大塚美佳
1時から始まった練習は、6時を知らせる放送と共に終わった。半分以上は塾や勉強を理由に既に帰っていたが、残されたメンバーで練習と準備を続けていたのだった。人手が足りなくなったので、準備班から代役を立てる羽目にはなったが、第一回目としては上手くいったように美佳は思う。太陽が山の縁に近づき、校舎は薄いオレンジに染められた。まだ日は長く、日の反対の空には青空が残っている。風は暑かった。
文化祭の実行委員なんかにならなければ良かったと美佳は思った。そもそも初めからやりたかったわけではなかったのだ。確かに今日の練習は楽しかった。しかしそれ以上に面倒なことが山積みであった。
莉央に言われて脚本製作に加わり、演技指導もしている。実行委員だけでも大変なのに、と心の中で愚痴る。言うことを聞くやつらはましだが、それ以外がストレスの原因だった。莉央もその要因の一つだ。莉央がヘソを曲げないように、気を使いながら練習を進めることがなんと難しいことか。さらには実行委員の片割れである翼が、小道具の方にばかり回り、しかも戻ってきても今一働かず、それが美佳を苛つかせた。
皆を先に返し、翼と二人で空き教室の片付けをする。これも当番制にすれば良いのだろうが、それはそれで面倒だと美佳は思う。特に会話らしい会話はなかった。掃除が終わった後、荷物を教室に置いていたので、美佳達はそれを取りに行った。翼と会話をしたいと思わなかったので、トイレへ行くと行って翼と違う道で教室へ向かう。
夕方の学校、とりわけ人のいない学校というものが美佳は好きだった。いつも過ごしている空間ではあるが、違う一面を見せてくれているようで足が弾んだ。歩くたびに後ろで結んだ髪が跳ねる。
教室には雄志と慶、そして真央が残っていた。暗くなってきたからか、教室には電気が点いている。久しぶりに使ったからだろうか、蛍光灯の一つが明滅していた。黒板には今後の予定、そして端っこには女の子らしい絵で落書きがしてあった。どうやら準備は皆が真面目にしていたわけではなさそうだった。
「珍しい組み合わせじゃない?」
「オープンキャンパス行かないか聞いてたんだよね」
思わず美佳がそう言うと慶が答えた。美佳は気遣いは出来たが学力の方は今ひとつだったため、初めから進学は考えていなかった。
「3人で行くの?」
「そうそう。こいつが一人じゃ寂しいっていうから。今から頑張れば行けそうな所を先生に聞いたんだよ」
雄志がニヤついてそう言った。雄志と慶は雰囲気が少し似ている。人を食ったような、というか飄々としたとでも言えばいいのだろうか、押しても風船のように手応えなく何処かへ行ってしまう、そんな印象を持っていた。
そこへ翼が遅れてやってきた。
「松村くんおつかれー。大変だったでしょ?」
真央が翼を労った。真央は美佳よりも背が小さい。美佳は平均身長より少し高い程度であったため、真央の身長は低すぎることはない。美佳は真央を妹のように思っている。
「松村も行かない?今度オープンキャンパス行くんだけどさ。良かったらどう?」
慶が翼にも声をかけた。美佳には翼が一瞬慶を見つめたような気がした。
「俺はいいかな。行きたい大学は決まってるし」
「え、そうなの?どこ?」
翼が口にしたのは隣の県の、スポーツが盛んな大学だった。
「あれって私立だろ?金かかるから公立行けって言われない?」
雄志が口を挟んだ。確か国立の方が授業料は安かった気がすると、昔どこかで聞いた記憶を掘り起こす。
「まぁそうなんだけど、奨学金でどうにかなるだろ?」
「奨学金は止めとけって親に言われた」
翼の言葉に慶が笑いながら言った。あまり自分に関係がない話だな、と美佳は思ったので、先に帰ると告げて教室を出た。教室ではまだ話が続いているようだったが、美佳は気にせず足を早めた。
高校を出て坂を下ること10分弱、駅にたどり着いた美佳は電車の時間がまだであることに気がついた。思った以上に早く歩いていたのだろうか、履きなれているはずのローファーの先が指に当たって痛かった。駅の待合室は建物の中央にある2列と、壁に沿った1列、合計3列分しか椅子がない。夏休み中ということもあり、普段よりも高校生の姿は少なかった。人がいない場所はやはり寂しい、と美佳は座りながら思う。椅子に座って居眠りする4、50くらいのおじさんがいたので、電車がやってくるまでそれを見て過ごした。なぜか今日は携帯を見る気が起こらなかった。
電車の中は乗客全員が椅子に寝そべっても問題がないほどに空いていた。やはり携帯を見る気になれなかった美佳は画面を見るふりをして周りの乗客を観察した。作業着をきた男。青と緑を混ぜて水に薄めたような色の服は、よく町中で見かけるものだった。疲れているのか既にうとうとし始めている。車内にも関わらずいちゃつくカップル。男の方は胸元にいくつかのネックレスと、ジーパンに太いチェーンをつけている。金髪ではあるが、根元がかなり黒になっているため、最近染めたのではないことが分かった。女の方はそんな男にもたれかかり、首に手を回していた。
将来の自分が同じ道を辿りそうだと気づいた。この田舎から出ないまま一生を終えてしまう恐怖が襲った。呆然と固まっていると、女の人と目があったため気まずくなり、慌てて視線を落とした。
駅に到着するなり、美佳は逃げるように電車から降りた。普段なら家までずっと音楽を聞いているはずだが、今日はそんな気持ちになれなかった。改札を抜けて駅を後にする。
美佳は夕方が好きだった。多分人がいない学校が好きなのも同じ理由だった。昼間は雑然としている街が、日が傾くにつれて色が統一されていく。淡い赤が混じる主張の無い景色は、美佳に干渉してこないのだ。普段なら目に入るカラフルな看板も太陽には勝てなかった。毎日歩いているにも関わらず、この道には家の前に大量の植物を飾っている家が多いことに初めて気がついた。通り過ぎる人は皆、音楽を聞いているか携帯を構っている、もしくはうつむいていた。唯一友達の家からの帰りだろうか、数人の小学生だけが美佳に気がつき挨拶をして駆けていった。
家に帰ると父親はまだ帰ってきていなかった。建設系の会社で現場を任されている父は、用事があるようで夕食どきに家にいないことが多い。珍しいことでは無いので、美佳はその生活には慣れていた。小学生の弟と妹にただいま、と告げると二人は元気よく返してくれる。二人が美佳の癒しだった。
食後、部屋に弟たちが戻ったことを確認して、母親に美佳は質問してみた。
「大学って行った方がいいのかな」
母親は洗い物をする手を止めることは無かった。ややあって母が口を開く。
「大学行きたいの?」
「いや、そういうわけじゃないけど。周りの皆行くって言うし」
「やりたいことも無く大学行っても無駄だって友達が言ってたわよ。それにあんたくらいの頭じゃ良い大学なんて行けないでしょ?行けるとこに集まってるような人なんてたかがしれてるわ」
そういう母の言葉を聞きながら、確かに自分はしたいことが無いな、と美佳は思った。
「お父さんとお母さんはしたいことがなかったから大学に行かなかったの?」
「それだけの頭が無かったからよ。わかるでしょ?そんな頭があったらお父さんの給料ももっと良いわよ」
「今はしたいことあるの?」
「そんなこと言ってる暇あったら勉強してみたら?そんなことよりテレビつけて。もうすぐドラマ始まるから」
美佳は言われた通りテレビをつけると部屋に戻った。
美佳の部屋は2階にあり、3畳にも満たないような狭い空間だった。もし美佳の身長がもう少し高かったら、ベッドで寝るときに体を丸めなければならなかっただろう。私服に着替えた後、いつもなら没頭する携帯には触れず、教科書を小さな机の上に投げた。一番苦手な数学と英語が出来るようになればいいのだろうか。そう思って数学の教科書を開く。聞いたことがある名前が載っているが、何がなんだか分からなかった。これまで通り投げ出して携帯を触りたいという思いが込み上げてくるが、そんな体を無理やり押さえ込んだ。
自分がバカなことは自覚していたが、これほどまでだっただろうか。少なくともテストで0点をとることは無かったはずだ。補習も受けたのに、何故数学なんかが出来る人間がいるのだろうか。何をしていいかが分からず泣きそうになった。ふと美佳は委員長の今井が数学が得意だったことを思い出した。しかし今まで連絡などとったことが無かったため、連絡をすることに戸惑いを覚える。それに、邪魔ではないだろうか?そんな思いもあって、美佳は机の前で携帯としばらくにらめっこすることになった。そのとき、父親が帰ってきたのか、階下から酔っ払った声が聞こえてきた。そのうち声は怒鳴り声に変わった。父と母はよく喧嘩した。まだ幼い弟達が毎回のように割って入ることで最悪を回避していると言っても良い。そんな声を聞いているうちに決心がつき、美佳は送信した。