松村翼
松村翼はよく焼けた健康的な肌をしている。野球で鍛えたがっしりとした体のこともあって、名前が似合わないとよく言われるが本人はこの名前が気に入っていた。おおらかな性格と若干の兄貴肌のせいで気がつけば文化祭の実行委員になっていた彼は、7月の終わりが近づいてきたある日、セミの大合唱の中高校へ向かう坂を登っていた。
今日は文化祭の準備で学校に集まる日であった。グランドでは少し前まで翼が所属していた野球部が練習をしていた。こちらに気がついたマネージャーに手を降ると、こちらに小さく手を振り返してくる。首元を伝う汗は首にかけているタオルに吸い込まれていった。夏はこのスポーツタオルが無いとやっていけないと思う。昔は気にすることはなかったが、高校2年になってからは臭いや汗に気を使うようになり、制汗シートなどを買うようになった。制汗シートの香りを嗅ぐたびに、部室の埃っぽい空気を思い出す。ふと引退の日を思い出して翼は少し懐かしさに浸った。
教室には既に6人ほど集まっていた。クーラーは設置されていないが、全開の窓から吹き込む風と扇風機のおかげで外よりは大分涼しい。まだ集合時間までは30分近くあるためこんなものだろうと翼は思ったが、実行委員のもう一人が姿を見せていないことに眉を顰めた。早く来なければならないという決まりは無いが、やはり仕切る側なのだからという思いがある。
既に劇の台本は全員に行き渡っているため、今日やることは劇の練習と小物や舞台装置作りである。今日の予定を確認しているうちにゾロゾロと人数が増えてきた。夏休み中であるためかいつもより制服を着崩した女子に少し目が行ってしまう。集合時間5分前になって実行委員の片割れがやってきた。
「美佳おせーぞ」
翼が笑いながらそう言うと美佳はごめんごめん、と笑った。
やはり全員は来られなかった。最後ギリギリになって飛び込んできた慶と雄志に次は遅れないように釘を刺すと各役割ごとに指示を出した。
翼は役を与えられていたので、演技の練習に参加しつつ準備班を見て回っていた。舞台装置作りは教室で、演技は理科室隣の空き教室を借りたのでそこを使って練習をする。2階の教室から4階までを翼は何度か往復する羽目になりそうだったため、タオルを持ってきた自分を心の中で褒めた。ただ演技指導や小道具のデザインなどは各班それぞれに任せているため、翼はサボらず進んでいるかどうかを確認するのが主な役目だった。演技の方には委員長が二人ともいるため特に心配はないが、準備の方は比較的大人しいグループと問題児プループがあるため、きっとそちらにかかり切りになるのだろうと思った。
4階は2階に比べると暑く、健気にも扇風機が首を降っているがあまり意味をなしていない。美佳をはじめとする台本を書いた演出組は教室の後方に陣取り、それぞれに指示を出している。
この劇は少し古い洋画のリメイクだそうで、翼は観たことが無かったがそれなりに面白そうな作品だと、台本を読んで思った。翼の出番は少ないので、それが終わり次第もう片方を見に行こうと翼は考えた。美佳たち演出班も劇には参加するので入れ替わり立ち替わり進めていく。
翼の出番がやってくるまでに何人かの演技を目にした。委員長二人組はカップル役を押し付けられたのだが、どちらも真面目すぎるためか恥ずかしがって何度もやり直しさせられている。二人ともメガネで頭も良く翼からしたらお似合いだと思ったが、ぎこちない演技を見て大半は笑い、演技指導は声を荒げた。
「ちょっと二人とももっと声出してよー。そんなんじゃ聞こえないしさー」
二人とも必死にやっている様子は伝わってくるが、体育館の中でやることを考えると確かに声が小さかった。
嫌な女を任せられた遥は、ノリノリで主人公役の真央を虐めている。少しピリピリしていた空気がここにきてふっと緩んだ気がした。遥と翼は良く会話をする。遥は陸上部、翼は野球部と、二人ともグラウンドで部活をしていたため、話す機会があったということが大きい。出番の終わった遥に向かって親指を立てると、遥は笑って親指を立て返した。
そうこうしているうちに順番がやってきたが、翼は自分の役を難なくこなし、準備班を見に行こうと教室を出ようとした。ふとクスクスと笑っている二人組が目に入り、翼は声をかけた。その二人とは真斗と浩司だった。いつもは浩司は美佳など悪ぶった男が好きそうな女子とつるんでいるが、男二人でいる姿を見るのは初めてかもしれないと思った。
「何で笑ってんだよ」
「いや、すげースポーツマンっぽくてさ」
「そうそう、棒読み具合がさ」
二人は相変わらず笑いながら答えた。翼はえ、と声が漏れそうになるのを抑えた。自分の演技は酷かったのだろうか?演技については何も言われなかったが、後方に居座る数人は皆笑っていたようにも思う。
「うるせー」
翼はおどけたようにそう言うと、向こうの方を見てくると教室を出た。後ろから頑張れよーという声が聞こえてくるがあまり耳に入ってこなかった。頬を汗がつーっと伝ってくるのを感じて、タオルを教室に忘れてきたことを思い出した。このまま教室には帰れないと翼は思う。翼は近くのトイレに入ると個室の方に入った。トイレットペーパーで汗を拭ってから教室に向かった。
教室では思った通り、延々とケータイを触る者、作業をせず喋る者、言われた通り動いてくれる者とに分かれていた。
「皆でやろうぜ?流石に全部の作業は分担しないと出来ないしさ」
翼の言葉にサボっていた皆が渋々といった様子で参加し始めた。しばらくはこちらを離れない方が良さそうだと思い、自分の席からタオルを取ると首にかけた。
ただ見ているだけでは気分が悪かったので、翼も作業を手伝った。あまり手先が器用な方では無かったが、力はあったので力仕事は全部進んでやることにした。
「っていうかさ、小林とか今野ってさ、塾行ってるからこれないらしいじゃん?そういうの良いの?」
うちらは来てるだけましじゃね?と仲間内で盛り上がる女子に、今日連絡すると約束した。クラスの中でも特に制服を着崩しているその女子たちに、あまり目線をやらないように苦労しながらではあったが。そういうことが翼は苦手であった。夏が嫌いだと思った。
「松村さー、彼女作んないの?」
作業の途中、歩美がふとそんなことを言った。歩美は野球部のマネージャーだった。一年の時から垢抜けた雰囲気で、第一印象はチャラい、だったが他のマネージャーが辞めていく中、引退するまで野球部を支えてくれ、今では芯がしっかりしたやつという認識だ。
「出会いないしな」
翼がそう返すと歩美は笑った。
「出会いなんてあるわけないじゃん、こんな田舎で。クラスとか学校で好きな人いないの?」
翼は一瞬ドキリとしてしまったが、冷静を装って、
「特にいないかな」
と言った。恋愛関係の話をしていると分かったのか、歩美と仲の良い女子たちがわらわらと寄ってきた。
「じゃあタイプは?」
「松村って真央とか超好きそう」
分かるー、と笑う女子たちに、確かに可愛いとは思うが合わないと思う、と告げた。自分が真央の隣にいる姿が想像出来無かった。
「確かに真央は松村は選ばなそー」
「確かにー。真央はもっと爽やかで大人っぽい感じ好きそうだし」
「俺はそれと真逆かよ」
翼はふざけてそう言ったが強ち間違っていないと思った。自分は暑苦しく子供っぽいのだ、そう諭されている気がした。
「松村さー、慶と合いそうじゃない?」
歩美がそう言うと女子は盛り上がった。心なしか後ろで作業しているはずの別の女子たちも盛り上がっていた。
「なんでだよ。あいつ男じゃん」
「なんかさ、慶ってなんか色々気にしない性格じゃん?だからなんかあんたと合うかなって」
歩美にそう言われたが、自分は暑苦しく子供っぽいということが心を支配して、そちらに気をまわす余裕が無かった。そこからはよく覚えていないがただ笑って誤魔化していただけであった。
結局2時間ほど作業していた翼は、美佳たちに怒られた。劇の最後に踊るダンスの練習もあったからだった。こちらを見ながら慶がニヤニヤしていたので、説教が終わった後頭を叩いておいた。