真実在について
真実在とは、本当に存在するものであり、今から語るのは、その存在についてである。
真実在を捉えるには、何かを知るための光だけではなく、何も知ることのできない闇も必要である。
なぜなら、何も知ることのできないことのうちに、積極的な意味があるからである。
何も知ることのできない闇のうちで、何かの動いた感じを捉えたとき、
そこはたちまちに、その何かの気配で満たされる。
つまり闇は、何も知ることのできないゆえに、何かがその気配で満たすための器となりうるのである。
この気配の現れは、おぼろげに輪郭を伴う。
あいまいなイメージとして、形を伴う。
このイメージから、仮初にあいまいさを払拭したものが、理念と呼ばれるものである。
このくっきりとした輪郭を伴った理念を目指して、
先ほどのイメージは暗闇に実際に潜む何かと対応しようとする。
言いかえれば、跡をたどって、暗闇に潜む何かにたどり着こうとする。
そして暗闇から姿を現した何かとイメージが対応したとき、
そのイメージは意味のあるものとなったことになる。
いまや、暗闇の気配はどこかに行き、目の前にはその正体がはっきりと表れている。
そこで安心してはじめて、「私」が生まれるためのスペースが確保できる。
この空所はいろいろな意味のあるイメージで満たされることができる。
しかしまだ、この安心できるスペースは十分に保証されていない。
いつ失われるかわからない、という意味で、真の安定には至っていない。
そこで、先ほどの意味のあるイメージが、物語となって「今」のこの安定を保証しようとする。
そして物語が「今」の起源を指し示したとき、言いかえれば、
このスペースがどこから来たかを語るに足るお話しとなったとき、
ここにはじめて、このスペースの安定が保証される。
そこでようやく、「私」は安心してここに生まれることができる。
しかしもし、まだイメージが不十分なときに、気配の正体が現れたとしたら、
そこには受け身の私がいる。
また、イメージが十分に整ってから、気配の正体が現れたら、
そこには積極的な私がいる。
前者の受け身の私を「客体(対象)的な私」、後者の積極的な私を「主体的な私」と呼び、
それぞれの私が生まれるところのスペースの客体性と主体性を、より具体的に掘り下げていこう。
まず客体性から。
イメージが不十分なときに気配の正体が現れることの具体的な様相は、
他者の語ることばである。
私はつねにイメージをしようと試みるが、つねにそれが裏切られうること、
それは他者のことばである。
つまり、客体的な私とは、他者を前にした私のことである。
もっと言えば、先ほどの気配の正体は他者であったことになる。
次に主体性を。
イメージが十分に整ったうえで、面前に現れるのは、
私にとって「物」であるような存在である。
私のイメージしたとおりに、形をとるものは、物である。
だから、先ほどの気配の正体は物であったことになる。
客体的な私は、他者にとって、お客さんのようなものである。
主体的な私は、物にとって、主人のようなものである。
客人としてわきまえるべきはマナーであり、
主人としてわきまえるべきはもてなしである。
しかしこのわきまえるべきことが守られないとき、
そこに力関係が生まれる。
客人は好き放題に主人のスペースを出入りする自由を主張し、
主人は客人を締め出す自由を主張する。
ちなみに、現代の科学的なあり方は、後者の主人が客人を締め出した状態である。
逆に、このわきまえるべきことが守られたとき、
そこにあるのは調和的な関係である。
この調和のもとで、ふたたび何かの気配に向かうとき、
そこに「他者」でも「物」でもない、本当の存在が現れる。
これが真実在である。