずつこなしてったら全部がかみ合うて、より綺麗に頑丈になる。この街の女そのものやて思ったんや。俺、着物が好きや。宵の口に、綺麗にべべ着た姉さんたちが仕事行くん見るんが好きや」

「うん」

「せやけど、それは俺の話やろ」


 せーのっ、そんな掛け声に合わせて、帯を結ぶ。

 後ろでだらりの形を作る芳乃の額にはうっすらと汗が滲み始めていた。


「おまえが俺と同じになる必要あらへん」

「なれへんわ。こんな仕事、俺には務まらん」

「向き不向きはあるからな」

「……昔からな、梅雨の時期は夢見んねん」


 俺の言葉に芳乃は帯を形作りながら、「どんな」と抑揚のない声で言う。平坦なそれがなんだか心地よかった。


「大富屋の内娘、豆斗満が一人娘を生む夢や」


 六月の半ば、降りしきる雨の中でひと月はやく生まれたせっかちな娘。「気の早い、祇園の女やなあ」そう言って母や祖母や姉さんたちが、跡取りの誕生を喜ぶ、甘い甘い夢。


「俺はぼうっと空からそれ眺めてんねん。幸せそうやなあ、良かったなあって」

「それ、豆斗満姉さんに言うてみいや。しばき回されんで」

「……やめて。タマヒュンする」

「男衆になれへん事も、女に生まれへんかった事も、おまえが気に病むこととちゃうやろ」


 はい、出来た。そう言って芳乃は後ろで帯締めを締めて、俺の隣に並んだ。


 髪をひっつめて、顔を首まで白く塗って。

 目尻を跳ね上げる赤と、涼しげに描かれた同じ色の眉。薄い唇を形どる紅。姉さんたちとは似ても似つかない、着物のシルエット。


 どんなに母に似ていようとも、やはり到底女には見えない滑稽な姿に少し笑ってしまった。隣で芳乃も同じように、握った拳を口元に寄せて肩を震わせている。


「華奢や華奢や思ってたけど、おまえ、やっぱ男やな」

「肩幅ヤバない? 袖の長さ合わへんし」

「腰紐結ぶとき、どうしよか思ったわ。腰骨出てへんし、ちんこアホほど目立つし」

「股間膨らんどる舞妓は呼びたないなぁ!」


 そう、肩をぶつけ合ってゲラゲラ笑う。

 おかしくて仕方ないのに何故だか涙が出てきて、鼻をすする。そうやって鼻をすすっているうちに涙が止まらなくなって、今度はしゃくりあげた。


「女になった気分はどうや」

「最悪や。一刻も早く男に戻りたいわ」

「そうか。よかった」

「それ自覚さすために着物借りて来たん?」

「いっぺんやってみんとわからへんやろ。あとひとつ教えといたるけどな、男の反対は女やないで。『女』の反対側は『悪い女』や」

「よう分からへんけど、おまえも苦労してるんやな……」


 ハンカチを差し出してくれる芳乃からそれを受け取ろうとしたら、襟のところに挟まれた。なんやねん。


「おまえの顔なんかどうでもええねん。着物が汚れる」

「この冷血漢が。芳乃おまえ、俺がそれでも女になりたいって言い出したらどうするつもりやったん?」

「どうもせえへんわ。嫁に貰たってもええかなとは思うけど。おまえ、俺に抱かれたいんやろ?」

「アホ抜かせ! おまえみたいな男こっちから願い下げや!」


 そう叫んだところで、小夜姉さんが着付け部屋へと顔を出す。


「青春したはりますなあ、小童ども」


 姉さんの言葉に二人して、もう一度笑った。













End.

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